想像通り、とても魅力的な人ですね
フォニスは現在、コロンボの専属作家であるマリアのアパートに居候をしている。
入社して一週間ほどはコロンボで寝泊まりをしていたが、フォニスは会社にいる限り、仕事を口実に限界まで絵を描き続けてしまう。
彼女を倒れさせないためには、筆を取り上げるほかない。
そもそも若い女を――――それもまったく危機感の欠如した世間知らずを、いつまでも男所帯の社屋で寝起きさせるわけにはいかない。
なにかあっては遅いのだ。
フォニスという貴重な人材を、つまらない理由で潰すわけにはいかない。
ジェニオとベアト、二人の経営者は見解を一致させ、フォニスの会社での寝泊まりを禁じた。
そして代わりに用意された寝床が、マリアのアパートだった。
コロンボの社屋がある工場街は人口密集地で、住居の空きはなかなか見つからない。
フォニスはアパートが見つかるまでの間、これまで通り会社での寝泊まりでかまわないと言ったが、ジェニオとベアトはそれを許さず、半ば無理やり、マリアとの同居をこぎつけた。
宿無しのフォニスに選択権はなかったが、家主であるマリアはもちろん、当初フォニスとの同居を拒否した。
一人でも手狭なワンルームに、もう一人置く余裕はない。
そもそもマリアはフォニスになんの義理もない。
なぜよく知りもしない女を部屋においてやらなければならないのか。
マリアの抗議はまっとうだった。
けれどそれが聞き入れられることはなかった。
なぜならマリアはジェニオとベアトに大きな借金があったからだ。
いつも不平不満をたれているが、その借りがあるために、マリアは二人に逆らうことができなかった。
そもそもマリアが住んでいるアパートも会社にあてがわれたもので、彼女自身は契約者でもなければ賃料を納めているわけでもない。
フォニスがそうであったように、マリアにもまた、選択権はなかった。
どちらも不本意ながら、同居せざるを得なかったのである。
***
「遅いです」
無数の靴が積みあがる玄関に座り込んで、フォニスはうなった。
「いったいいつまで待たせるんですか」
膝に肘をつくフォニスの表情は、いつも通りの仏頂面であったが、その口調には刺があった。
「どうせ一日机に向かうだけなのに、どうして着飾る必要があるんでしょう」
「聞こえてるわよ!」
フォニスのひとりごとに、部屋の奥から怒声が帰ってくる。
「待ちぼうけてる暇があるなら、あんたも少しは身なりを整えなさいよ」
「もう身支度はすんでいます」
「起きて顔を洗っただけでしょ」
「髪も結いましたし、服だって着替えました」
「たったそれだけの支度で外に出られるのは子どもだけよ」
老婆だってもう少しやることがあるわ、と言いながら、マリアは入念に口紅を塗りたくる。
「そんなんじゃ婚期を逃すわよ」
「もう逃しています」
平然と返すフォニスに、マリアは眉を吊り上げる。
「まだ20歳じゃない」
「もう20歳ですよ」
「……喧嘩売ってるの?」
「はい?」
問いかけの意味がわからず、フォニスはマリアに視線を投げた。
マリアははみ出した口紅を拭いながら、なんでもないわと憎々しげに言った。
「20歳で結婚なんて、田舎の考えよ」
「都会では違うんですか?」
「……そうよ」
「ではみなさん、いくつくらいで結婚なさるんでしょう?」
純粋な疑問だった。
フォニスに他意は一切なかった。
けれどマリアは鏡台の上に口紅を叩きつけ、怒鳴った。
「知らないわよ!」
マリアは床に散らばったバッグや服を蹴散らし、玄関に座っていたフォニスを押し除け、部屋の外に出た。
「ほら!さっさと行くわよ!」
「……はあ」
いろいろと言いたいことはあったが、面倒になり、フォニスは促されるまま部屋を出た。
*
アパートを出た後、マリアはバスに乗ってコロンボに、フォニスは徒歩で駅前広場に向かった。
マリアのことなど待たずに、さっさと家を出てしまえば、今朝のような口論が起きることもないのだが、ジェニオとベアトに相互監視を命じられている以上、そうもいかなかった。
フォニスはコロンボに行かなければ絵を描くことができない。
そしてそのコロンボには、マリアが出社してなければ入ることができなかった。
