鳩がなにを喚こうとも、それを理解できる人間はいないし、誰もしようと思わない
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フォニスがコロンボにやってきてからひと月とすこし。
女王の崩御以来下落の一途だった売り上げは、破竹の勢いで伸びていた。
コロンボは週刊紙から日刊紙へ代わり、首都のみならず地方へも発送されるようになった。
フォニスの絵は毎日一面を飾っている。
ある日は腐敗した宮廷内部を揶揄する風刺絵を。
ある日は川でおぼれた少年を勇敢な犬が助けたという心温まる記事の挿絵を。
またある日は、女王の弔問に訪れた隣国の王太子の肖像画を描いたこともあった。
どれも反響はよかったが、とくに王太子の肖像画が掲載された日は各売店で売り切れが相次ぎ、新聞を求める婦女子の長い列が新聞社の前にできたくらいだ。
それほどにフォニスの描いた王太子は魅力的だった。
フォニスはその王太子と宮廷画家時代に一度だけ接見したことがあった。
特段容姿が優れていたというわけではなかった。しかし彼は品行方正で礼儀正しく、どこか浮世離れした穏やかさを持つ人物だった。
一言挨拶を交わしただけだったが、フォニスは彼を印象強く覚えていた。
まるでおとぎ話の中を生きているような人だ、と。
フォニスはイメージをそのままに肖像画を描いた。
現実の本人とはとても似ていなかったが、それでも王太子を知る人が見れば一目でわかっただろう。
澄んだ瞳で微笑みかけてくる青年の絵に、世の女性は虜となった。
「オレとベアトの肖像画より評判がいいのは腑に落ちねえけどな」
意外にもジェニオはそうぼやくだけで、王太子の絵の評判にはあまり納得がいっていない様子だった。
ともあれ、フォニスの絵が載る様になってからたったひと月で、コロンボの売り上げは倍増していた。
女王の崩御前の水準をとうに越し、この勢いが続けば過去最高益が見込まれるというところまできていた。
これにはジェニオだけでなく、社員全員が歓喜した。
起爆剤はフォニスの絵だったが、フォニスの絵だけを目当てに新聞を買う人間ばかりというわけではなかった。
フォニスの絵だけではなく、コロンボそのものの評判がよかったのだ。
コロンボに掲載される記事は、他社のように宮廷に過剰におもねることがなかった。
新国王の問題点や宮廷の腐敗、横行する汚職についての記事が多く、またその内容も歯に衣着せぬ批判的なものがほとんどだった。
基本的には反政権、左よりの新聞であったが、かといって市民の完全な味方というわけではなく、労働者階級に対する痛烈な皮肉を書き連ねることもあった。
『不平不満をいくら喚こうとも、お上は耳障りだとしか思わないだろう。鳩がなにを喚こうとも、それを理解できる人間はいないし、誰もしようと思わないように。――――騒音に耐えかねて餌をばらまくくらいのことはするかもしれないが、鳩の訴えが聞き届けられることはなく、その窮状は変わらない。しかし餌を前にして鳩たちは鳴くことを忘れる。一時的にでも腹が満たされたことで、鳩たちは満足し、飛び去って行ってしまう。お上はほっと胸をなでおろすだろう。そして羽毛と糞で汚れた庭先の掃除をはじめる。さんざん喚きたてて、鳩たちが得ることができたのは、お上の一食分にも満たない、わずかな餌だけだ。――――これは多いのだろうか?少ないのだろうか?100回繰り返しても、所詮鳩では、答えなど出せないであろう』
コロンボ――――新聞の名に「鳩」を冠しておきながら、鳩を民衆に例え、皮肉を綴ったこの文章には抗議が殺到した。
しかしコロンボは怯むどころか挑発的に、ならば近隣諸国のような革命運動でもはじめたらどうだ、と返す有様だった。
