一 人生とは分からないもの
(……こいつ、阿呆かよ)
目の前にいるのは、血のつながりのない義兄である。
立派な装丁の箱にぎっしりと詰められたのは、この国「連」の貨幣。
それらに眼を奪われている義兄に、大切なことをおしえるべきだろうか?
いや、一つ訂正。義兄「だった」。過去形である。たった今、自分はこいつによって売られたのだから。
憎まれているのは知っていたが、正直、また売られるのは予想外だった。
(人生って、わからないものだねぇ)
鑭依が生まれたのは、十三年前のこと。
元々鑭依が生まれ育ったのは、連ではなくその隣国「奏」だった。
父は分からない。物心ついたときには、既にいなかった。
唯一の家族である母の存在も、鑭依が七つになる前になくした。
その後は、人攫いにさらわれ、奴婢の売買を専門的に行う商人に売られた。
赤茶の髪に、藍緑色の瞳。顔立ちも特徴もなく地味ではあるが、整っていると言えば聞こえは良い。
母から受け継いだこの容姿は、黒や茶色の髪、瞳が主流の連ではとても珍しがられた。
奴婢として五年間、各地を転々としてきた。売られたその回数、実に二十九。
だが、運が良いことに、大抵合法的に商いをしている商人に売られてきた。
売られたさきで、いくら奴婢といえども、十も数えぬ幼子に対して、ひどい扱いをするものは多くなかった。
男は度胸、女は愛嬌。
常ににこにこして、苦しい時でも明るい顔をしていれば、人に与える印象は良くなる。
ときたまに、気の良い裕福な小父ちゃん、小母ちゃんは甘味をくれるのだ。
何にしろ、人として扱われない奴婢にしては、明らかに待遇が良かったのである。
とはいえども、鑭依はこんなところで一生を終える気はなかった。
「安定かつ平和でやや長めの一生」。これは鑭依の人生の指針だ。
奴婢のままでは、いつ何時売られ、たとえ殺されてもおかしくない。そんなのは真っ平御免である。
まず第一歩として、公奴婢になりたかった。
公奴婢。官奴婢とも言う。その名の通り、国で管理される奴隷だ。
区分でいうと、鑭依は私奴婢、すなわち個人の所有物だった。
奴婢は、公私関係なく、一定年齢に達することで自動的に庶民になれる。
そして公奴婢の場合、ときたまに年齢にかかわらず、働きに応じて奴隷の身分から解放され、庶民へ引き上げられる。その後も国の機関で働けるように、仕事先が斡旋される。
だが私奴婢は、賤民階級から引き上げられる年齢が、公奴婢より十年以上も遅いのだ。
また、扱いとしても公奴婢よりひどいことが多く、一定年齢に達すること以外の要因で解放されることなどほぼない。
どちらにしろ、一定年齢に達し、解放されるころには既によぼよぼの老婆になっているだろうが。
公奴婢になり、堅実に点数を稼ぎ、そして早々に庶民になって、安定した生活を送る。
決して裕福とは言えないが、何といっても「庶民」であり、日飯に困ることはない。
―――なんと、すばらしいことだろうか!!!!
まぁ、そこそこ良い容姿を活用して、どこぞの裕福な好色親爺の愛妾になることも考えたが、いつまでも人は若々しくいられない。
その後の展望を考えても、「安定」とは言い難い。
と、いうことで、売られるたびに、公奴婢になれないものかと思っていたのだが。
鑭依には強力な運がついていた。
十二になったころ、二十九回目で売られたさきは、裕福な商人の元だった。
そして、鑭依は奴婢から、一夜にして豪商「蘇壇」の養女になったのである。
父の分からぬ鑭依にとって、生まれて初めて「父」という存在ができた瞬間だった。
―――養女となって、はや二年。
(人生って、わからないものだねぇ)
たかが十三年しか生きていない小娘には言われたくない台詞だろうが。
たくさんの使用人にかしずかれ、西胡渡りの絹や錦で誂えられた衣を身に纏う。
大きな商家のお嬢様とは、なんと裕福なのかと、いまだ信じられない。
鑭依を買った男、そして義父となった男、蘇壇。
彼には実の息子がいた。鑭依との年の差、実に十五……以上。
もっとも、養父である蘇壇自体、父娘というより、祖父と孫娘という方がしっくりくる年の差があったのだが。
鑭依が蘇家の娘になった直後、家人は、これこそ天変地異、目玉をひん剥いて鑭依を見つめていた。
蘇壇の息子、義兄はいたっては、怒りのあまり、真っ赤な顔(そのとき風邪をひいていたらしい)を真っ白にして義父を怒鳴りつけた。
その様子を眺めつつ、蛸が烏賊になった、と心の中で呟いていたのは一生の秘密である。
閑話休題。
しばらく過ごして気付いたことだが、義兄は出来の悪い男だった。
商いに必須である計算が間違いが多ければ、遅く、損得の計算もできない。自分の失敗を棚に上げて家人に怒りの矛先を向ける。
家人の女を見境なく手籠めにし、人間としても全く尊敬のできない男だった。
義兄の気持ちが分からなくもない。実の息子の自分がいるのに、なぜ赤の他人、しかも奴隷であった小娘を養女にするのか、と。
むろん、鑭依のことを毛嫌いし、それこそ馬鹿にしてきたが、その手のことに慣れすぎていて、全く、これっぽっちも、微塵も、堪えなかった。
むしろ、よく飽きないものだなと、その粘り強さ(というより諦めの悪さ)だけは尊敬していたのである。
自分は元々奴婢であったから、虐げられる者たち――家人の気持ちがわかった。どうすればここでやっていけるのか、早々に理解した。
その分、蘇家の人とも案外うまくやっていけたと思う。
「人望の差」と言ってしまえば、それまでだ。
蘇壇はそこまで見込んで、自分を養女にしてくれたのかもしれない。
何はともあれ、鑭依は義父に感謝していた。
彼はあるとき言った。
「そちには価値がるからの。そのままにしておくのは勿体無かった」
価値があるからこそ見出してくれた。裏を返せば、自分に価値がなければ、自分を養女にはせず、奴婢のままだっただろう。
そういう賢さ、強かさがなければ、商人としてはやっていけないのだから。
だが、救ってくれたという事実は変わらない。
自分に義父という存在を、庇護を、そして生きていく上で必要な術を与えてくれた。
この恩には応えよう――と、思っていたのだが……。
(死んじゃえば、元も子もないよね……)
義父、蘇壇は死んだ。
年老いた身体に死をもたらしたのは、病でも何でもない。
殺されたのだ。実の息子に。
鑭依を護っていたのは、蘇壇という大きな存在だった。
その後ろ盾をなくした今、血のつながりのない鑭依は、ただの厄介者にひとしい。
あの義兄に疎ましく思われているのは分かっていたが。
それにしても、運が悪かった。今回は、売られた先というか、そのときの状況が最悪だった。
それは、この連に、隣国「岑」が、大軍を率いて侵攻を開始した直後のことだった。