おめでたい人ですね
遠ざかっていく背中を眺めながら、フォニスはジェニオを非難した。
「あんな、追い払うようなこと言わなくてもよかったじゃないですか」
「なんだよ、アイツが気に入ったのか?」
「小説のお話、もっと聞きたかったです」
「それならマリア本人に聞けよ」
それよりも、とジェニオは話の舵を切った。
「どうだったよ、外に出てみて?」
「外に?」
フォニスはジェニオの言う意味がわからず、周辺を見回し、空を見上げた。
「いい日和ですね。昨日は遅かったので、起きた時は頭がぼんやりしていましたが、お日様を浴びたらすっきりしました」
「そういうことじゃなくてよ……」
「……?」
「他にあるだろ?」
「他に……」
フォニスはしばらく考え込んでから、ああ、と手を打った。
「宮廷内はいつも静かだったので、街中の賑やかさにはびっくりしました。お祭りでもしてるんじゃないかと思ったくらいです。故郷の村にはこんなにたくさんの人がいなかったので……」
フォニスはそう言って目を閉じた。
耳にさまざまな音が響く。雑踏、喧騒、車や列車の走る音。それは故郷でも宮廷でも聞いたことのない、騒々しい、けれどたくさんの人の生活が感じられる音だった。
「そういうことでもないんだけどな」
ジェニオは苦笑し、フォニスの頭に手を置いた。
「みんながアンタの絵をおもしろがってただろ?今日新聞が売れたのだって、一面にアンタの絵が載ってたからだ。それについてはなんとも思わなかったのか?」
フォニスは工人たちに囲まれ、サインや似顔絵を求められたことを思い出す。
「――――新鮮でした」
フォニスは目を開けると、いつも通りの仏頂面で言った。
「でもきっと、もの珍しかったからですよ」
宮廷にいた頃も、フォニスはごく稀に、絵を褒められることがあった。
それは他国の王族や大使であり、彼らは女王がフォニスの絵を紹介すると独創的だと称賛した。
しかし、それは女王を持ち上げるためのお世辞だろうと、フォニスは思った。
フォニス以外の宮廷画家たちも、女王の顔の手前称賛するほかなかったのだ、と。庶民の描く絵に見慣れていないんだろう、として本気にはしていなかった。
「見慣れればすぐに飽きられてしまうと思います」
喧騒でも卑屈でもなく、本心からフォニスは言っていた。
「……筋金入りだな」
ジェニオはフォニスの頭を軽く叩いた。
「まあ、時間はたっぷりある。アンタのその歪んだ認知は、必ず矯正してやるからな」
ついでに体力もつけさせてやる、とジェニオは豪語した。
「少なくとも群がってくるファンを振り切れるくらいにはな」
「本当におめでたい人ですね」
フォニスは呆れかえった。
その自信は一体どこからくるのかと不思議に思うと同時に、そんなに楽観的で大丈夫なのかと心配になった。
フォニス自身、楽観的なたちだった。大抵のことはどうにかなると思って生きてきたし、宮廷を身一つで追い出されたときでさえ、途方にくれはしたものの、絶望するようなことはなかった。
けれどジェニオは自分の比ではなかった。
「楽天家とは、あなたのような人のことを言うんでしょうね」
フォニスは皮肉ではなく、本心から言った。
傾いた会社を抱え、宮廷からも目をつけられて、先行きが見えないどころか一歩間違えればまっさかさまに転落するような状況にあって、ジェニオは平然と笑っている。
それどころか起死回生の逆転劇が起こると心から信じている。
会社という船を乗りこなすためには、少なからず自信が必要だろう。しかしその自信には裏付けがなければならない。経験であったり、入念な準備であったり、なにかしらの根拠がなければならない。
「オレほどシビアな人間はいないぜ」
「……あなたのその自信がどこからくるのか、わたしにもさっぱりわかりません」
ジェニオはにやりと笑ってフォニスの頭に手をのばした。
また叩かれる。そう思ったフォニスは咄嗟に頭を両手で覆ったが、ジェニオの手はフォニスの頭ではなく、その前髪に触れた。
これまでにない、慎重な手つきだった。
「オレはすでに女神の前髪に触れたんだ」
不快ではなかったが、どこか気恥ずかしさを覚え、フォニスは眉間に深いしわを寄せた。
(都会の男性は、みんなこれがふつうなのでしょうか?)
