昼を食べ損ねたらなら夜をたんまり食べればいいのよ
階段を下りながら、ベアトはこんこんと説教をした。
「――――飯を食うことも仕事だと思え。倒れて給料分の仕事ができなくなったらどうするんだ」
半ば脅すような口調のベアトに、まるで母のようだ、とフォニスはうんざりしながら思った。
フォニスは食事に無頓着で、一度絵に熱中すると、数日なにも食べないことなどざらにある。
母親にはそれでよく叱られていたが、ここにきて雇い主である男性に同じような叱責を受けるとは、フォニスは思ってもみなかった。
しかしベアトの反応も無理はなかった。
なぜならこのフォニス・ジルという女には、生活能力というものがおよそ欠如していたのだ。
根っからのワーカーホリックであったのだ。
入社してから今日まで、フォニスの絵が新聞に載らない日はなかった。常人であれば辟易するであろう仕事量だったが、フォニスにとってはむしろ僥倖で、倒れるまでペンを離そうとしなかった。
はじめはフォニスの仕事ぶりを喜んでいたジェニオとベアトであったが、空腹と睡眠不足でフォニスが倒れかかったことをきっかけに、態度を改めた。
両者とも、自他ともに認めるワーカー・ホリックであったが、フォニスのそれはさらに上を行く。
こいつは無理にでも休ませなければならない。
事態を深刻に捉えた二人は、以降午前0時にはフォニスから仕事を取り上げるようになった。アパートに画材を持ち込むことを許さず、昼の出社前には必ず食事をとってからくるよう厳命した。
フォニスは平日であれば駅前のレストランでサンドウィッチをテイクアウトし、休日であればバーナビーの売るサンドウィッチを買った。そしてそれを食べながら駅から社屋まで徒歩一時間強の道のりを運動のため歩いて出社する。
すっかり日課となっていたどの義務をサボったことで、フォニスは説教を受けているのだった。
「今日は仕方なかったんですよ」
いつまでも小言を続けるベアトに辟易し、フォニスは弁明を試みる。
「マリアさんが起きてくれなくて、部屋を出られなかったんです」
だから部屋の中にあったチョコレートボンボンを食べるしかなかったんです、とフォニスは訴えたが、ベアトが取り合うことはなかった。
「本気で起こさなかったんだろ。マリアの寝坊を理由にすりゃ、バスに乗ってきても文句は言われねえからな」
図星だった。
やはりこの人には敵わないと、フォニスは諦めて閉口した。
「遅い!」
二人が社屋を出ると、正面に止まっていた車の中から、マリアが顔を覗かせていた。
「一体いつまで待たせるのよ!こっちは疲れてるっていうのに、なにをぐずぐずしてるの!?」
マリアは夜だというのにサングラスをかけていた。
髪の毛は乱れ、白粉も崩れかかっていたが、口紅だけはつい先ほど引きなおしたと見えて、熟れた果実の様に艶やかに光り輝いていた。
「いいご身分だな」
ベアトは毒づきながら、後部座席の扉を開き、小脇にかかえていたフォニスを押し込んだ。
「フォニス、次遅れたら容赦しないわよ」
ベアトに無理やり押し込められたことで、フォニスは先に座っていたマリアの膝に頭を預けるような姿勢となる。
フォニスは真っ赤に塗られた唇を至近距離で見上げて、思わず唾を飲み、ぐうと腹の音を鳴らした。
「……はあ?!」
マリアは素っ頓狂な声をあげたが、運転席に座ったベアトは、ほらな、と言って乱暴に扉を閉めた。
「ちゃんと食わねえから、こんな臭いの中でも食欲がわくんだ」
こんな臭い、とは、車内いっぱいに香るマリアの香水のことを指していた。
「天下の恋愛小説家とは聞いてあきれるな。香水のつけ方ひとつまともに知らねえんだから」
「うるさいわよ!」
マリアはピンヒールで運転席の背もたれを乱暴に蹴りつける。
するとベアトはお返しとばかりに車を急発進させた。
「うげっ!?」
「あっ」
反動を受けたマリアとフォニスは、後部座席で跳びはね、もみくちゃになった。
「危ないじゃない!」
金切り声をあげるマリアに、はやく帰りたいんだろ?とベアトは返す。
「だから急いでやったんじゃねえか」
「あてつけ言わないで!」
マリアはまた運転席の背もたれを蹴りつけようとしたが、ベアトは急ブレーキをかけてそれを阻止する。
「うぐっ!」
「んっ」
マリアとフォニスは、前席の背もたれに勢いよく頭をぶつけた。
悶絶しながら、二人はお互いにもたれかかるような姿勢になる。
「……これも全部あんたのせいよ、フォニス」
運転中のベアトにつっかかっても痛い目を見るのは自分だ。そう悟ったマリアは、苛立ちの矛先をフォニスへと変えた。
フォニスもしかし、黙ってやられるわけではない。