マリアを朝起こし、確実に職場へ行かせること。
これがフォニスに課せられた義務だった。
またマリアの方も、フォニスと一緒でなければ退社することを許されていなかった。
就業が深夜になってしまう二人のことを送るのは大抵ベアトかジェニオだったが、彼らは二人が揃った状態でなければ決して車を出そうとはしなかった。
牢獄のような社屋から一刻も早く帰宅したいマリアは、噛みついてでもフォニスからペンを取り上げなければならない。
まるで房を共にする囚人のようだ、と二人はそれぞれ現状に大きな不満を抱いていたが、かといって逃げ出すことは出来なかった。
フォニスには他に行く当てがなかったし、マリアはジェニオとベアトに大きな借りがあり、逃げることができなかった。
二人は見えない鎖で縛られたこの現状を、甘んじて受け入れる他なかったのだ。
薄い雲が日差しを和らげる、過ごしやすい初夏の陽気だった。
休日ということもあって、広場には子どもの姿が多い。
特に広場の中央に位置する噴水の周りは、水遊びや追いかけっこをする子どもたちでいっぱいになっていた。
そんな中で、一人だけベンチに座り込み、新聞を読み耽る少年がいた。
「おはようございます、バーナビーさん」
夢中になって新聞を読んでいたバーナビーは、はっとして顔をあげ、居住まいを正した。
「こんにちは。ジルさん」
お隣邪魔しても?とフォニスが訊くと、バーナビーは頷き、新聞を丁寧に畳んだ。
新聞はもちろんコロンボで、バーナビーが熟読していたのはマリアの連載小説だった。
「今日の『薔薇の木の下で』も、よかったですよね」
昨日試し刷りをもらって帰っていたフォニスは、朝、マリアの支度を待っている間にすでに今日の分を読み終えていた。
数日前から『薔薇の木の下で』は、ヒロインのケイトの住む屋敷にミステリアスな庭師がやってくる、という新展開を迎えており、フォニスから話をふられたバーナビーは、待ってましたと言わんばかりに感想をまくしたてた。
「恋人が行商に出た途端に現れましたからね。これは絶対なにかありますよ。今のところケイトに横恋慕しているだけのように見えますけど、でもそれだけじゃないと思うんです。アンソニーが遠方との取引でヒロインの元を離れたのだって、なんだか急な展開でしたし、入れ替わる様にして彼が現れたのはあまりにも都合がいいといいますか……王都が乱れている、と役人が噂話をしている描写がありましたよね?きっとあれが伏線ですよ。スミス先生は恋愛小説家というイメージが強いんですが、社会派な一面もあって、これまでも作中に世相が反映されたことや社会問題を扱ったことは多くありました。だから今回もきっとその線だと思います。あの庭師は運動家か隣国のスパイの類ですよきっと」
バーナビーの長広舌をフォニスはおもしろがって聞いていたが、最後の推測には納得がいかず首を捻ってしまった。
「うーん、庭師がそんな大それた人物のようには思えませんが……」
「あまりにも怪しいじゃないですか、あのひと」
「怪しいことには怪しいですけど、今のところただケイトに惚れ込んでいるだけ、といったかんじがします」
ケイトもまんざらではなさそうですし、とフォニスが率直な感想を漏らすと、バーナビーは目の色を変えた。
「彼女はそんな人じゃありません!」
バーナビーは興奮して立ち上がり、大きな身振りを交えて熱弁した。
「仮に庭師がスパイでもなんでもなくただ横恋慕しているだけの男だったとしても、彼女は決してそれに流されたりしませんよ!あれだけの苦難を共に乗りこえたアンソニーをあっさり捨てるなんて、ありえません!庭師と距離を縮めているように感じるのは、彼女が底抜けに優しいからです。それに彼女は聡明ですから――――もしかしたら庭師が何者か見抜いたうえで、その悪事を暴くために、あえて近づいているのかもしれません。――――うん。きっとそうだ。そうに違いない。彼女は恋人に危険を及ばせないために、国を守るために身を挺しているんです。移り気なわけでは決してありません」
あまりの剣幕に、フォニスは頷くことしかできない。
わかってくれましたか、とバーナビーは満足そうに鼻の穴を膨らませる。