訝しむような視線を受けて、ジェニオはにっと歯を見せる。
そして指先をフォニスの前髪から眉間へと下ろし、ぐりぐりと揉みこんだ。
「なんのつもりですか?」
「ただでさえ体力がないのに、シワまでつくったらほんとうに老け込んじまうぜ」
ジェニオはフォニスの両頬をつまみ、左右にひっぱって、むりやり笑みをつくらせた。
「せっかくなら女神は若くてキレイなほうがいいからな。それに、前髪に触れただけじゃまだ足りない。オレは必ず女神を微笑ませてみせる」
いや、大笑させてやる。そう言い添えて、ジェニオはフォニスから手を離した。
フォニスはじんじんと痺れる両頬をさすりながら、ふつうじゃない、と思った。
(きっとこの人が特別です。デリカシーも遠慮もない。わたしのことを犬かなにかだと思っています)
言いたいことは山ほどもあったが、フォニスは面倒になって閉口した。
説明を受けても、ジェニオの自信の根拠が、フォニスにはわからなかった。
ジェニオは自分をコロンボの救世主だと、女神だと言った。
自分の絵があれば、会社は立ち直る、と。
たしかに今日掲載した分の評判はよかった。
ジェニオが言うように、新聞の売り上げがふだんよりよかったのも、自分の絵が人目を惹いたからかもしれない。
それでもフォニスは信じ切ることができなかった。
自分の絵にそれだけの価値があるとは、とても信じることができなかった。
フォニスは宮廷に行くまで人にも環境にも恵まれていた。
両親は価値観こそ古かったがフォニスを心から愛し、その幸せを願っていた。
師匠は言葉数の少ない人だったが面倒見のいい人だった。
村の人びとはみな穏やかで優しかった。
故郷でフォニスは、絵描きとして持て囃されるようなことはなかったが、守るべき子どもとして、大切に扱われてきた。
フォニスは自分は運がいいと思っていた。
宮廷画家になれたのも、そこをクビになってすぐコロンボに職を得たのも、フォニスが並外れた強運を持っていたからだ。
フォニスが楽観的で能天気なのは、大抵のことはどうにかなると考えているのは、その並外れた強運があったからこそだった。
そしてフォニスはその強運を、あくまで偶然としか捉えていなかった。
決して自分の手でつかんだものだとは思っていなかった。
自信の絵の才が引き寄せたのだとは微塵も思っていなかった。
フォニスはむしろ、自身の絵に誰よりも厳格だった。
これまで宮廷で否定され続けてきた自分の絵が、誰かに希求されるなどありえないことだと考えていた。
故に、フォニスは、心配だった。
ジェニオの過大評価が、やがては会社を潰す結果になってしまうのではないかと、俄かに恐れさえしていた。
フォニスは知らずの内にコロンボという船に乗せられていただけで、なんの責任を負っているわけでもない。
それでもやはり気は引けた。
沈みかけの船に絵描きが一人乗りこんだところでなにができるのか。むしろ自分が乗り込んだことで船の沈没を早める結果になってしまうのではないか。
これまで人に大きく期待を寄せられたことのなかったフォニスは、ついそんな、後ろ向きな考えに囚われてしまう。
人を騙しているような、罪悪感に。後ろめたさに。
(うまくいくはずがありません)
能天気なフォニスらしからぬ悲観的な予想だったが、これは見事なまでに外れることになる。
なぜならこの日から、コロンボをとりまくすべてが好転しはじめたのだ。




