タマの冒険日誌 page 08
寝て目が覚めたらノートパソコンに突っ伏していると思っていたのに、私は化け猫のままだった。タマタマ言われて、もう自分の名前を忘れてしまいそうだ。私は晶、加藤晶なんだから。
野宿二日目。真っ赤な太陽がてっぺんになったころ、深影さんが前方を指差した。
「あの立て看板の先が次のエリアになる。港町まで続くピア砂丘だ」
大草原とピア砂丘の境目は、蜃気楼のようにぼやけていた。境界線を跨ぐとゲームならエリアが切り替わるから暗転したのだろうけれど。
「砂丘か〜。どんニャところなんだろ〜」
「一面茶色の砂だらけで、なんの面白みも」
言いかけて、あっと呟く。
「足許のそれだけど、くれぐれも——」
私は世界旅行をしている気分だった。テンションが上がる。走り出さずにはいられない。
「競争ですよー! どっちが早く着くか! ニャ!」
「馬鹿、止まって! 下!」
え? と見返ったとき、ふにゃっとしたものを踏んづけた。なにこれ、と見降ろす。緑色のツタ?
と、蛇のような威嚇音とともに、どこからともなくマイタケちゃんが襲ってきた。眼を吊り上げてすごい怒っている。飛びかかってきたので、私は一生分の敏捷さを使ってあわあわと横に避けた。ぺたんと尻もちをつく。
「な、ニャんで! 襲ってこないって言ったのに!」
「君がそいつの触手を踏んだんだ!」
鬼気迫る表情で、深影さんは二本の日本刀を構えた。
あんな長い触手があるなんて聞いてないよ。これはまずいのではないかな。数発の頭突きで死んじゃうかもしれないんでしょ。というか私は一発でアウトじゃないの。
マイタケちゃんは腰が抜けている私に頭を突き出してきた。猫語も悲鳴も忘れ、私は眼を瞑って腕を挙げる。
そのとき、正面で布のようなものがふわりと舞い上がったのか、上半身を何かが掠った。次いで苦しげな短い呻きが耳に入る。
頭突きが来ると思ったのに、なんの衝撃もなかった。庇った腕の隙間から片眼をちろっと開ける。
「深影さん!」
目の前に深影さんの浅葱色の羽織があった。彼女の体よりも幅のあるマイタケちゃんが、何度も怒りを体当たりしてくる。深影さんは両手の日本刀で受け流すが、浴びる威力が凄まじいらしい。草履がじりっじりっと草原を削り、そのたびに羽織が左右に激しくたなびくのだった。
「ピア砂丘に」
くっ、と歯ぎしりのような音が割り込む。
「ピア砂丘まで走れ! エリアが変われば、こいつは追ってこられない!」
たぶん、と力んだ掠れ声が言う。
私は泡を吹きそうだった。よたよたと両手を突き、四つん這いで深影さんの後ろを脱した。笑っている膝を叩き起こして、彼女を見守りながら後退る。
「何してる! 早く行け!」
「み、深影さんはっ」
マイタケちゃんの背後からブーメランのように触手が回ってきた。バシッと深影さんの横腹を直撃し、吹き飛ばす。そうしてマイタケちゃんはなぜか鞠つきのようにバックしていく。狙いを定めた目つきがイヤな予感。
「ど、どうしよう……」
「——クソがっ」
一本の日本刀を地面に突き刺して、深影さんは腕をふるふる言わせながら片膝を突いた。
私は背中にしょっている重い筆の柄を掴む。けれど躊躇した。たぶん助けにはならない。それなら——、と草原に転がっている石ころを鷲掴んで、マイタケちゃんに投げつけるべく腕を振り上げる。
顔を上げた深影さんが、表情を歪ませて怒号を飛ばした。
「余計なことはするな!」
石を掴んでいる私は、ひっ、と手をびくつかせた。ところが次の一手が見えて、息を入れ替える暇なく危険を知らせる。
「深影さん、後ろ!」
はっ、と深影さんは後ろを見返る。助走をつけたマイタケちゃんが弾丸のように飛びかかってくるところだった。
深影さんは袴をはだけさせてマイタケちゃんの顔面を蹴り飛ばした。飛んでいくマイタケちゃんを尻目に、私に駆け寄ってベストを掴む。
「後ろを見ないで走る! 早く!」
「は、はい!」
短小な両腕を振り上げて私は必死に走った。深影さんからまた短い呻き声が聞こえ、先に行けというふうに私は背中をドンとど突かれる。
きっとマイタケちゃんがまた襲ってきた。深影さんは私の後ろできっと盾となってくれている。分かっていたけれど、何もできないから、眼をぎゅっと瞑ってとにかく必死にピア砂丘を目指して走った。
夢中で走り、肌に当たる大気がそれまでと違うことに気づいて、足を止める。猫の髭をそよがせる涼しい風。私は固く閉じていた瞼を開けた。そこには目の前に茶色の世界が広がっていた。
深影さんは!? 私は後ろを振り返った。ピア砂丘と大草原のおぼろげな境目から、深影さんのおぼろげな輪郭が遅れて浮き出た。こちらに近づくにつれ、輪郭ははっきりとしたものになっていく。
私が走り寄るのと時同じくして、深影さんが砂丘に飛び出してきた。つらそうに眉間に皺を寄せつつ倒れ込んできた彼女を抱きとめる。体の小さい私は潰れかけたけれど。
「深影さん、しっかりっ」
「タマは……怪我は……」
「私はないです。深影さんは?」
「私も……別段ない」
嘘だ。深影さんは何発か攻撃を受けていたはず。と思ったけれど服の上から見る限り、出血箇所とかはないみたいだった。羽織や袴に微かな土汚れや草が付着してはいるけれど。でも怪我はないという。それならどうして額にこんなに油汗を浮かせているのか。
「打ち身とか、打撲があるんじゃないですか」
「ないって」
そう煩わしそうに言い捨てる。
「だって痛そうにしてる。嘘はつかないでください」
「痛そう? この体はゲームのキャラだ。攻撃を受けたって痛みは感じない」
言われてみればそうかも。と思うも、痛覚があるかのようにときどき歯を食いしばるから腑に落ちなかった。
「この体で初めて戦闘して、思ってたよりも体力を消費しただけだ。ただの疲労だよ。少し休めば……」
喉を詰まらせながらそこまで言い、深影さんは私の膝の上でくたりとくずおれたのだった。