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それは七つばかりの頃  作者: 皇 凪 沙
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 それはまだ七つばかりの頃だった───

 その頃からえんは闇に怯えぬ子どもであった。二親は土手端で客を待つような仕事をしていたから、夕に出て行き夜中まで帰っては来ない。

 それをよいことに、えんは辺りが闇に包まれる頃になると家とも呼べぬようなねぐらを這い出し、夜半の野辺でひとり遊びをするのが常だった。

 春の宵、つい先頃まで冷たく吹き付けていた北風は生暖かい南風に変わり、どこか生臭いような春の匂いが辺りを包んでいる。その日もえんはねぐらを抜け出し、やっと春草の伸びかけた土手際の小さなくぼみにうずくまっていた。

 川向こうには、行き交う人もあるらしく、時折り提灯の明かりが揺らぎ、人声もかすかに聞こえてくる。おとうとおかあも向こう岸まで出張って行ったのだろう。この分では今日も帰りは遅いに違いない───。

───きょうはなにをしようか。

 小さなくぼみの中に身を屈めて、えんはゆっくりと考える。向こう岸から人の声が聞こえてくる。彼らが、けして川のこちら側には来ないことを、えんは知っていた。

 暗くなってから───いやたとえ日のあるうちでも、まともな人間はこんなところへは足を向けない。えんのねぐらから少し奥へ入ったところには、刑場があるのだ───。

───そうだ、けいじょうへいってみようか。

 そう思ったのは、その日の昼前罪人の処刑があったからである。

 いつもは川のこちら側に人が集まることなどありはしないが、罪人のお仕置きがあるときばかりは別である。罪人の処刑というものを、えんはものごころもつかないうちから知っていた。どこか打ち沈んだ明るさと後ろめたさの混じる賑わい。おとなたちの尋常ではないざわめきと、押し殺した囁き。同情と嘲笑。悲痛さと酷薄さ。そして、好奇の目───

 えんはそれを、すこしばかり楽しみにさえしていた。

 昼間引かれてきた罪人は、薄汚れたような中年のおとこだった。捨て札を先頭に、刺股(さすまた)袖絡(そでがらみ)を持つ非人たちに囲まれ、はだか馬にのせられて刑場へ引かれていく罪人を、えんはやじうまたちのかげからのぞきみていた。

 えんのねぐらの掘っ立て小屋の前を過ぎれば、刑場は目の前である。どれほど豪胆な罪人であっても、ここまで来れば血の気が引く。気の弱い罪人なら泣き叫び、小便をもらす。つま先からぽたぽたと滴をたらしながら引かれてゆく罪人を、えんも見たことがあった。

 今日のおとこは、泣き叫ぶでもなく、強がるでもなく、押し黙ったままただ呆然とした顔で揺られていた。えんはそっとやじうまの間をくぐって罪人を追った。矢来で囲まれた刑場の中には、すでに仕置きの準備ができている。厳めしい姿をした見届け役の役人と、切り役。罪人が据わる場所には粗莚(あらむしろ)が敷かれ、血溜めの穴が四角に掘られている。

 しかし、罪人の列は刑場の入り口を少し左へそれて、小さな堂の前で止まる。堂の中には、怖ろしげな顔をした閻魔さまが奉られている。ここで罪人は最後に罪を懺悔して、刑場にのぞむのだ。

 罪人が馬から下ろされ、堂に入る。しばらくの間、堂の戸は閉じられ、やじうまたちのざわめきが大きくなる。寸刻の後、再び扉が開いて罪人が引き出される。なにか感じるところでもあったのか、罪人の嗚咽する声が聞こえた。

 えんは、そのおとこが嗚咽を漏らしながら土壇場に引かれてゆき、一刀の元に首を落とされるさまを、ただ見ていた。怖ろしいとも、可哀想だとも、良い気味だとも思わなかった。ただ、なぜ罪人を閻魔堂へ引いて行くのかと不思議に思った。まもなく本物の閻魔のもとへ出向くというのに、作り物の閻魔に許しを請うたところでどうにもなるまい――