「まだまだ読み込みが甘いですよ、ジルさん。スミス先生の小説は奥行きがあるんです。都合よくヒロインがたくさんの男と恋に落ちるような、そのへんのロマンス小説とはわけが違うんです」
バーナビーは誇らしげに仁王立ちし、また小説の感想を語り始めた。
フォニスはそれをぼんやりと聞き流しながら、感心してバーナビーを見つめた。
分厚い眼鏡をかけていてもわかるほど、少年の瞳はきらきらと輝いていた。
(すごいですね。マリアさんは)
フォニスは心からそう思った。
(誰かをこんなにも夢中にさせることができるなんて)
まるでヒロインに恋をしているような様子のバーナビーを見て、フォニスは敬服した。
作者本人は横柄で気性の激しい、金遣いの荒いどうしようもない女だったが、小説にはそれを帳消しにしてしまうほどの魅力があった。
(ジェニオさんとベアトさんが囲い込むのも頷けます)
バーナビー同様の熱烈な読者が多くいたため、マリアの元には毎日必ず一枚以上はファンレターが届くほどだった。
嫌々ながらもマリアが新聞社に毎日通うのは、ひとえにこのファンレターのためである。
どうしても気が乗らない日、あるいは新しい男に熱をあげているとき、マリアは仕事を投げ出して逃げる素振りをみせたが、最終的には必ずコロンボに現れ、筆を握った。
それはファンレターを読むためであった。
出社したからには書かざるを得なくなる上、進捗が悪ければ容赦なく軟禁される。
それをわかっていながらも、読者からの感想、ファンレターという餌に抗うことができなかった。
これはジェニオとベアト、二人の敏腕経営者の策略だった。
マリア個人に宛てられたファンレターであれば、マリアのアパートに直接送ることもできる。けれど二人はこれを許さず、宛先が新聞社となるよう、マリアの住所を公開しなかった。
やっかいなファンにおしかけられたら困るだろう、といって二人はマリアを説得したが、ようはマリアを新聞社に通わせるための方便だった。
それだけでなく、なにかと浪費癖のあるマリアに対して、二人はやたらと気前よく金を貸してやっていた。
散財に使われるとわかっていながら、男に貢がれるとわかっていながら、ふたつ返事で金を貸した。
利子はなかった。それでも膨れあがった借金は、容易に返せるものでもなくなっていた。
マリアは気づけば、辞めたくとも新聞社を辞められない身になっていた。
マリアはまんまと二人の策略にはまってしまっていたのだ。
今日もあれだけ文句を言いながら、新しい男のもとへ一刻もはやく足を運びたいと思っていながら、家を出てまず一番に向かうのは新聞社だった。
ファンレターを読むために。
借金を返すために。
なにかとマリアには振り回されるフォニスだったが、これには同情していた。
そしてジェニオとベアトのことを末恐ろしいと思った。
(マリアさんと同じ轍を踏まないようにしなくては)
フォニスはそう自戒していたが、自分がすでに囲い込まれていることには、まだ気づいていなかった。
「聞いてますか?フォニスさん!」
バーナビーの地団駄を聞いて、フォニスははっとした。
「え、ええ、聞いています」
「それならいいですけど――――とにかく、アンソニーから突然便りが途絶えたのには、必ず訳があると、僕は思うんです。入れ替わる様に庭師が現れたことを考えると、彼の謀略にはまった可能性が――――あるいは――――」
とうとうと語り続けるバーナビーの話は、またすぐにフォニスの耳を右から左に流れいく。
(ああ、本当に、この人はマリアさんの小説が好きなんだなあ)
フォニスの手は無意識にペンと紙を求めてさまよい始める。
手持ちの鞄に短い木炭はあるが、紙はない。
座っているベンチに木炭を走らせるが、作られて間もない、まだ防腐剤のよく効いたベンチに、木炭は少しも乗らない。
フォニスはふと、自分の横に置かれた大きな肩掛け鞄に目をとめる。
それはバーナビーの鞄だった。
今朝も新聞が完売したため、中身はすでに空だったが、その外側のポケットに、使い古された万年筆と、質のいい便箋が入ってた。
フォニスはまったくの無意識でそれを手にとり、絵を描き始めた。
はじめにマリアの似顔絵を描いた。
