二話 榊子
ばね仕掛けの絡繰り扉のようにあれだけ重たかった瞼が開き、真っ暗闇だった視界が一気に光に包まれた。
――眩しい。
急激に光を吸収した網膜は光に耐え切れずに焼かれてしまいそうだ。目を何度か瞬かせて光を馴染ませる。目を瞬かせて何度目の時だろうか。ようやく光に慣れてきたので周囲を見渡すと、ここはどうやら大通りの路地裏らしい。白妙の砂の道に白壁の住宅が連なっている。仰向けで寝っ転がっていた態勢を上半身だけ起こして空を見上げると、何処までも蒼い空が広がっている。戦とは無縁そうな雰囲気に、日本にもまだこんな場所があったのだと関心を覚えた。日本は絶賛どこもかしこも戦の真っ最中で今日の都ですら此処より荒廃している。それにしても、ここの領主は古の都に強い憧れでもあったのだろうか。街並みが平安時代のそれに酷く酷似している。
――今川の殿様と趣味が合いそうだな。
「いやよ、離して!」
昔、少しだけ付き合いのあった今川家の殿様の平安オタクさに想いを馳せていると女性の声がして現実世界に意識を引き戻される。何事かと地面に座っていた腰を上げて立ち上がる。砂をパンパンと手で払い、声が聞こえてくる方まで歩くと小袿を飾り紐で纏めて衣が地面を引きずらないようにしている女性が直垂姿の男性数人に囲まれて連れてかれようとしている。
「大人しくしろ」
「くそ、こいつ中々頑固だな」
「早くしないと検非違使の奴らが来ちまうぞ」
俺は目を疑った。だって、直垂姿の男性に囲まれて連れてかれようとしているのは凛音に瓜二つの女性だったのだから。
「凛音!」
女性を引っ張っていた男性たちが一斉に俺を見る。
「誰だ?」
「おい。俺たちはこいつを連れていく。お前はあの不審な男を何とかしろ。」
「承知。」
明らかなる不審者に不審者扱いをされた。いや、どう見てもお前たちの方が不審者だろう。女性は直垂姿の破落戸達の意識が俺に向いたのを逃さずに手を振り払う。そして、俺の後ろに隠れた。
――え?
「ねぇ、あの人達何とかして」
「何とかしてと言われても…」
「その短刀は飾りなの?」
「これは、護身用で」
「ならちょうどいいじゃない。護身ってことは身を護るということでしょ。守ってよ。」
「無理でしょう。何対何だと思っているんですか」
「十対二よ」
「多勢に無勢すぎます」
「そこを何とかするのが貴方の務めでしょう?」
「そんな務めを背負った記憶は無いのですが」
「貴方が私の名前を呼んだ時から背負っているのよ」
私に破落戸達の相手を押し付けようとしている女性と押し問答していると痺れを切らした破落戸達が襲い掛かって来る。短刀を持ったもの、窯のような武器を持ったもの、棒の先端に鋭い爪のみたいなものが付いている武器を持ったもの。などなど。いっぺんに襲い掛かられたらたまったものではない。というか、普通に死んでしまう。こうなってしまえば、選択は一つ。逃げるが勝ちだ。一度は死んだ命。短時間で二度も死ぬなんて絶対に嫌だ。
「仕方ありません。逃げますよ。」
私は、女性の手を引くと走った。それはもう、無我夢中で走り抜けた。途中、腕に掴みかかってきた破落戸達の手は持っていた短刀で刺す。世は乱世。その中でも最も苛烈な土地に居た時でも一度も使ったことは無かったのに来て直ぐのこの土地で使うことになるとは。
「はぁ、はぁ。…無事ですか」
「な、何とか無事よ」
「それは良かった」
二人して、はぁはぁと肩で息をしながら無事を確認し合う。何も考えずに逃げてきたのでここがどこだか分からない。ただ、橋と川があるので街の中枢からはそれているのだろうなとは思う。因みに、破落戸達は騒動に驚いた市民の誰かが呼んだのであろう検非違使に捕まっていった。破落戸達を蹴散らす中でぶつかった人や物には本当に申し訳ないことをしたと思う。命には代えられないので許して欲しい。
「貴方、やるじゃない」
「それはどうも」
「私の名前は音宮榊子。貴方のお名前は?」
「千利休と言います」
「千利休?変わったお名前ね」
「まぁ、茶人としての名前ですからね」
「茶人とは?」
「茶人を知らないのですか?」
「えぇ。そんなに有名なの?」
「一般的な職業かと」
「そうなの。お兄様なら知っているかしら」
「たぶんそうかと」
榊子は見る限り良家のお姫様なのだろう。恰好から見て公家と言ったところか。しかも、苗字に宮が付いているので宮家の。
――しかし、宮の血筋の姫がなぜ供もつけずに市街を歩いている?
「ねぇ、利休。貴女行く場所はあるの?」
「お館様の居る場所に」
「それは、どこ?」
それは、何処なのだろうか。お館様はもうきっと亡くなっているだろう。明智光秀の手によって。ならば、豊臣秀吉のところに行くのが一番いいのかもしれないが、秀吉が生きている保証もない。けれども、確認してみなくては分からないし、それ以外に行く場所も無い。となれば、そこに行くしかあるまい。秀吉は今どこに居るだろうか。順当に考えて尾張か安土か美濃か京か。
――情報調査するなら京が良いかもしれない。凛音が無事かも確認しなくては。
「京に行きたいと思っています。」
「京?京とはどこのことかしら?」
「京を知らないのですか?」
嘘だろう。見る限り公家のお姫様である榊子が帝の住まう京を知らないなんてそんなこと有り得ない。自分の中でまさかと否定していた一つの考えが頭をよぎる。
――いや、でもそんなまさか。
「知らないわ。」
すぅっと息を吸って決意を固める。当たり前なことほど聞くのに勇気がいるのだ。あるいはここで微かな、たぶんきっとそんなことは無いだろうけれども、わずかにある疑念のような喉に刺さった小骨のような可能性を肯定されてしまうことの恐怖から逃れるために。
「あの、当たり前のことを聞くようですが、ここは日本ですよね。」
榊子は無情にもポカンとした顔で否定する。死刑宣告をする宣告者のように残酷で無情だ。
「ここは、二ホンという国では無いわ。栗花落の国よ」
「栗花落の国…」
どうやら、俺は命を救われた代償に異世界に飛ばされてしまったようだ。