鞭うった首をさすりながら、責任転嫁です、と抗議した。
「今のはどう考えてもぜんぶ、マリアさんが悪いですよ」
「あんたがすぐに降りてくれば、こいつの態度ももう少しはマシだったわよ」
「ベアトさんを怒らせたのは、どう考えてもマリアさんだと思いますが……。だいたい、マリアさんだって今日寝坊したじゃないですか。帰りがすこし遅れたくらいで、文句言わないでくださいよ」
わたしは今朝ずいぶん待ったんですよ、というフォニスに、だから?とマリアは悪びれずに言い放った。
「いまさら文句を言わないでよ。起こさなかったのはあんたでしょ?」
「……明日からは必ず起こします。マリアさんが起きるのを待っていたら、ご飯も食べれないし、絵を描く時間が減るということがわかったので」
「昼を食べ損ねたらなら夜をたんまり食べればいいのよ。そうしなかったのだって自分じゃない」
コロンボではほとんどの社員が昼頃に出社し、午前0時過ぎまで働く。そのため昼食を済ましてから出社し、夕食を中抜けして食べに行く社員がほとんどだった。
しかしフォニスは出社するとすぐに資料庫に籠り、それから終業まで一切筆を離そうとしなかった。
「これに懲りたら二度とあたしの誘いを断らないことね」
マリアはそんなフォニスを、いつも夕食に誘っていた。自分の原稿から逃避することが第一の目的であったとはいえ、飲まず食わずのフォニスを心配する気持ちもそこには確かにあった。
しかしフォニスは、そんなマリアの誘いに応えたことは一度もない。
躊躇いなく断るか、集中のあまり無視するかのどちらかだった。
なにしろ三度の飯より絵を描くことが好きな女である。オーバーワークを懸念され、社外に画材を持ち出すことを禁じられているフォニスは、出社している間しか絵を描くことができなかった。その限られた時間を食事のために費やすなど、フォニスには考えられないことだった。
それでもマリアは毎日声をかけてきたし、飲み物や軽食を差し入れてくることもあった。
そんな夕食事情を、これまでの親切を持ち出されては、さすがのフォニスも弱ってしまい、仕方なく頷いた。
「……明日はご一緒します」
「そうしなさい!とっておきのレストランに連れて行ってあげるわ!」
踏ん反り返るマリアの横で、フォニスは項垂れた。
これで明日は確実に夕食に出なければならない。
絵を描く時間は間違いなく減るだろう。
「本当にお前は絵描き馬鹿だな」
煙草に火をつけながら、呆れたようにベアトは言った。
「いい機会だ。飯にいくなら、ついでにマリアに爪の垢を煎じて飲ませてやれ」
この言葉には、フォニスより先にマリアがむっとした表情を返した。
「なんであたしがこの子の垢なんか飲まなきゃいけないのよ」
「仕事をぶりを見習えって言ってるんだ」
「あたしだって毎日小説載せてるじゃない。仕事量はおんなじよ」
「毎日入稿時間ギリギリのやつがなにいってやがる。フォニスは夕飯時にはその日の仕事を終えてるんだ。お前がサボらず真面目にやってりゃ、本当は二人とももっとはやく帰れるんだからな」
それは困る、とフォニスは思った。
マリアの仕事が早く終わってしまえば、フォニスが会社にいられる時間、つまりペンを握っていられる時間も短くなる。
「息抜きの時間も許されないわけ?」
「息抜きに許される時間は煙草一本分までだ」
「短すぎるわよ」
フォニスはすかさずマリアに同意した。
「それは短すぎます。もっとちゃんと休息をとらないと――――」
「お前は黙ってろ」
考えはまるわかりだ、と言わんばかりに、ベアトはフォニスを一蹴した。
「下手にマリアの肩を持ってみろ。両手を縛り付けてでもお前の仕事量を減らしてやるからな」
てきめんの脅しだった。
閉口し、目を逸らすフォニスを見て、マリアは幽霊でも見るかのような表情を浮かべる。
「とにかく、3時間は長すぎる」
ベアトは煙草の煙を吐き出しながら言った。
車内に充満する煙にマリアはわざとらしく咳き込み、窓を大きく開く。
「……そんなに休んでないわ」
「いいや。きっかり3時間、お前は今日裏通りの茶店に入り浸ってた」
記者を舐めるなよ、とベアトはマリアに威圧的な視線を送った。
「新入りの給仕にずいぶん入れあげてるようだな?――――やめとけよ。どこの馬の骨ともしれねえ流れもんだ。また金をむしり取られるだけだぞ」
「彼はそんな人じゃないわ!」
マリアは身を乗り出し、ベアトの口から煙草を奪う。
「あっ、てめえこの―――」
「彼は本当に素敵な人なのよ……優しいし、あたしの小説のファンだって言ってくれたし……」
マリアはうっとりとした顔で燻る煙草を見つめた。