華やかだが時代遅れな髪型。額に持ち上げられた、今風の大ぶりなサングラス。長く濃いまつげに縁どられた気の強そうな瞳と、真っ赤に熟れた煽情的な唇。
全体として気の強い美人、といった風体だが、髪型や瞳の輝きに、どこか少女のあどけなさを内包している。
それがフォニスの描いたマリアだった。
小説の考察に夢中になっているバーナビーは、フォニスの手慰みにまったく気づいていなかった。
フォニスもまたバーナビーにかまうことなく、次の絵に取り掛かった。
マリアの次に描いたのは、マリアの小説のヒロイン、ケイトだった。
『薔薇の木の下で』の主人公である彼女は、マリアとは対照的に、一見するとか弱いご令嬢だが、その内に強い意志を秘めている。
かわいらしい見た目に、燃えるような強い眼差しをもった女性を思い浮かべながら、フォニスはケイトを描いた。
そして続けざまに、ヒロインの相手役である男性、アンソニーに取り掛かる。
自由奔放な商人を気取る彼であるが、性根は真面目な努力家だった。物語の序盤ではケイトを振り回すようなことばかりしていたが、今では立場が逆転しかかっており、ケイトの無茶にアンソニーが付き合う、といった描写もままあった。
フォニスはそんなアンソニーを、目鼻立ちのはっきりした顔に、困ったような笑みを浮かべる男性として描いた。
「……ちょっとちがうと思います」
いつの間にかフォニスの手元を覗き込んでいたバーナビーが、不満げに言った。
「悪くはありません。でも、二人は恋愛小説の主人公なんですよ?もっときらきらしていてもいいんじゃないですか?」
「そうですか、では――――」
フォニスは言われたままに手直しを加えようとして、はっと顔をあげた。
「――――バーナビーさん、よくわかりましたね。わたしがケイトとアンソニーを描いたって」
「一目でわかりましたよ」
バーナビーは得意げに胸をはった。
「『薔薇の木の下で』に挿絵はありませんが、僕ほど熱心な読者ともなれば、一目瞭然です。それにフォニスさんは絵がお上手ですから、スミス先生が書くふたりの特徴をよく捉えていると思います」
でも、と、バーナビーは上から目線なものいいで続ける。
「まだ完ぺきではないです。もっと詰めれると思います。――――フォニスさんは二人をどういうふうに解釈して、これを描いたんですか?」
問われたフォニスは、描きながら考えていたことをそのまま口にした。
バーナビーは大げさな相槌を何度も挟んでそれを聞いた。
「素晴らしいです!でも、まだ甘いですね。例えば連載第32回でケイトの髪についての描写があります。――――『強風に吹かれてなお、彼女の髪はもつれることなく軽やかに踊っていた』――――これを踏まえると、ケイトはとてもしなやかな長髪の持ち主だということが――――」
バーナビーはまた長広舌を始める。
フォニスは先ほどよりは身を入れてそれに話を聞きながら、彼の解釈に沿って、ケイトを書き直していった。
「――――うん、これです。これこそケイトとアンソニーです!」
小一時間ほどして、二人はようやくケイトとアンソニーのイメージ画を完成させた。
「僕の想像通りです。僕の頭の中の二人が、そのまま絵に描かれています」
バーナビーは小説の感想を語っていた時とは打って変わり、齢相応の、無邪気な笑顔ではしゃいでいた。
「本当にすごいです、ジルさん」
「すごいのはバーナビーさんですよ」
フォニスは自分が描き上げた絵を眺めながら感嘆した。
「自分で描いておいてなんですが、これはたしかに、間違いなく、ケイトとアンソニーですね。物語の登場人物を絵に描くなんて子供のとき以来ですが、こんなにうまくいくとは思いませんでした」
バーナビーさんのおかげです、とフォニスは敬意の眼差しをバーナビーに向けた。
「わたしの想像力だけでは描ききることはできませんでした」
それを聞いたバーナビーは、頬を赤らめて口ごもる。
「そ、そんなことは……」
「バーナビーさんから二人のことを詳しく教えてもらったから描けました。説明もお上手でしたし、とても親身で、まるで二人の親友から話を聞いているみたいでしたよ。バーナビーさんはケイトとアンソニーのことが本当に大好きなんですね」
「それは、もちろん、そうですけど……」
