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「君との婚約を破棄する」
そう無情に告げたのは、幼い頃から婚約者として共に育ってきた、この国の第二王子だった。
放課後の誰もいなくなった教室で、私たち三人は立ち尽くす。
私の婚約者であるはずの彼の腕の中には、大きな瞳に涙を浮かべた可愛らしい女性がしっかりと抱かれていた。同じく目に涙を湛えているのに、一人きりで立つ己とは雲泥の差で、余計に覆ることのない現実を私に突きつけてくる。
とても、とても悲しかった。
幼い頃から恋い焦がれてきた婚約者は、もう私の手を取ることはないのだと痛感し、ついに堪えていた涙が頬を伝う。いくつも零れ落ちる涙は輪郭に沿ってあごの先をつたい、雫が溜まり落ちるまでの感触を強く私に訴える。
涙など、流したくはなかったのに。
こうなることが分かっていたのに、あの可愛らしい子にきつく当たることをやめられなかった。
婚約者を、愛していたから。
けれど、もうこれ以上追いすがりはしない。
恋に狂っていたとしても、自分にも矜持というものがあるのだ。
私の涙を初めて見たのだろう、婚約者の瞳が少し揺れたような気がした。
それでも、腕に抱く少女を放さない婚約者の瞳を、こちらも強く見返す。
これが最後になるだろう。
きっともう、一生会うことはない。
反論したいこと、弁明したいことは有るけれど、もうこの場に至っては意味などなさない。彼の中で結論はすでに出ていて、そこに私の意見を求めなかった。それが今のこの場である。ならば追いすがりはしない。この結果を粛々と受け止めるだけだ。
涙は止まった。
そして是の返答をすべく口を開いた時、唐突に、視界がグニャリと歪んだ。
驚く間もなく、視界は暗転。
吐き気を催すほどの気持ち悪さがこみ上げ、何かが抜け落ちるような喪失感にも襲われる。混乱のさ中あがくように目を凝らせば、またしても唐突に光があふれ視界が戻ってきた。
過ぎてしまえば一瞬とも思えるような短い時間だったが、極度の疲労感が全身を覆う。異常事態が起こっていることを、体が私自身に警告しているようだった。
いったい何が起こったのかと取り戻した視界で周囲を見回せば、何かがおかしい。いや、何かという曖昧なものではなく、すべてがおかしかった。
それは場所であり人であり、先ほどから目まぐるしく変化する視界でもあった。
まず場所が先ほどまでいた教室ではなかった。部屋の一室に間違いはないが、見覚えのある応接間のように思える。けれど記憶と照合され導き出された答えは婚約者の、つまりは王家の応接間で、余計に私は混乱した。先ほどまでいた教室を考えるとそんなはずはないと脳が否定する。学園と王宮はこんな一瞬で移動できる距離ではない。絶対にありえなかった。
人は一瞬にして場所を移動することは出来ない。考えるまでもない世の理だ。ならば精神的なストレスに耐え切れず、私はあの場で気を失ってしまったのだろうか。そして仕方なく婚約者が介抱のために王宮に連れ帰ったのだろうか。けれどあの状況で自分のテリトリーに婚約を破棄しようとしている女性を連れ帰るだろうか?
