ヤクザが天下をとる時代がくる
ジェニオは車を、昨夕二人が出会った駅前の広場で止めた。
昼過ぎの現在、広場にも駅にもさほど人ではなく、おだやかな午後の陽気の相まって、全体としてほがらかな空気が流れている。
二人がベンチに腰掛けると、ほどなく大きな鞄とバスケットを下げた少年が近寄ってきた。
「よう、バーニー」
ジェニオが声をかけると、少年は礼儀正しく頭を下げた。
「こんにちは、ヴィオリエールさん」
少年は顔をあげると、瞳がぼやけるほどぶ厚い、いかにも重そうな眼鏡をぐいと押し上げる。
「ジェニオでいいって、いつも言ってるだろ」
「二回りも年上の人をそんなふうに気安く呼べないよ」
「そのわりに敬語をつかわねえよな?」
「敬語は尊敬している人にだけ使うものだからね」
生意気なガキだ、と、ジェニオはさして気にする様子もなく言い捨てる。
「なにか残ってるか?」
「ちょうどサンドイッチがふたつあるよ」
少年はバスケットから新聞に包まれたサンドイッチをふたつ差し出す。
ジェニオは銅貨と引き換えにそれを受け取り、フォニスにひとつ手渡した。
「食えよ。バーニーの母ちゃんの手製だ。宮廷のフルコースなんて目じゃねえうまさだぞ」
「いただきます」
フォニスは新聞を剥ぎ、サンドイッチを頬張った。
パンもチーズもハムも、やたらと大きいサンドイッチだった。マスタードとマーガリンがたっぷり塗ってあって、かぶりつくとパンの間から零れそうになるほどだった。
「……!おいしいですね」
フォニスは瞠目した。
大味だが、しつこくなく、あとを引く旨味があった。
小食なフォニスでも、これならいくらでも食べることができそうだった。
「ありがとうございます。母も喜びます」
少年はジェニオにそうしたように、フォニスにも深々と頭を下げた。
「はじめまして。僕はバーナビー・ブラッドレーです」
「ご丁寧にどうも。わたしはフォニス・ジルです」
フォニスがお辞儀を返す隣で、ジェニオはがさがさとサンドイッチを挟んでいる新聞を広げる。
新聞は国内最大手の新聞社のもので、日付は今日だった。
「いつからコロンボ以外の新聞を売るようになったんだ?」
「それは兄ちゃんが売り残したやつだよ」
今日はいつもよりはけが悪かったんだって、と言うバーナビーに、だろうな、とジェニオはしたり顔で笑った。
「その分、うちの売り上げはよかっただろ?」
「うん。久しぶりに完売したよ」
少年が肩から提げた鞄を揺する。
平たく潰れた鞄からは、ジャラジャラと小銭がぶつかり合う音が響いた。
「上々だ」
ジェニオは満足そうに頷いた。
「明日からはもっと売れる。兄貴に言っとけ。お前が売ってるモンはこれからどんどん売れなくなる。はやいとこコロンボに切り替えるんだな、ってよ」
「少し売れ行きがよかったからって、調子にのっちゃいけないと思うよ」
正論だ、と、フォニスはサンドイッチを頬張りながら頷いた。
けれどジェニオはまったく取りあわない。
「男なら出るとこ大きく出なきゃな。――――だからバーニー、明日からはお前も、仕入れ量を倍に増やした方がいい」
「無理だよ。鞄が壊れちゃう」
「荷車でも引けばいい」
「たくさん売りたいなら販売店を増やした方が賢明だよ」
少年の冷静な指摘に、本当に生意気だ、とジェニオは繰り返した。
「少しは冗談ってものを覚えろ。そんなんじゃモテねえよ」
少年は眼鏡を押し上げ、肩紐をいじりながら訊いた。
「……じゃあどう返せばよかったの?」
「うん?そうだな――――僕は大金持ちになれるね!とかな」
「子どもっぽい。そんなのでモテるわけない」
不満な少年に、事実ガキだろ、とジェニオはにべもなく返す。
「今のうちはかわいこぶってた方がウケるってことだよ。――――特に年上の女にはな」
少年は頬を赤くしてそっぽを向く。
「ふーん。まあ全然、モテたいなんて思ってないけどね。――――とにかく僕はこの鞄にはいる分だけ売れればいいんだ。頼まれたって仕入れ量は増やさないよ」
「もっと稼ぎたくないのか?」
「起きてから学校に行くまでの時間を考えたら、この量が限界だもの。僕はその日のお昼代を稼ぐためだけにやってるんだ。新聞を売るのに夢中になって、勉強が疎かになったら意味ないよ」
「真面目なやつだなあ」
バーナビーは毎朝この駅前広場で新聞を売っていた。
今日のような休日は、昼頃まで新聞と一緒に母親が作ったサンドイッチを売り歩くのが常だった。
「僕は新聞売りや記者みたいなヤクザな仕事に就く気はないからね」
見下すわけでも挑発するわけでもなく、ごく真剣に、バーナビーは言った。
(しっかりした子です)
フォニスはサンドイッチを咀嚼しながら心から感心する。
フォニスがバーナビーと同じ歳の頃は、なにも考えず日がな一日絵ばかりを描いていた。
自分で稼ぐことはおろか、将来のことさえ、まともに考えたことはなかった。
