Ⅰ Christ Child's Lullaby
「おお!」
体が軽い。
「おお〜〜っ!!」
すごく軽い。
だからまるで重力なんて存在しないみたいに、どこまでもどこまでも上昇し続ける事が出来る。
「うぉぉぉぉっっっ!!!!!」
かと思えば。旋回、滑空だってお手のもの。
さながら気分は遊園地のアトラクションだ。
「というか〜お姉さんさ〜〜〜っ」
既に遠くなった下方から、豆粒みたいな人影が叫び声を上げる。
「何でしょ〜〜〜う〜〜っっ」
同じく叫びながら下降して相手に近付いた。
すると、豆粒は白髪に青い目をした少年の形に姿を変えて目の前に表れる。
途端に、相手から目を反らされた。
「いつまでも裸で居るの止めて、いい加減服を着ろよっ!!エーテル体なんだから服とか自由に着られるだろっっ!!」
何でわざわざ裸なんだよ……と、耳まで真っ赤にしながら言う少年の様子がとても可愛らしかったので、彼女は思わずその頭を撫でる。
その手越しに、少年の白髪が透けて見えた。
「っ……だから服を着ろって!!」
再び顔を背けながら、彼女の手を払い除けようとした少年の手は、そのまま何も捉えることなくすり抜けて行く。
(おや、これは……?)
すり抜けられた己の手を見つめながら彼女はグーパー、グーパー、を繰り返した。
やはり、自分からの感触はしっかりある。
が、特に何も変化は見られなかったので、首を傾げつつ彼女は言った。
「えーと、実はですね……」
少年が彼女のなるべく顔のみを捉える様にして目線だけを動かす。
「どうやって服を着ればいいのか、分からない……の……です……が……?」
「はぁっ!?」
しかし、続いた彼女のその言葉に、少年はすっとんきょうな声を出した後、顔をうっかりこちらに向けてしまい、三度赤面して反らしたのだった。
***
気がついた時には既にこの状態でこの場所に居た。
……というのが、亜理沙の言い分である。
「名前は?」
「榊亜理沙です」
「年は?」
「19歳です」
「生まれは?」
「日本生まれです……生粋、混じりっ気なし、純度100パーセントの日本人です」
「ニホン生まれ……ニホンジン……?」
少年……クリスが、眉間に皺を寄せて亜理沙の言葉を繰り返す。
その眉間の皺を亜理沙はしばし見つめていたが、一つ頷くと、そっとそこに人差し指を当て、おもむろにグリグリと押し始めた。
「ちょっと、ふざけるなよ」
するとクリスは、今度は顔全体で、思いっきりしかめっ面を作り、煩わしそうにその手を払い除けた……が、彼の手は『やはり』亜理沙の手をすり抜ける。
(なるほど……)
再び、亜理沙は頷いた。
これで、この体は、『こちらからは触れられる』けど、『あちらからは触れられない』という事が確かめられたし、解った。
「いきなり、なんなわけ?」
「え……何って、ちょっとした実験的なものをば」
亜理沙の言葉に、クリスは渋面を深くした後、おもいっきり溜め息を吐いた。
「あのさ、これ、何のために時間をとってるかお姉さん解ってる?」
「はて、何でしょうね?」
「……」
その、あんまりにあんまりな亜理沙の答えに、とうとう堪忍袋の緒が切れたのだろう。
クリスは無言で立ち上がり、亜理沙を置いて歩き出す。
「あ……ちょっ、ちょっとお待ちを!少年!!」
慌てて呼び止めると、クリスはピタリと動きを止めた。
そして、こちらを睨み付けながら体の半分だけで振り返る。
「クリス」
亜理沙が首を傾げると、今度は体全体でこちらを向いてから再びクリスは言った。
「少年じゃなくて、クリス……さっき自己紹介したじゃん」
「私も、自己紹介したのに依然『お姉さん』のままなのですが」
はぁ、と溜め息が聞こえる。
自分が原因だとあまり自覚出来てない亜理沙は、そんなに溜め息ばっかり吐くと幸せが逃げるぞクリス少年……と、他人事みたいに考えた。
