なんだこいつ
建物の四階は階下と比べて静かだった。
やはりここでも忙しなく立ち働いている人間はいるが、怒号をあげる者も、扉を叩き続ける者もいない。
タイプライターを叩く音や、暗室を出入りする扉の開閉音、ノイズ交じりのラジオの音が低く響くばかりだった。
「それはどこか適当なところに積んでおいてくれ」
ジェニオは、四階の隅にある社長室の扉を開けて言った。
社長室はとは名ばかりで、階下の資料庫とそう変わらない、狭く雑然とした部屋だった。
今にも壊れそうな机と椅子があるほかは、書類と新聞が積まれているばかりだ。
しかし照明だけは奇妙に明るく、まるで朝日を浴びているようだ、と思いながら、フォニスは目を細めて部屋の中に入った。
適当なところ、と言われたものの、すでにある書類の山に積むのはフォニスの身長では難しかったし、積めたところですぐ崩してしまいそうだった。
どうしたものかとフォニスがふらついていると、背後にいたベアトが舌打ちをした。
「トロくせえやつだな」
ベアトはフォニスの手から紙束を奪うと、部屋の中でもひときわ高い本の山の上に難なく乗せた。
フォニスは目をまるくした。
小型車の運転席の中で背を丸めていた時でも、身長が高いことは見て取れたが、隣立って並ぶとフォニスの頭は彼の胸にも届かなかった。
(2メートルはありそうですね)
こんなに大きい人を間近で見たのは初めてだ、とフォニスは感嘆し、無遠慮な視線をベアトの全身に這わせた。
(スケッチしなければ)
フォニスはベアトから視線を逸らさないまま、手近にあった書類と鉛筆をとりあげた。
書類は質が悪く、裏までインクが染みていた。鉛筆は削りが甘かった。
しかしフォニスは構わずにスケッチを始めた。
「……なんだこいつ」
ベアトは唖然として、唐突に自分を描きはじめたフォニスを見下ろす。
「お眼鏡にかなってよかったじゃねえか」
ジェニオは椅子に腰を下ろし、許可なくフォニスの鞄を漁りながら言った。
「オレは金を握らせて口車に乗せてやっとのことで描いてもらったっていうのにな。まったく妬けるぜ」
ジェニオはフォニスの鞄からスケッチブックを取り出し、ベアトに差し出した。
ベアトは訝しみながらそれを受け取り、開いた。
そして目の色を変えた。
「――――おい、本当になんだ、こいつは」
「知らん」
ジェニオは言い切って、だが、と続けた。
「これでわかっただろ、オレはちっぽけな銀行の融資以上のもんを持って帰ってきた」
「ああ……」
ベアトは鳩が人の群れにパン屑を放っている絵を見ながら、片頬をあげた。
「おつりがくるな、こりゃ」
当のフォニスは二人の会話などまるで耳に入っておらず、目の前の興味深い人物を、一心不乱に描き続けた。