(わたしもこの子のようであれば、もう少しまともなところに、絵描きとしての職を得られたでしょうか)
しかしフォニスの頭に思い浮かんだのは、どこかにあるまともな職場ではなく、いっとき前に出てきたばかりの、小汚くて喧しい新聞社だった。
熱気にあふれた狭苦しいあの場所で、必死に絵を描いている自分の姿だった。
「いまにそのヤクザが天下をとる時代がくる」
ジェニオは諭すように言った。
「それになあ、バーニー。勉強したからって必ずまともな仕事に就けるわけじゃねえし、まともだろうと思ってはじめた仕事が、実はとんでもなく臭いもんだった、なんてざらにある。ウチの新聞読んでりゃわかるだろ?一面を飾るのはいつだって官僚や貴族連中だ」
「それはコロンボがそういう人たちのことしか書かないからでしょ」
「目の敵にしてるってか?それは違うね。どんな貧乏人だって、世に知らしめるべき悪事を働いたなら、ウチは躊躇わず一面で扱うからな」
お前のことだって容赦はしねえ、とジェニオはバーナビーに意地の悪い笑みを向ける。
「将来官僚になったら、しつこく追い回してやるからな。銅貨一銭の横領もできないと思えよ」
「僕は横領なんてしない」
「どうかな?役所に入って最初に習うのは袖の下の握り方って聞くけどな?」
「全員がそうとは限らないでしょ」
「だが大半はそうだ。そしてその肥えた私腹を一枚の紙きれで暴くのがオレたちの仕事だ」
ジェニオは弄んでいたサンドイッチを飲むようにして食べると、包んでいた新聞紙を棒状に丸め、バーナビーの腹をつついた。
「大役人だろうが大貴族だろうが、オレたちは捌く。たった600字で、どんな料理にだって仕立てられるんだ」
こんなに愉快な仕事ほかにはねえよ、と熱っぽく語るジェニオに対し、バーナビーは白けた表情を返す。
「コロンボにそこまでの影響力はないよ。ついこの前スクープしてた伯爵家の脱税だって、けっきょく女王様がお亡くなりになったことでうやむやになったじゃない」
「そうだな、アレは正直力不足だった。――――だがもう同じことは起こらない。これからは誰も、コロンボを無視なんてできなくなる」
「その自信はどこからくるの?」
バーナビーの発言に、フォニスは内心同意した。
するとジェニオは、待ってましたと言わんばかりに立ち上がり、丸めた新聞紙を指揮棒のように振りまわした。
「今日の新聞を読めばわかるだろ?」
バーナビーはしばらく考えてから、ああ、と得心が言ったように頷いた。
「なるほどね」
「わかったか」
「うん。描写があまりにも素敵で、僕、思わず切り取っちゃったもん」
バーナビーはそう言って、懐からハンカチを取り出した。
きれいに四つ折りにされたハンカチの中には、切り取られた紙片が挟まっていた。
「今日、もう何度読み返したかわからないもん。でも何度見ても飽きないんだ。すごく詩的で、読み返すたびに新しい発見があったよ」
バーナビーは紙片を広げ、頬を赤らめながら熱弁した。
「いつも車内で隣の人が読んでいるのをのぞき見してる人たちも、今日ばっかりは、自分一人でゆっくりと読みたいと思ったんだよ。だからこんなにもよく売れたんだよ」
ジェニオとフォニスは紙片を見て、同時に言った。
「それはちがうだろ?バーニー」
「それはなんでしょうか?バーナビーさん」
ジェニオは首を振り、フォニスは首を傾げた。
バーナビーは二人の問いに、ひとつずつ丁寧に回答する。
「なにがちがうの?ヴィオリエールさん。コロンボの一番のウリはスミス先生の連載小説なんだから、売り上げがその内容に左右されるのは当然のことでしょ?」
「たしかにウリのひとつではあるけどよ……嘘だろバーニー、今日の一面見てお前本当になにも思わなかったのか?」
「今日はスミス先生の小説を読み返すのに忙しくて、まだちゃんと読めていないんだ」
それで、と、バーナビーはフォニスに顔を向けた。
「これは『薔薇の木の下で』ですよ、ジルさん。ご存じないんですか?コロンボで連載中のA・スミス先生の最新作です」
「存じ上げませんね」
それを聞いたバーナビーは、ハンカチごと切り抜きをフォニスに押し付けた。
「なら是非読むべきです!厳格な両親のもとで育てられた箱入り令嬢と、自由奔放な若き商人の恋物語なので、フォニスさんのような若い女性はきっと夢中になります」
バーナビーは前のめりになって、早口でまくしたてた。
「一見するとよくある身分違いの恋物語なんですけど、冒険活劇要素もあって、老若男女あ誰でも楽しめる作品になっているんです。だから僕も夢中になりました。『薔薇の木の下で』はスミス先生の新境地ですよ!もちろんスミス先生の魅力である流麗な文章はそのままなので、わくわくさせられると同時に、文章に洗われるような心地を味わうことができます。特に今日の掲載分はすごかったです。商人との関係が両親にバレてしまって、お屋敷に閉じ込められてヒロインが、商人への想いを独白する場面なんですけど、まるで長い詩のような美しさで、こんな心のきれいな人に想ってもらえるなんて、商人はなんて幸せな男なんだろうって、僕、うらやましくなってしまったくらいです」
