アンタが描いたのか?
「―――やってしまいました」
スケッチブックに落ちる明りが、夕暮れの橙色から街灯の橙色へと変わった頃、ようやくフォニスは我に返った。
「貴重な紙だったのに……」
フォニスは鳩で埋め尽くされたスケッチブック見て嘆いた。
その画用紙は高価なものだった。
宮廷勤めであればいざ知らず、今日寝る場所もないフォニスでは、次いつ手に入れられるのかわからない。
「大事に使おうと思ってたのに……」
フォニスはクビを宣告された時よりよほど落ち込んだ様子で、なめし皮の表紙を撫でた。
「参りました。……本当に、これからどうしましょう」
群がっていた鳩たちは、すでにねぐらへ帰ってしまっている。
フォニスは鳩たちに与えていた消しゴム用の固いパンをかじった。
付着した木炭も相まって、まるで砂利を食べているようだった。
今日どこで夜を明かすのか。
明日からの生活はどうするのか。
考えなければならないことは山ほどあったが、フォニスの頭を占めるのは、どうやって紙を手に入れるか、ただそれだけだった。
フォニスはパンを嚙み砕きながら、スケッチブックを開いた。
一枚一枚、時間をかけて眺める。
パンを啄む鳩。
次つぎに飛び立っていく鳩。
正面から見た鳩。
人間のように整列し、それぞれポーズを決める鳩。
椅子に座って、人にパン屑を投げる鳩。
スケッチブックは、そんな自由闊達な鳩の絵で埋め尽くされ、白紙のページは一枚しか残っていなかった。
フォニスはため息をついてスケッチブックを閉じた。
そこでようやく気が付いた。
自分の隣で、腹を抱えて笑っている人物がいることに。
「なあそれアンタが描いたのか?」
ハンチング帽をかぶった、新聞記者のような身なりのその男は、フォニスの手からスケッチブックを奪い、パラパラと眺めた。
そして声をあげて笑った。
「どれもこれも傑作だな」
さすがのフォニスも、これには腹を立てた。
絵柄を馬鹿にされることには慣れっこだったが、ここまではっきりと、面と向かって笑われたのは初めてだったのだ。
フォニスはいきり立ち、男からスケッチブックを奪い返した。
「失礼ですよ」
フォニスはその場を立ち去ろうとしたが、男に腕をつかまれてしまう。
「待てよ」
「なんですか。大きな声を出しますよ」
「おいおい、そんなことして、誰かが助けてくれると思うのか?」
フォニスは首を傾げた。
首都郊外の賑やかな街の駅前広場だ。最終列車がいってしまったとはいえ、人通りはまだ十分にある。
女が悲鳴をあげればすぐに助けが来るだろうと、フォニスは考えたのだ。
しかし男は呆れたように言った。
「アンタとんでもねえ田舎モンだろ。もしくは貴族の家出お嬢様」
フォニスは答えず、男の腕を振り払おうとした。
けれどびくともしなかった。
男は細身で中性的な、いかにもひ弱そうな見た目に反して、かなりの腕力があった。
目つきの鋭さも含め、どこか荒事に慣れている様子だった。
「―――いや、お嬢の線はナシか」
男はフォニスの、木炭で黒く染まった手を見つめ、言った。
「貴族のお嬢が手ならいで描いたもんかとも思ったが、しかしそれにしちゃアンタの手はできすぎてる。タコまみれの、絵描きの手だ。とすりゃあ、アンタは田舎モンのお上りさんだ。街の娘なら、こんな時間に一人で出歩くなんて馬鹿な真似はしないからな」
勝手に推理めいた物言いをする男に、フォニスはしかし、返す言葉もなかった。
フォニスは確かに田舎者だった。
列車も通らない僻地の村落で生まれ育ったフォニスは、18歳で宮廷画家の職を得て、はじめて首都にやってきた。
それから今日までの2年間、フォニスは宮廷からほとんど外に出たことが無かった。
来る日も来る日も絵を描き続けていたのだ。
宮廷では高価な画材をいくらでも使うことができた。豪華絢爛な城内に、広大な庭園、同じ人とは思えないほど美しく着飾った貴人たち。描きたい題材も有り余るほどあった。
衣食住、そして絵を描く環境が揃っていた宮廷をわざわざ出る必要はなかった。
そのためフォニスは、首都に二年も暮らしながら、そこで人びとがどういうふうに生活をしているのか、街での常識というものをまるで身につけていなかった。
「たしかにわたしは田舎者です」
フォニスは抵抗を諦め、もうどうにでもなれと、つっけんどんに言い返した。
「芋臭い行き遅れの女です」
「そこまでは言ってねえだろ」
「ですからあなたのような都会の男性には不釣合いです」
「……おい。なにか勘違いしてないか?オレは別に、アンタを手籠めにするために声をかけたんじゃねえぞ」
「身ぐるみを剥いでもかまいませんが、ご覧になればわかる通り、わたしは価値のあるものなんてなにひとつ持ってはいません。服は着古した年代物ですし、鞄の中身も、画材を除けば、ろくなものではありません」
「オレが物取りに見えるか?」
「お金はここに来る前に、もう盗られてしまいましたので、無一文どころか財布すらない有様です」
「話を聞かねえやつだな」
男は呆れてため息をはき、フォニスから手を離した。
そして懐から銅貨を1枚取り出すと、フォニスに差し出した。
「お恵みですか?」
「残念だったな。オレは慈善家じゃない」
「でしたら、わたしはそれと交換できるものを、なにも持ち合わせていませんよ」
「腕があるじゃないか」
「腕?」
男はにやりと、含みのある笑みを浮かべて言った。
「この金で絵を描いてくれよ。―――オレの似顔絵を」