第五節 遠くへ
ミーシャは階段を上っていた。一段、また一段と次の段へ足を乗せて歩いた。大勢の見物人が憎悪の声を上げる。
「何をそんなに叫ぶのか、何をそんなに恨むのか、考えても到底理解ができない。彼らはこの私と異なるのだから、彼らはあの少年と異なるのだから、彼らは自分というものを知らない、彼らは死というものを知らない……」ミーシャは見物人たちを見て思うのであった。
今日は、生憎の天気だ。雲は空を覆い尽くし、薄暗い。「ついに私は天からも見放されたのだ」とミーシャはつぶやいた。こんなことになるのであれば、いっそのこと悪魔にでもなってしまえばよかった。口には出さないが、そのような感情がミーシャの心の隅にあった。
――サイレンで地面が振動する――
サイレンの後、憎悪の声は歓喜ともとれる声に変わった。「これは私の最期を知らせる音、もう二度とあの空へと戻ることができない。もし生まれ変わることができたのなら、また、ビリーに会いたい。私のことを救ってくれた、あの優しい愛をまた感じたい。私はその愛によって生かされていた」
――男が来て、ミーシャに袋を被せる――
「しかし、あの法衣を着た男が言うように、私には消滅が待っている。もうなにもないのだ」
誰かが大声で号令を出すと、ミーシャの足元にあった床が抜け、底なしの暗闇へ落ちていくのであった。
ミーシャは目を瞑っていた。しかし、いつになっても風の音が聞こえてくるだけだった。自分は苦しむ間もなく処刑されたのだと、ミーシャは思うのであった。しかし、どういうことだろう、消滅したはずの自分がまだここにはある。呼吸ができる。手もあれば足もある。風が吹きぬけ、まるで空を飛んでいるような感覚だ。
少年の声がした。
「ミーシャ、大丈夫、ミーシャ」
懐かしい声。もう二度と聞くことができないとあきらめたあの声がする。
「ねぇ、ミーシャ、その被ってる袋、外してよ、邪魔でしょ」
ミーシャは袋をとり、その少年の顔をみた。 ビリーだ。
「ビリー、ビリーなの? ほんとに……ビリーなの?」
「なんだよ、見ればわかるだろ、もう忘れちゃったの?」
ミーシャは首を横に振って言った。
「忘れてない、忘れるわけないじゃない」
「よかった」
「でも、なんでビリーと空を飛んでいるの? なぜ私たちは飛べているの?」
ミーシャはビリーの背中のあたりを見た。すると、大きく広がった翼が見えた。
「さあね、細かいことは分からないよ。でも、もうすぐ僕は飛べなくなっちゃうんだよね……。ねぇ、ミーシャ、でもね、まだ時間があるみたい。行けるところまで飛んでいって、そこでまた暮らそうよ、大丈夫、僕たちならきっと大丈夫、なんとかなるよ」
ビリーはミーシャに微笑んだ。
ミーシャも微笑み、これまでにないくらいに、幸福というものを感じるのであった。