火に油を注ぐような対応に、読者の反応は三手に分かれた。
まず、ケンカ腰になって怒り狂う者がいた。彼らはコロンボを罵り、社屋に石や空き瓶を投げた。これは労働者階級の新規読者に多く見られた反応だった。
それから呆れる者たちがいた。彼らはコロンボという創業5年の若き新聞社を、文字通り若者とみなし、血気が盛んなことだ、と一歩引いたところから眺めていた。これはフォニス登場以前からの購読者層の反応だった。
そして最後に、コロンボの賛同者がいた。彼らはコロンボに同調し、現状の国政と国民を皮肉交じりに批判した。
ほとんどが若い読者である。
彼らはこの国のあらゆる腐敗を嘆くでも批判するでもなくただ嗤っていた。
すべてを冷めた目でみやり、頭上を覆う不況の雲にも、近づく軍靴の足音にも、ただ冷笑を向けるだけだった。
コロンボはまるで自分たちの代弁者とでも言わんばかりの顔で、賛同を送っていた。
現時点でコロンボが最も支持を集めていたのは、若者だった。
女王の崩御以降、暗雲が立ち込め、先行きが見えなくなったこの国に失望し、諦観を抱くようになった労働者階級の若者たちが、コロンボの最も熱心な読者となっていた。
フォニスの絵と、マリアの小説。広告を兼ねた写真付きのグルメコラムなど、他社の新聞にはない、娯楽的な要素の多さも、若者を惹きつける要員のひとつであった。
それを通俗的だと非難する声も少なからずあったが、編集長を務めるベアトは歯牙にもかけなかった。
「朝の忙しいときに片手間で読むのが新聞だ。フルコース作ってどうする。全部ひとまとめにしてパンで挟んで食うくらいのもんでいいんだ。ハンバーガーでいいんだよ、新聞は」
これはベアト一人の言ではなく、コロンボの記者全員が共通してもつ信念だった。
新聞は雑多なものでなければならない。低俗であることは決して悪ではなく、むしろつまらない凝り固まった記事ばかりの高級新聞の方がよほど下品である、と。
多岐に渡る情報を、より多くの人間に届けること。
それが新聞のあるべき姿であり、結果として庶民的なハンバーガーのようになることは、むしろ必然だった。
そのハンバーガーに、若者をはじめとした労働者階級は好んで食いついた。
時にスパイスが効きすぎることはあったが、故に飽きることがなかった。
けれど女王の崩御前からコロンボの風味は変わっていなかった。
一時は読者が離れ、首都からほとんど追い出されるような形になったものの、フォニスという強い香料を手に入れたことで、再び人びとの関心を集め、人びとにその味を思い出させた。
フォニスが加わることで、より中毒性の高まったコロンボに、人びとはすっかり魅了されていた。
過激な記事に対する反応は別れていたが、購読をやめる者はいなかった。
反感を抱いた者たちでさえ、不買運動を起こすようなことはなく、文句を言いながらもコロンボを読み続けた。
つまるところ、コロンボがおもしろかったのだ。
みなコロンボを読み、そこに書かれた内容を議論した。
あるいは絵や小説の感想を交わし、コロンボが紹介した店に足を運んだ。
そうしてコロンボの売り上げはうなぎ昇りとなった。
記者たちは奮起し、紙面は日を追うごとに磨かれていった。
読者はますます増え、首都でもコロンボを堂々と表に出す売店が増えた。
発行部数の増加に伴って、唯一喜びではない悲鳴を上げたのは印刷工たちだった。
コロンボが有する印刷機は年代物で、日々どこかしらに不調が生じている。売り上げは伸びたものの、まだ機械を一新する目途は立っておらず、印刷工たちはいつ息を引き取るかもわからない印刷機を、戦々恐々としながらも限界まで稼働させなければならなかった。