「それに、本当によく物語を読み込んでいらっしゃいますね。わたしも真剣に読みましたが、バーナビーさんの解釈を聞いてると、読み流してしまっていた部分がこんなにもあったのかと驚きました。それに、おはなしの中にあんなに小さな仕掛けがたくさんあるなんて、言われるまでさっぱり気づきませんでした。あんなにちょっとした、作者のイタズラのような小ネタまで逃さず拾うなんて、素晴らしい読者ですね」
大人からはこましゃくれたガキだと煙たがられ、同世代からは大人ぶったおかしなやつだとのけ者にされているバーナビーにとって、フォニスのまっすぐな誉め言葉はとてもこそばゆいものだった。
「――――そ、そういえば、さっき描いていた、こっちの人は誰なんですか?」
照れ隠しのために話題を変えたバーナビーは、フォニスが手慰みに描いた、マリアの似顔絵を指して聞いた。
「『薔薇の木の下で』の登場人物にしては、現代的な感じがしますが……」
「ああ、それはマリアさんです」
「……スミス先生?」
フォニスから似顔絵の描かれた便箋を受け取ったバーナビーは、そのままぴしりと凍り付く。
「……バーナビーさん?」
フォニスが声をかけても、バーナビーは便箋を凝視したまま動かない。
フォニスは困惑したが、すぐに理由を察し、慌てて謝罪した。
「似ていませんよね。すみません。不愉快にさせるつもりでは……」
バーナビーはマリアの熱烈なファンである。
その彼に、誇張して描いたマリアの似顔絵を見せるなど、愚行でしかない。
きっと嫌な顔をされるだろう。
フォニスはそう思って身構えたが、予想に反して、バーナビーの表情は変わらなかった。
似顔絵を見つめたまま、どこか夢見心地で、ぽつりとつぶやくだけだった。
「はじめて見ました」
「え?」
「スミス先生は、こんな方なんですね」
「えっ」
フォニスは驚き、目を瞬く。
「会ったことないんですか?」
「はい」
「顔を見たことも?」
「ありません。スミス先生は過去の単行本でも著者近影を載せたことがないので――――だから僕は今日はじめてスミス先生を見ました」
こんな人なんですね、と言うバーナビーは、フォニスの描いたマリアに、すっかり心を奪われている様子だった。
マリアの小説について語っているとき以上に、その目は熱を帯びていた。
フォニスはそんなバーナビーを見て、さらに驚き、困惑した。
バーナビーがマリアの大ファンであるということは、フォニスのみならずジェニオもベアトも承知していた。
二人ともバーナビーのことを弟分のように扱っていたし、一度くらいは会わせたことがあるだろうと思い込んでいたのだ。
(それがまさか、顔も知らないとは)
初めて見たマリアの顔が、自分の絵でよかったのだろうか。
懸念したフォニスは、おそるおそる訊ねてみた。
「想像とは、違いましたか?」
「はい」
バーナビーは即答した。
「深窓の令嬢のような人を想像していました」
それは本人とも、似顔絵ともかけ離れている。
フォニスは少年を失望させてしまったかもしれないと、慌てて取り繕った。
「あの、これはあくまで似顔絵で、それもわたしの記憶を頼りに描いたものなので、たぶん、実際のマリアさんとはかけ離れています。だから、その、イメージと違って当然なんです」
がっかりしないでください、というフォニスの励ましを受けて、バーナビーはようやく似顔絵から顔をあげた。
その目は失望に沈むどころか、希望に輝いていた。
「がっかりなんてしていませんよ。想像とは違いましたが、素敵な人だと思いました。――――想像通り、とても魅力的な人ですね」
眼鏡の奥でうっとりと目を細めるバーナビーを見て、フォニスはぽかんと口を開ける。
「ジルさん、この絵、もらってもいいですか?」
「え、ええ。もちろん。かまいませんよ」
「ありがとうございます!」
バーナビーは満面の笑みで、マリアの似顔絵を鞄にしまい込む。
(……まあ、なんにせよ、喜んでいただけたならなによりです)
フォニスが安堵したのもつかの間、あれっと、バーナビーが声をあげる。
「便箋がない……」
鞄の中に入れておいたはずの便箋と万年筆がなくなっていることに、バーナビーはそこでようやく気が付いた。
「なんで――――」
狼狽えたのは一瞬だった。