 切り落とされたおとこの首は、血を洗い落として獄門台に晒された。晒されたところで誰も見に来るものもなかろうにと、えんは少しそのおとこを哀れに思った。


 闇の中で見る刑場は、昼間と変わらなかった。鬼火が出るわけでも、獄門台の首が目を剥くわけでもない。ただ、いつもの通り静まり返っていた。

 刑場を囲む竹矢来をくぐって、えんは刑場の中にもぐりこんだ。もちろんおとこの胴はすでに持ち出され、血溜め穴は埋められている。莚も取り払われ、ただ四角い穴の跡だけが残っていた。それらをざっと眺め、えんは獄門台のそばへ行ってみる。

 捨て札と仰々しい捕り物道具か飾られた台の隣に獄門台がしつらえられ、昼間のおとこの首だけが晒されていた。

首は洗われたせいか、おとこの胴についていたときよりもきれいに見える。苦しげというよりはなんとなく悲しげで、血の気のまったくなくなった顔は、青白く闇に浮かんで見えた。

 しばらく、あちらこちらと首を眺めていたが、これ以上どうなるものでもない。やがてえんは興味を失い、再び竹矢来をくぐって外へ出た。

───さて、どうしようか。

 まだ、月は山の端にのぼったばかりである。二親が帰ってくるにはまだ間がある。えんは少し考えて、閻魔堂に向かった。

扉の隙間から、明かりが漏れている。処刑されたおとこを弔うためか、閻魔堂に珍しくろうそくが燈されているのだろう。えんはそっと扉の隙間から、閻魔堂の中を窺った。

───?

 いつもは、見えないはずのものが見えた。特に違和感はない。しかし、それはそこには無い筈の物だった。

 正面の高い壇の上には鮮やかな色に塗られた閻魔王。

 黒々とした鉄札(てっさつ)を手にした倶生神(ぐしょうじん)

 左右に赤と青の獄卒鬼(ごくそつき)達。

 壇荼幢(だんだどう)、業の秤、浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)───。

 そこには、地獄の裁きの様が余さず再現されている。そこに欠けているのはただ閻魔王の前に額づく亡者だけである。しかし今、ろうそくの明かりにこうこうと照らされた堂内には、明らかにひとりのおとこが額づいていた。

 このような時間に刑場前の閻魔堂にひとがいるとは思われない。あるいはお仕置きになったおとこのゆかりの者かも知れないが、おとこを知る者ならば余計にこのようなところをうろついてはいないだろう。晒された首を奪いにきたと疑われれば、面倒なことになる。