それは高血圧の老人にランニングを強いるようなもので、印刷を終えたあとは次の稼働までほとんど一日がかりで修理にあたらなければならないという有様だった。
フォニスが入社してからわずかひと月足らずで、コロンボは大きく様変わりしていた。
そしてそれは、きっかけであったフォニス自身も同じである。
*
「帰るぞ」
「あと5分待ってください」
「5分前に同じことを聞いた」
「4分前です」
「ああ?」
ベアトはちらりと腕時計に目をやり、咥えていた煙草をもみ消した。
「いまちょうど5分たったぞ」
「そうですか。では今からあと5分お願いします」
画用紙から顔をあげずに言うフォニスに、ベアトは大きく舌を打った。
「5分譲歩してやったんだ。今度はお前が譲歩しろ」
「わかりました。ではあと3分待ってください」
「そう言われて待つ馬鹿はいねえよ」
ベアトはフォニスの手からペンを奪いとる。
「……返してください」
「明日になったらな」
「もう今日じゃないですか」
時刻は午前0時を5分過ぎたところだった。
ベアトはまた舌を打って、フォニスの腕をつかんだ。
「寝るまでが今日で起きてからが明日だ」
「めちゃくちゃ言わないでくださいよ」
「先に屁理屈をこねたのはお前だろ」
ベアトはそう言い捨てると、フォニスを資料室から引きずり出した。
三階にあるいくつかの資料室は、缶詰部屋と呼ばれている。
外から鍵をかけることができ、原稿の進みが悪い者は容赦なく放りこまれる、記者たちにとっては牢屋のような場所だった。
そのうちのひとつを、フォニスは作業部屋として占領していた。
「まだ描きたいです……」
フォニスは画材と資料の散乱する部屋を名残惜しそうに見つめていたが、ベアトは容赦なく扉を閉めた。
「飯食って寝たあとでな」
「今日はここに泊まります」
「お前そう言って先週ほとんど帰らなかったじぇねえか。ここは宿屋じゃねえんだぞ」
「でも最初は泊っていいっておっしゃったじゃないですか」
「それはお前が宿無しだったからだ」
「今だって宿無しですよ」
「用意してやっただろ」
「あれは居候と言うんです」
「ああ、うるせえな、もう」
痺れを切らしたベアトは、駄々をこねるフォニスの腰をつかみ、そのまま脇に抱え上げた。
「降ろしてください!」
フォニスは暴れるが、ベアトはびくともせず、平然と歩きはじめた。
「前々から思っていましたけど、あなたたちは女性の扱いが雑過ぎます。はっきりいって馴れ馴れしいです。すこしは遠慮してください」
「どこに女がいるんだよ」
「……ここにいます。あなたが脇に抱えているのは荷物ではありません」
「そうだな。荷物は喚いたりしねえからな」
「……犬でも猫でもありませんよ」
もちろん赤ん坊でも、と、フォニスは一向に降ろす気配のないベアトを睨む。
「一人じゃろくに飯も食えねえ赤ん坊がなにをほざきやがる」
「食事くらいとれますが」
「お前今日なにも食ってないだろ」
「食べましたよ」
「今日は来てねえって飯屋の親父が行ってたぞ」
「サンドウィッチ以外を食べることだってあります。
「じゃあなにを食ったのか教えて見ろ」
「それは……ええっと……ですから――――」
「嘘を言ったら殺すぞ」
ベアトはじろりとフォニスを凝視した。
優れた記者であるベアトに生半可な嘘が通じないことを、フォニスはよく心得ていた。
「――――チョコレートボンボンです」
観念して正直に答えると、頭上からは大きな舌打ちが帰ってきた。
「菓子を飯にカウントすんじゃねえよ」
本当にガキだな、と罵りながら、ベアトは階段を下り始めた。
フォニスが缶詰部屋を振り返ると、まだ帰宅を許されていない記者たちが、羨ましそうに扉の窓からこちらを眺めているのが見えた。
代われるものなら代わりたい。
視線を交わした双方が、同じ思いでため息をついた。




