Ⅵ Sussex Carol
「クリス、クリス、パン屋さん!」
町角のパン屋の前で、亜理沙がクリスの肩を叩いて呼び止めた。
「あんパン買わなきゃ!あんパン!」
「……ってなに?」
聞き慣れない単語に、クリスは怪訝な顔をしながら首を捻る。
「あれ?張り込みの基本はあんパンと牛乳でしょ??」
「だから、『あんぱん』ってなに?」
亜理沙は、酒種で発酵させたパン生地に小豆餡を包んで焼いた日本の国民的菓子パンの一つ、あんパンと、パック入りの牛乳、それから日本の刑事ドラマにおける刑事さんの張り込み定番スタイルを説明した。
菓子パン、パック牛乳、刑事ドラマなど、微妙にニュアンスが伝わらない項目もあったが、亜理沙のあやふやな説明でも、なんとか意味を汲み取り理解してくれようとするクリスは優しい。
因みに、張り込みの定番が『あんパンと牛乳』である事へのクリスの感想だが、「それ、その品物である必要なくない?」だった。
ごもっともである。
「アリサさん、そのあんパンっていうの、好きなの?」
「定かではないけど、たぶん、あんパンとは人並みの距離だった様な?……いや、でも、張り込み初心者として基本は押さえておかねばと思いまして」
「アリサさんの記憶ってさ、役に立つんだか立たないんだかよく解らないものに限って、しっかり残ってるよね……というか、そもそも、これからやるのは張り込みじゃないから」
「お墓で寝ずの番だよね?それを張り込みって言わない?」
「言わない」
冒険者組合で依頼を確認したうち、クリスが受けたのは、街外れにある墓地の見張りだった。
ここ数日、夜間に墓荒らしが出ているので、番をして、犯人を捕まえて欲しいそうだ。
本来、それ自体は、別段、死霊遣い(ネクロマンサー)でなくとも出来る依頼なのだが、夜の墓……というのがネックで、死霊遣い(ネクロマンサー)の仕事に墓守りが振られる事は割りと多いらしい。
「つまりまぁ、何日かかるか分からない上になにが出るか分からないからみんな避けたがるんだよね、で、普段から霊を見てるんだから平気だろうって事で、回り回ってオレたちみたいなところに依頼が行く」
今回は特に、周辺で不死者の目撃情報もあるため、クリスのランクまで受注の難易度が上がったという事だ。
「クリス、優秀なんだねぇ」
「そんな事はないよ。冒険者のランクとしては、上にもう1ランクあるし、ランクの中でも実際には能力に差があるし、オレなんて駆け出しもいいところだから、まだまだ、だ」
クリス曰く、こちらの世界では、亜理沙の世界で言う中等教育以降になると、就学率より就職率のほうが高いらしく、クリスも冒険者組合に登録可能な13歳で死霊遣い(ネクロマンサー)の道を歩み出していた。
「ランク無しがあって、それから、ブロンズ、シルバー、ゴールド、プラチナムの順に上がって行くんでしょ?……え、やっぱり、クリス、優秀じゃない??」
今、クリスの年齢は14歳だから、冒険者組合に登録して一年でゴールドのランクに上がった事になる。
(日本だと、まだ、義務教育の真っ最中だもんね)
自分のその頃を思えば、自分の能力で生計を立てて、そこまで行っているクリスは、やっぱり優秀だと亜理沙は思った。
(今だって、学生……)
そこまで考えて、亜理沙は「あれ?」と、首を傾げた。
(私、学生だっけ……?)
亜理沙の歳で学生ならば、今は、大学生、短大生、専門学校生などがあるが、どれもしっくり来ない。
たからと言って働いていた様な記憶も無いのだが……。
(私、向こうでは、普段、何やってたんだろう……)
「アリサさん?難しい顔してるけど、どうしたの?」
クリスが心配そうに亜理沙の顔を覗き込んでいる。
ほんのちょっと前に多大な心配をかけたばかりなのに、『これではいかん!』と亜理沙は首を振った。
「なんでもない!」
上手い誤魔化し方が思いつかず、全然なんでもなくない感じになってしまったが、笑顔で押し切る。
クリスは何か言いたげにしていたが、一つ溜め息を吐くと、それ以上は追及して来なかった。
「じゃあ、あんパンの代わりになに買おうか!ジャムパン?」
「それ、まだ続ける気なんだ……」
ジャムパンってなに?とは訊かれなかったので、ジャムパンはあるのか尋ねたらあるとの答えを得られたので、ジャムパンを買うためにお店の扉を潜る。
「食べるのオレなんだけど……」と、言いつつ、クリスも特に亜理沙を止めずに店の中へとついてきた。
余談ではあるが、この日、「ずいぶんと長い間入り口で立ち話してましたね」と言った店員に、亜理沙が「あんパンを買うかジャムパンを買うかで揉めまして」と答えてしまい、そこから再び『あんパンとは何か』を説明して生まれた、青エンドウのあんパンが、この店の看板メニューとなった事を追記しておく。