「彼が握ってくれたあたしの手に、煙草のにおいが移ってたの。――――あたし、煙草って嫌いよ。臭いし、息がつまるし――――でもどうしてかしら、彼に移されたにおいを嗅いだ時も、同じように息がつまったのに、でもそれは全然嫌なかんじじゃなくて、むしろ――――」
ベアトはマリアの手から煙草を奪い返したが、マリアは気づいてもいないようだった。
「むしろ――――なにかしら?ああ、うまく言えない……。あたしったら小説家失格ね……。でも仕方ないわね。だってこんな気持ち、いつぶりかしら?そうよ、きっと、だから今日は筆の乗りが良かったんだわ。彼との出会いが、灰色だったあたしの日常を変えてくれたから――――」
フォニスとベアトはミラー越しに視線を交わす。
また始まった、と。
「マリアさん、二週間前も行商人の青年に同じことを言っていましたよ」
「その後どうなったんだった?」
金をまきあげられて、逃げられた。
何度同じ目にあってもまったく反省を見せないマリアに、フォニスとベアトは容赦なく冷や水をかける。
しかしマリアはまるで聞く耳を持たない。
どこか芝居がかった様子で、サングラスを外し、視線を窓の外へ向けた。
車はちょうど橋を渡っているところだった。
街灯や建物のからもれる明りできらきらと幻想的に煌めく水面を、マリアは熱を帯びた瞳で見つめる。
本人は自身の小説に出てくるヒロインのような心もちであったが、ベアトやフォニスから見れば、落ちたマスカラで隈ができているせいもあり、本当に熱病に罹っているようにしか見えなかった。
「出会って間もないのに、もうこんなに、あたしの心は彼でいっぱいになってる。きっとあたしたち、運命なのよ。出会うべくして出会ったのよ。神様に祝福された出会いだったのよ。――――これまでのろくでなしの男たちはみんな、彼との仲を引き裂くために悪魔がつかわせたんだわ。でもあたしはそれを乗り越えた。だから――――ああ!それでもまだ試練は続くわ!あたしも彼も、貧しくって、囚われの身で――――」
プァアーーーー!
クラクションを派手に鳴らし、ベアトはマリアの長回しを遮った。
前後と反対車線を走る車が驚き、抗議のクラクションを打ち鳴らし、周囲はちょっとした騒ぎになる。
マリアとフォニスは思わず耳を塞ぎ縮こまったが、元凶のベアトは平然とした様子でスピードをあげ、強引に周囲の車を抜いていった。
「……大国では車の運転に際し免許を設けるという動きがあるそうですが、うちでも実施されてほしいですね」
フォニスの呟きに、マリアも同意する。
「そうなればまず間違いなくこいつは運転できなくなるわね。最高。そのための政治運動なら諸手をあげて参加するわ」
ベアトは二人の言葉を無視して、新しい煙草に火をつける。
「――――で、いくら貸したんだよ?」
「お金なんて貸してないわ!」
「じゃあ名義か?なんでもいいが、犯罪の片棒だけは担ぐなよ。それとよそで借金を作るのもナシだ」
「彼はそんな人じゃないって言ってるじゃない!」
マリアは激昂して、でも、と付け加えた。
「彼いま、住むところが無くて茶店のキッチンで寝泊まりしているらしいの。昼間でも鼠がはい回っているようなところよ!雨漏りもするし、すき間風もあるし――――それで、かわいそうだから、うちで寝泊まりしたらいいわ、って言ったの」
マリアの言葉に、フォニスがえっと裏返った声をあげる。
「まさか、では、すでに家に……?」
マリアは急にしおらしくなって首を振る。
「それがね。彼ったら、そんな迷惑をかけるわけにはいかないって、固辞したの……。あたしにそんな迷惑をかけたくないって。――――本当に優しい人なのよ。でも、だからこそ、あんなところで放っておけないわ。せめて天気の悪い日だけでも、うちに泊まってもらおうと思ってるの。引っ張ってでもね」
「それは――――でも、その場合、わたしはどうなるんですか?」
「あんたはどこだって寝れるじゃない。その日だけは会社に泊まればいいわ」
よかったわね、とマリアは悪びれずに言う。
「一晩中好きなだけ絵が描けるわよ」
魅力的な誘いだったが、ベアトとジェニオが許すはずもない。
フォニスはベアトの顔を窺ったが、もう相手にするのが疲れたと見え、ただ肩をすくめて煙を吐き出すばかりだった。
こうなったマリアにはもうなにをいっても無駄だ。
それはフォニスもわかっていたことだったので、諦めて、ただ成り行きに任せようと思った。
マリアの横暴はいまに始まったことではない。
マリアのアパートに居候をするようになってから数週間で、フォニスはそれに振り回されることに、すでに慣れ始めていた。