バーナビーはフォニスが手にする万年筆と、ケイトとアンソニーが描かれた便箋を見て、すぐに犯人を知る。
「あっ」
バーナビーの鋭い視線を受けて、フォニスもようやく気が付く。
自分が少年のものを勝手に使っていた、ということに。
「――――ジルさん」
「……はい」
「人のものを使うなら、一言断るべきですよね?」
ぐうの音も出ず、フォニスは縮こまる。
「おっしゃる通りです。つい、その、描きたくなってしまって……」
「つい、なんて分別のつかない子供の言い訳ですよ」
七つも年下の少年から、フォニスはそう諭されてしまう。
「ジルさんのそれは、泥棒と同じです。あなたにとってただの便箋でも、これは僕にとって大切な――――」
言いかけて、バーナビーは顔を青くする。
「――――待って、もしかして、全部使っちゃったんですか?」
バーナビーはフォニスの手から便箋を奪い取る。
見ると、フォニスが持っていた十枚の便箋は、すべて絵が描かれていた。
ケイトとアンソニーのイメージ像を固めるために、便箋はすべて消費されてしまっていた。
「まだ今日の分の感想書いてないのに……」
便箋は、マリアへファンレターを送るためのものだった。
安物ではない。飾り気はないが手触りのいいその便箋は、敬愛する作家に失礼がいないように、と、貧しい少年が小遣いをはたいて買ったものだった。
フォニスが自分の過ちに気付いた時はもう遅かった。
「新しいの買うお金なんてないのに――――」
バーナビーの両目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
フォニスはぎょっとして平謝りする。
「本当にすみません。あの、弁償します。倍にしてお返しします。すぐに必ず……明日にでもお届けするので……」
「今日の分をまだ書いてないんだ!」
眼鏡に涙の水滴をつけながら、バーナビーは首を振った。
「毎日ずっと送ってるんだ――――ファンレターは――――明日じゃ遅いんだ――――!」
バーナビーの泣き声は次第に大きくなっていく。
周囲にいた子供たちの視線が二人に集まり、まずい、とフォニスは狼狽える。
(このままでは通報されてしまいます)
とにかく泣き止ませなくては、とフォニスは慌てて宥めにかかる。
「そ、それなら、今日、いまから一緒に買いに行きましょう」
フォニスがぎこちない笑顔を浮かべて言うと、バーナビーはようやく泣き止んだ。
「……ほんとに?」
「え、ええ。もちろんです。すぐに行きましょう」
フォニスはバーナビーの手を引き、その場から逃げるように離れていった。
*
近くの文具屋で百枚の便箋の束をバーナビーに買い与えてから、フォニスはコロンボへ向かった。
時刻はすでに15時を回っている。
定時はないが、それにしても遅い出社となってしまった。
ふだんのフォニスであれば、一刻もはやく仕事に取り掛かりたいと、絵を描きたいと足を速めるとことであっただろうが、今日の足取りは重かった。
すでに何枚か絵を描いたあとであったし、バーナビーを宥めたこともあって、疲弊してしまっていた。おまけに昨日からろくにものを食べていないのだ。さすがのフォニスも、いまは絵を描くよりもなにか食べたい、と考えていた。
けれどフォニスは便箋を買うのに有り金をはたいてしまっていた。
パンのひと切れも買えないフォニスは、仕方なく、亀のような歩みでコロンボへ向かっていた。
「お前かよ」
そんなフォニスの前に現れたのは、首からカメラを提げたベアトだった。
「どこの病院から抜け出してきたババアかと思ったぞ」
「……本当に失礼な人ですね」
フォニスが力なく反論すると、ベアトは双眸を細めた。
「おい」
「はい」
「お前、飯くってないだろ」
「……なんのことでしょう?」
「とぼけんなよ」
フォニスは降参するように両手をあげ、聞いてください、と言った。
「これには深い訳が――――」
「言い訳はあとで聞いてやる」
ベアトはそう言うと、問答無用でフォニスの腕をつかみ、人通りの少ない裏道へと引っ張って行った。
(今日は厄日かなにかなんでしょうか……)
これから落とされるであろう雷に怯えながら、フォニスは快晴の空を仰ぎ見た。