 幼いえんが、そこまで考えたとは思われぬが、少なくともこのような所にひとがいるはずはないと、そこまでは思い至った。

 えんはさらにじっと堂の中を覗いた。

 ゆらりと、像が動いた気がした。

 木造りの閻魔王が、倶生神が、獄卒鬼が、一斉にゆらりと動いた。ろうそくの明かりが揺らいだせいかと、えんは右手の甲で両の目をこすった。

 再びのぞいたえんの目に、きらりと光るものが映った。のっぺらとした木の板だった浄玻璃の鏡が、ろうそくの明かりを映して輝いていた。

───ああ。

 えんは、理解した。

 ここは、地獄の裁きの場なのだ。

 額づいているのは、そこに晒されている罪人ではないか。

 これから、ここで、おとこの裁きが始まるのだ。

 何もおかしなことはない。

 おとこは死んでいるのだから───。


 えんはそっと堂のとびらを開けた。

 ざわりと場がざわめいて、生気を持った異形の者達の視線がえんに向けられた。


───ほう。

と、そう云ったのは閻魔王だった。

「珍しい客だ。我等が見えるか。」

 咄嗟に身構える獄卒鬼を片手で制し、閻魔王はえんに笑いかけた。

 えんは肯くと、獄門台に首を晒しているおとこに目を向けた。

「そのひと、どうなるの?」

 閻魔王はぎろりと目を剥いた。

「知りたいか。」

 えんは肯いた。

「ならば、そこで見ておるがいい。さて倶生神───」

 はい───と、倶生神が応える。

「このおとこが行った悪行善行のすべては、この鉄札に誤り無くまた余すところ無く刻んでございます。」

 黒々と光る鉄の札を倶生神がおとこに向けると、おとこは慌てた様に視線をそらした。

「青鬼、赤鬼。とくと見せてやれ。」

 閻魔王の言葉とともに、青赤の獄卒鬼がおとこに走り寄り、後ろ頭を捕まえて鉄札の方へ捻じ向ける。

「どれが悪行でどれが善行か、倶生神、示して見せよ。」

「はい、こちらが悪行にございます。」

 倶生神が鉄札の大半を指し示す。

「さて、では善行はどこにある。」

「こちらの隅にございます。」

 倶生神が指し示した鉄札の隅にほんの数行刻まれた、それがおとこの善行のすべてであるらしかった。おとこが絶句した。

「これはずいぶんな悪人であるな。倶生神、この悪人におのれの悪行を読み聞かせてやれ。」

 倶生神が肯く。

「それでは申し上げます。こまごまとした悪行をあげれば切りが在りませぬが、まずは幼き頃堂宇(どうう)へ盗みに入った、これが罪の犯し初めにございます。その後は本格的に盗みを覚え、やがては商家も武家も寺家も見境無く、己のもの人のものの区別もなく、押し入り奪う愚かしき所業に及び、さらには盗みのついでと女を犯し、人に見られればこれを殺し、後を追われぬように火をかけるなど悪行に悪行を重ね、とうとう捕らえられはしたものの、その悪行のほとんどに口をつぐみ、首を晒してはおるもののとても十分な罰を受けたとは申せませぬ。このうえは閻魔王様より、厳しき御処断を下されまするがよろしかろうと存じます。」

 倶生神の口上に、閻魔王はうむと肯いた。

 閻魔王の目の前では、容赦ない断罪を受け残酷な現実から目をそらそうともがくおとこを、獄卒鬼達が押さえつけている。

「どうだ、何か申し述べることがあるか。」

 閻魔王の問いに、おとこは必死の形相で訴える。

「───たしかに、わたしは盗みもし、殺しもし、犯しもし、火をかけも致しました。しかしそれは生きてゆくため、生き抜くため。殺し、火をかけたのも数度のことでございます。」

「言い訳にはならぬな。大抵のものは殺しも火付けもせぬままに一生を過ごす。また、盗み犯すことがあってもせいぜい数度の過ち。おまえの悪行が度を越していることは明らかであろう。」

 必死に訴えるおとこの言葉を、閻魔王は一蹴する。

───当然だ。と、えんはそう思う。

 おとこの悪行が哀れみを請うには度が過ぎていることは、幼いえんにも十分に判る。

「ほかに云うことが無ければ、おまえには地獄行きを申し付けるが、それで不満はあるまいな。」

 おとこの顔から、すうと血の気の引くのが見て取れた。その顔は、外で晒されている首にそっくりだった。

「お、お待ちください───。」

 最後の足掻きとばかりに、おとこが叫ぶ。

「この期に及んでまだなにか申すことがあるというか。」

 じろりと閻魔王がおとこを睨みつける。しかし、ここで引き下がれば地獄行きのおとこは、必死で訴える。

「どうか、善行もお調べください。少ないとはいえ、なにか身を救うことが無いとも限りません。どうか───。」

 涙を浮かべ、地に額を擦りつけて哀願するおとこに、閻魔王は仕方がないとばかりにため息をつき、倶生神に命じて言った。

「善行を読み上げよ。」

「はい。善行としてここに刻まれたものは、たったの三つにございます。一つは捨て子を養ったこと、しかしこれはその子どもを長じてから盗人として仕込んだことで帳消しになっております。またもう一つは貧者に金品を施したこと、もっともこれは他人から盗み取ったものでありますからこれもまた帳消しとなりましょう。最後は通りすがりに溺れた子どもを助けたこと───これは無心でしたことですから、帳消しにはなりませぬ。ただひとつ、これだけがこのおとこの善行と云えるようでございます。」