「サカキアリサさんさ、真面目さが足りないとか、緊張感が足りないとか、よく言われない?」
「言われていた様な、いない様な……実は、そこら辺の記憶が曖昧でして」
名前は分かる。
歳も分かる。
出身も分かる。
しかし。家族は両親と兄がいた事も分かるのに、自分が彼らとどんな会話をして、どんな風に過ごしていたのかは分からない。
自分が住んでいた国にあった習慣だとか、起こった事件とか、流行りだとか、そういう事は覚えてるのに、それらに対する自分の距離感もあやふやだ。
一番は、どうして、自分は今ここに居るのか。
直近の出来事なのに、全く覚えていない。
自分の記憶は、ところどころが抜け落ちて、穴だらけになっている。
「私、何で裸で、尚且つ透けた姿で、ここに居たんでしょうね?」
「オレに訊かれても知るかよ……オレが分かるのは、サカキアリサさんがエーテル体でここに浮いてるのをたまたま通りがかって見つけただけって事で……現状、サカキアリサさんが生きてるのか死んでるのかも分からないんだからさ」
「あ、私、死んでる可能性もあるんですね」
「エーテル体だからその可能性は否定できない、としか……オレ、きちんと訓練受けた死霊遣い(ネクロマンサー)じゃないから、それ以上はなんとも」
「先ほどから言ってる、その、えーてるたい……って、なんですかね?あと、ねくろ……まんさぁー??」
「そっからなんだな……」
そこでクリスは、亜理沙と出会ってから、もう何度目になるか分からない溜め息を吐く。
それから、一度深呼吸して、小さく「よし」と言ったのが聴こえた。
「先ず、サカキアリサさんのその体の状態については、一応、オレが説明できる。あと、多分、サカキアリサさんがどこから来たのかはなんとなく予想できてる。で、サカキアリサさんが理解力が低くて話を混ぜっ返すっていうのも理解した」
「おおぅ、えらい言われよう」
「オレはサカキアリサさんに自覚がない事に驚いたよ……とにかく、そこら辺を含めてきちんと話すから……ついてきて」
「どちらへ?」
「この先にある町だよ。本とはもうそこへ着いてて宿を取ってる予定だったのに、サカキアリサさんを見付けてこうなってる……だから早く宿で休みたい」
クリスは、もう三日、野宿で疲れているから今日こそはきちんとした寝床で寝たいのだという。
「私がついて行ってもよろしいんで?」
「さっきからそう言って……いや、オレも言葉が足りてなかったな……サカキアリサさんを見付けて声をかけたのはオレだし、このまま、こんな惚けたサカキアリサさんを置いていくのも心配だから、サカキアリサさん、オレと一緒に行こう」
よほど間抜けな亜理沙が気がかりなのだろうか?
そう言ったクリスの瞳は、なぜだか不安げに亜理沙を見つめている。
周りで、白い髪が風にそよそよと揺れていた。
その風が自分の体の中を通過するのを感じて、一応、この体も、そういう感覚はあるのだな……と、亜理沙は思う。
よろしくお願いします。
と答えれば、クリスの瞳から不安の色が消えた。
歩き始めたクリスの隣を、ふわふわと漂う様に着いて行く。
「あ、そう言えば、気になってたんですが、ずっとフルネームで『サカキアリサ』って言うの大変じゃありません?」
「どういうこと?」
「ずっとフルネームでサカキアリサって呼んでるでしょう?だから、姓の『サカキ』か、名前の『アリサ』、どっちかでいいですよ?」
「……そういうのは、早く言ってよね」
どうやらクリスは、『サカキアリサ』で、一つの名前だと思っていたらしい。
そして、弱冠、言いにくいな……とも、思っていた様だ。
最初に『サカキアリサさん』と言われた時に、流したのがいけなかった。
悪い事をした。
そう思いながら、亜理沙が空を見上げれば、遠いところがオレンジ色に色づいている。
再び、隣のクリスを見れば、彼の白髪も、うっすらとオレンジ色に色づいていた。