それでも道化師はわらう
ブランコ乗りのピエロが死んだ。
死因はわからない。
次の興行まであと十日、と言うところだった。
練習に来ないピエロを心配して座長が部屋を訪ねた。部屋には力なく椅子にうずくまるピエロがいて、慌てて座長が病院に運んだが、そのまま息を引き取った。
一座は、騒然とした。
興行まであと十日。人気の道化師一座で、チケットは立ち見席まで完売している。楽しみに待つお客のためにも、自分たちの生活のためにも、興行を止めるわけにはいかない。幸いにも、ブランコ乗りのピエロには見習いがいた。少しプログラムを変えれば、見習いで十分に場は持たせられる。道化の化粧をしてしまえば、ブランコ乗りのピエロが違うことなんて、誰も気にしやしないだろう。
興行を、止めるわけにはいかない。
観客の喜ぶ顔が、なによりも好きなピエロだった。
きっと彼のために、興行が中止になったら悲しむだろう。
興行を、止めてはいけない。
慌ただしく、一座は動き出した。
興行まであと十日。プログラムを組み直し、それに合わせた練習をして。
たったひとり、たったひとりの人間が入れ替わるだけでも、見える景色は変わって来る。
呼吸、動き、間の取り方、動線の僅かな違い。
玄人の集団であるからこそ、その小さな差異が命取りになりかねなかった。
それでも興行を、止めるわけにはいかない。
死んだピエロを偲ぶ暇もなく、一座は動き続けた。
そして興行の幕が上がる。
興行のたった十日前にプログラム変更があったとは思えぬ、完璧な興行だった。
道化も観客もみな、笑顔の絶えない興行だった。
興行を止めるわけにはいかない。
そして道化師一座は、訪れる観客を、笑わせるために興行を行う。
そして心地良い笑いとは、自分も相手も楽しんでいてこそ得られるもの。
ブランコ乗りが楽しくて、それを見た観客が喜ぶのが嬉しくて仕方ないピエロだった。
一座はみな、真剣に楽しんだ。真剣に楽しんで、心から笑った。
そうでなければ、せっかく見に来てくれた観客を、楽しませられない。
観客のがっかりした顔を、なによりも残念がるピエロだった。
興行は止めない。笑顔も絶やさない。
道化師一座は、喜びだけを与えるために在るのだから。
悲しみも、苦しみも、嘆きも、喜び以外のものはすべて、テントの外に締め出して。
ここでは喜びだけで良い。笑顔以外はいらない。観客も、道化師も。
心から楽しみ、喜び、顔一杯に笑う。それで良い。
興行を、止めるわけにはいかない。立ち止まるわけには、いかない。
観客の前に立つ道化は、みな笑顔だった。
つい先日仲間を亡くしたばかりなんて、誰にも気付かせはしなかった。
そして興行の幕は下りる。
鳴り止まぬ拍手。心からの喝采。
光を浴びる道化師たちの頬に、つうと一筋雫が伝った。
明るく道化を照らす照明は熱い。汗もかくだろう。
観客は思い、道化に拍手喝采を降らせ続けた。
道化師たちはみな、満面の笑顔だったから。
素晴らしい興行だった。大成功の興行だった。ブランコ乗りの見習いピエロも、立派に役目を成し遂げた。
道化を照らす照明が落ち、客席から興奮冷めやらぬ観客が立ち去る。
観客を見送るのは見習いの道化。
笑顔で手を振る道化に、ひとりの女が近付いた。
幼い子供を抱いた女は問う。
ブランコ乗りのピエロは辞めてしまったの?
見習いの道化は目を見開いた。
ブランコ乗りのピエロとブランコ乗りの見習いピエロは、背格好がそっくりだった。派手な道化の化粧をすれば、遠い客席から、顔の違いなんてわかりはしない。はずだった。
笑顔の素敵なピエロだったから、この子に彼の演技を見せてあげたかったのだけれど。
見習いの道化は見習いだった。まだ、見習いだったから、悲しみを忘れきれなくて、道化になりきれなくて。だから、笑顔のままでいられなかった。
誰かから褒められると、それを大事に大事に抱え込むピエロだった。見習いの頃に見送りの笑顔を褒められて、以来、一座の誰より、素敵な笑顔を浮かべるようになった。
辛いときも、苦しいときも、悲しいときも、彼は笑顔を絶やさなかった。
ぼろぼろと、見習いの道化の目から、涙が零れ落ちた。
誰より素敵なその笑顔が、道化の化粧に隠れても、決して絶やされない笑顔が、みな、好きだった。笑顔を浮かべる彼が、みな、大切だった。
興行を止めるわけにはいかない。
笑顔を絶やさない。
テントの中に、悲しみは持ち込まない。
けれど。
ほんとうは、みな、泣きたかった。嘆きたかった。練習なんて取り止めて、興行なんて中止して、心の底から、彼の死を、もう二度と会えぬことを、浮かべられることのなくなった笑顔を、悲しみたかった。
だけど道化師一座は、喜びを与えるために在るから。
それでも興行は止めなかった。
それでも道化師たちは笑い続けた。
ぴえろさん、どうしたの?
泣き出した見習いの道化に、幼い子供が問い掛ける。
かなしいの?いたいの?くるしいの?
見習いの道化は、見習いでも道化だから。
観客に、喜び以外のものは、与えたくなかった。
ぐっと涙を拭って、見習いの道化は笑った。
きみとお別れなのが悲しいんだ。でも、我慢して笑顔で見送るから、どうかまた会いに来ておくれ。
約束と差し出された見習いの道化の小指に、子供は小指を絡ませた。
うん!きっとくるよ!だから、なかないで、ぴえろさん!
見習いの道化は、おおげさな動きで頷いて、せいいっぱい笑った。
ありがとう!待ってるからね!
小指を離して、見習いの道化は手を振る。せいいっぱいの、笑顔で。
子供を抱いた女は、その笑みを見て、微笑んだ。
あなたの笑顔も、素敵だわ。必ずまた来るから、頑張って。素晴らしい興行を、ありがとう。
立ち去る女と子供に、見習いの道化は手を振り続けた。
ずっとずっと笑顔で。ずっとずっと、手を振り続けていた。
女の肩ごしに手を振り返す子供も、ずっとずっと、笑顔だった。
拙いお話をお読み頂きありがとうございました