「そうですか……」
フォニスはバーナビーの話はほとんど聞かずに、渡された切り抜きを読み耽っていた。
「――――たしかにこれは、素晴らしいですね」
フォニスが感嘆をもらすと、バーナビーは分厚い眼鏡の奥で瞳をきらりと光らせた。
「でしょう!?」
「はい。たった一節で、ここまで引き込まれたのは初めてです」
「そうですよね。そうなんですよ。スミス先生の作品の魅力はなんといってもその美しく繊細な文章にあって、とても日刊連載しているとは思えない精練された――――っ!?」
再び熱弁に走ろうとしたバーナビーの襟首を、ジェニオが引っ張り上げる。
「ファンレターの朗読ならよそでやってくれ」
「邪魔しないでよ。コロンボを布教してたっていうのに!」
「お前が広めてるのはコロンボじゃなくてマリアの小説だろ」
マリア、という名を聞いたバーナビーは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「馴れ馴れしいよ!スミス先生を本名で呼ぶなんて、失礼だよ!何様だよ!」
「雇用主様だよ」
ジェニオはフォニスにすまねえな、と肩をすくめてみせた。
「こいつはマリアのことになると急に馬鹿になっちまうんだ」
「そうですか」
フォニスは相槌を打ったが、その視線は未だに『薔薇の木の下で』の記事に釘付けであった。
ジェニオは呆れたため息を吐き、フォニスの手から紙片を奪う。
「あっ、なにするんですか」
「社に戻ったらいくらでも読ませてやるからいまは我慢しろ」
「連載一回目からお願いします」
「……わかったよ」
ガキのお守りをしてる気分だ、とジェニオは小声でぼやきながら、紙片をハンカチで包みなおし、バーナビーの懐に押し込んだ。
「それで、バーニー。お前ほんとうになんとも思わなかったのか?」
「なにを?」
「今日の新聞に載ってただろ。――――こいつの描いた挿絵」
ジェニオはフォニスを指して言うと、バーナビーは先ほどよりは落ち着いた様子ながら、えっと驚嘆の声をあげた。
「あれ、ジルさんが描いたの?」
バーナビーの問いに、ジェニオはそうだ、と誇らしげに答える。
「そうだ。こいつは今日からうちの専属になったんだが……最高だっただろ?」
「うん。とてもおもしろかったよ」
バーナビーは眼鏡をぐいと押し上げて、そういえば、と思い出したように言った。
「今日新聞を買った人のほとんどはスミス先生が目当てだったと思うけど、なかには絵にひかれて買った人もいたみたいだったね。――――『一面に絵が載ってる新聞はこれか?』って聞いてくる人がけっこういたもん」
ジェニオは口笛を鳴らし、フォニスの肩を抱いた。
「他にはねえのか?買ったやつが、一面を見た途端に抱腹絶倒するとかよ」
「あるわけないよそんなこと」
バーナビーは一蹴したが、でも、と付け加えた。
「新聞を読みながら転びそうになってた人は、なん人かいたなあ」
「転びそうに?」
「いつもはみんな、脇に抱えてさっさと列車に乗るのに、今日はその場で広げる人が多かったんだ。それでそのまま歩き出すから、段差につまづいたり、人にぶつかりそうになったりしたんだよ」
ジェニオはまた口笛を鳴らし、フォニスにしたり顔を向けた。
「聞いたか?今日は市内の病院は怪我人で溢れ返ってるかもな?」
はあ、とフォニスは気のない返事をする。
「なんだよ、嬉しくねえのか?」
「どうして怪我人が増えてわたしが喜ぶんですか?」
「それだけお前の絵に夢中になったやつがいたってことだろ」
「わたしの絵ではなくて、あの小説が素晴らしかったからでしょう?」
「……あ?」
「だって今日はよく新聞が売れたのは、あの小説のおかげなんですよね?」
「あー……バーニーのアレを本気にしたのか」
ジェニオは額を押さえて呻いた。
「ダメ押しにと思ってバーニーに会わせてみたが、失敗したな……。たしかに昨日のマリアは、缶詰させただけあっていいもん書いたが……」
ジェニオのぼやきは小声だったが、バーナビーは聞き捨てならない、と腕を組んだ。
「だから、スミス先生を馴れ馴れしく呼ばないでよ」
「男の嫉妬は醜いぞ」
言われたバーナビーは、むきになって答える。
「嫉妬じゃないよ!僕はファンとして先生の尊厳を守るために――――」
「やつの雇用主であるオレにも払えよ、敬意を」
ジェニオはバーナビーの言葉を遮って言うと、ひらひらと手を振った。
「お前がいると話がややこしくなる。帰って勉強でもしとけ」
言われなくても!とバーナビーは吐き捨て、二人に背を向けて走り出した。