よしんば連れ帰ったと仮定して、それでもこんな応接間に座らせず客室などのベッドに寝かせるはずだ。間違ってもソファに座らせることなどありえない。
そう、私はソファに座っていた。これがまた異常事態だった。なにせ、足がつかないのである。背もたれも遠く、姿勢よく座る私はお人形のようにソファに腰かけている。なぜ背もたれが遠く、足が地面に届かないのか。現実をそのまま受け止めると、結論は家具のサイズがおかしいからだ。成人を間近に控える私のサイズにまったく合っていない。そしてそれは視界に入る家具すべてに言えることだった。すべての家具が大きく見えるのだ。
ここで私は自分が気を失っていると仮定して、まだ目覚めていないのではないかと疑った。そうすべては夢の中。だって、混乱した頭を落ち着けようと額にかざそうとした己の手が、とても小さかったのである。その手はぷくぷくとした短い指に、小さな手のひら。そう、明らかに子供の手だった。
そんなはずはない。
何度も否定ばかりしていると、頭がぼんやりとしてきた。どうやら私は思考を放棄したいようだ。クラリと傾げた体が、ポスリと隣に座っていた人にぶつかって止まる。そこでようやく隣に人が座っていることを私は認識した。慌てて体を離そうとすると、頭を大きな手で柔らかく撫でられた。ビックリして恐る恐るその手の持ち主を振り仰ぐと、そこには幾分か若返った父親が、私に笑いかけていた。
「どうしたんだい、緊張しているのかな?」
私に対して、いつも父は優しく話しかけてくれる。そこに親の愛情を感じて、私は父の声を聴くことが大好きだった。けれどいつものように聞き入ってはいられない。やはり、父もいつもの父ではなかったのだから。
最近の父は少し混じり始めた白髪を恥ずかしがっていたのに、今の父には白髪の「は」の字もないほどこげ茶の髪の毛が綺麗にセットされている。そして、大きい。そう、大きいのだ、父も。最近は近付いてきた目線の位置は高く、撫でてくれた手は私の顔ほど大きい。
ことここに至って、私は認めざるを得ない。
周りのすべてが大きいのではなく、私が、小さいのだ。
自分が子供になってしまっている現実に呆然としていると、正面のソファには先ほどの教室で鋭い視線を向けてきた婚約者が同じく座っていることに気が付いた。ここは王宮の応接間なのだから彼が居ても不思議ではないのだけれど、彼を認識したとたん決定的な違いが私を襲う。
もう成人間近だったはずの婚約者が、とても小さいのだ。
推測するに、おそらく5歳前後。
婚約者が、見るからに幼かった。
見間違う事も出来ないほど、圧倒的に子供だった。
これはもう本当に、一体全体何事なのか。自身も同じく小さくなってしまっていることを棚に上げて視線を外し、思い切り婚約者を見ないようにした。
考えても考えても答えは出ず、混乱は続く。思わずすがるように父の服の裾を握ってしまった。
けれど父は娘の異常には気付かなかったようで、尚も向かいに座る婚約者の父、すなわち陛下と楽し気に会話を続けていた。
理解が及ばないなりに会話に耳を傾けてみれば、内容はなんと自分と婚約者の婚約についてだった。
意味が分からないし理解もできないが、無理やり自分を納得させるならばどうやらここは過去。そして今まさに婚約者との婚約が成立する寸前のようだ。
これはやはり夢なのか。
あんな結末を迎えるくらいならと、後悔を抱える自分がみる、都合のいい夢なのではないか。
そうとしか思えないのに、早鐘を打つ自分の心臓は痛いくらいに存在を主張している。
何にせよ夢であろうが何であろうが、いや、もしも現実ならばこそ今この瞬間、自分は主張しなくてはいけない。
この婚約は、成立するべきではないことを。
先ほど体験したばかりの絶望は二度と味わいたくない。
先ほどは縋った父の裾を今度はもっと力を込めて引く。
今は大切な話をしているんだよと父は諭してくるが、この優しい父に叱られようとも言わねばならないのだ。
私に優しく接してくれていた陛下の前で失礼なことは承知の上だが、父を介して話すには時間がかかってしまう。この場の全員に聞こえるように宣言してしまった方が話は早そうだ。
この時の私は焦っていたのだろう。あの絶望から心が落ち着く間もなくこの状況だ。普段では尻込みしてしまうようなことも、躊躇うことなく実行できた。
勢いをつけるように大きく息を吸い、聞き届けられることを願うように声を張った。
「「婚約はしたくありません!!」」
勢い込んで言った私の言葉に、誰かの言葉が重なる。
その声の主は先ほどから黙っていた婚約者のものだった。婚約破棄を宣言した時の低い声ではなく、子ども特有の高い声で、私と全く同じことを宣言していた。
お互いに驚いて、婚約者と目がバッチリと合った。
相手も同じことを叫んだ私に驚いていた。しかしその目に純粋な驚きを湛えたのは一瞬で、すぐにあの鋭い眼を向けてきた。
そこで私は瞬時に悟る。おそらく相手も悟ったことだろう。
わななく唇を動かし、悲鳴のように叫んだ。
「「お前もかよ!!?」」
口が悪くなってしまったのはご愛敬。
同じ記憶を持つ者がこの場に二人。
更なる混乱の渦に巻き込まれた私と『元』婚約者は、これ以上の脳内処理が追い付かず、二人同時に倒れたのだった。