「そうか。ところでその子どもは、今も生きておるか。」

 問われて倶生神は懐からなにやら帳面のようなものを出してしばらく繰っていたが、やがてようやく探し当てたのか顔を上げた。

「生きております。まだ助けられたことは忘れていないようで、このおとこを誰とも知らず感謝している様子でございます。」

 一抹の希望に、おとこはすがるような目で閻魔王を見上げている。

「そうか、よかろう。」

 倶生神がかしこまる。

「さて───やはりおまえは地獄へ行くがよい。人の命を大切に思うその気持ちがありながら、多くの命を奪ったその罪は重い。」

 うう。と呻いておとこが項垂れた。

「青鬼赤鬼。このおとこを焦熱地獄へ引いてゆけ。おのれの放った火に焼かれ、害した人々の恨みの炎に灼かれて苦しむがよい。焦熱地獄の亡者の寿命はたっぷり一万六千年、それだけあればお前が背負う重い罪もつぐない切れよう。」

 悄然と項垂れるおとこの口から、嗚咽がもれた。

「なにを泣く。おのれのつくった悪因が、おのれに還るのは当然のことであろう。しかしまた、善因もまたおのれに還る。たとえわずかなりともおまえの中に善因をつくる心があるならば、そして悪行を悔いる気持ちがあるならば、善果は必ずおまえに還ろう。」

 おとこが涙に濡れた顔を上げる。閻魔王は穏やかな顔つきで、おとこを見下ろしていた。


 おとこが赤青の獄卒鬼達に引かれてゆくのを、えんはじっと見つめていた。

「どうだ。」

 閻魔王がえんに尋ねる。

「あのおとこは、焦熱地獄へと堕ちた。哀れと思うか、当然と思うか。」

 えんは首をかしげる。そもそも地獄の様を知らぬのだから、どうにも答えようがない。一部始終を見る限り、地獄というものが罪を責められるところなのか、また赦されるところなのか、えんにはどちらとも判断がつかなかった。

「あのひとは、どうなるの。」

 だからえんは、はじめと同じことを閻魔王に問うた。

 閻魔王はおどろいたように笑った。

「なかなか思慮のある子どもだ。名はなんと云う。」

「えん。」

 真っ直ぐに答えるえんに、閻魔王は再び笑った。

「そうか、えん。教えてやろう。地獄とは、いやすべてこの世界というものは、おのれの為した善因悪因のめぐるところ。ただそれだけのこと。あのおとこがどうなるか、それは誰にも分らぬ。」

 えんはふうと息をついた。なにかがまだ胸の辺りにつかえているような、そんな気持ちだった。

「えん。地獄というものを、おまえに見せてやろうか。」

 えんは肯いた。

 そうか、見たいかと、閻魔王は三度笑った。

「よかろう、見せてやる。しかし今宵はもう時も遅い。二、三日したら、またここへ来るがいい。ろうそくを灯して待っていよう。さあ、もう帰るがいい。月も上った。」

 いわれてえんが振り返ると、堂のとびらの隙間から中空にかかるこうこうと光る月がのぞいていた。

 一瞬の後、再び堂内に目を戻すと、すべては消えていた。いや、消えたわけではない。正面の高い壇の上には鮮やかな色に塗られた閻魔王。黒々とした鉄札(てっさつ)を手にした倶生神。左右に赤と青の獄卒鬼達。壇荼幢、業の秤、浄玻璃鏡───。なにひとつ欠けてはいない。

 ただそれらのすべてがたましいを失い、ただの木像に戻っていた。

 のっぺらとした木の板に戻ってしまった浄玻璃鏡に目をやって、えんは閻魔堂を出た。中空にかかる月はこうこうと辺りを照らしていたが、扉の隙間からのぞいていた月よりも色あせて見えた。

 暗闇に沈む閻魔堂に背を向け、えんはそのままねぐらへ戻った───


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