story11「使い捨て神子」
「……」
町の上空。鳥ですら飛ばないような高さで、一人の少女が町を見下ろしていた。
無造作に流れた赤い髪は腰よりもさらに長い。風でなびくその濃い赤色は、夕日の中でも目立ちそうな存在感。その髪よりもさらに赤い瞳が細められ、少女は口を開いた。
「ここに……いるのか」
背中にある悪魔の翼が勢いよく羽ばたき、少女はそのまま町へと急降下して行った。
★☆★☆★☆
「ねみぃ」
起きてまず出た言葉がそれだった。俺って最近こればっかだな。脳が全体的に退化してきてるんじゃないか?
あぁ~休みの前日だからって夜中までフレイムタイムズの新曲聞いてるんじゃなかった。睡眠は人類にとって最も必要な物だと俺は思ってるのに、まさかの寝不足。今日一日俺はダウンな気持ちで過ごすことになりそうだ。休みでよかった。
「おはよ……う?」
挨拶が疑問形になる。その理由は目の前の光景だ。
「……なにやってんだ? レナ」
リビングのソファーに座って、レナがまた絵を描いていた。
いや、それだけなら別に珍しい光景じゃない。見慣れた光景だ。レナは暇さえあれば絵を描いている。
ただ……絵を描いてるはずなのに、レナの目は天井を向いてるんだ。手だけ動いてる感じ。見ないで絵を描く練習? そんな馬鹿な。そんな超人芸を身に着けようとする意味はないぞ。自分の特技を一歩先へ! とか?
「……」
そして俺の挨拶に対して無反応。
なんかぼーっとしてるってか、心ここにあらず?
「おーい」
「……」
「……レナ?」
「……」
駄目だ。マジで反応が無い。
俺は冷蔵庫からキンキンに冷えた抹茶ココアの缶を取り出して、レナの背後から忍び寄った。そして……頬目がけて缶を押し付ける。典型的な悪戯。
「ひあっ!?」
体をビクンとさせて、レナは声をあげた。
「……よかった。意識があったか」
絵を描きながら気絶してんのかと思ったぞ。そんな特殊な気絶の仕方されたら、対処に困る。
「どうした? なんかぼーっとしてるけど」
「……あ、葉介」
レナは俺がいたことに今気が付いたらしい。その時点でおかしいけど、さらにぼーっとしていた顔を隠すように、作り笑いを浮かべた。
そうだ。すぐにわかるような作り笑いだ。レナがそんなことするなんて珍しい。いつもはもっと自然に緩い笑顔なのに。その笑顔がレナの魅力だ。だからこの笑顔は……違和感しかない。
「なんでもないですよ。絵を描いてたら眠くなっちゃって……ぼーっとしてました」
「……」
レナが絵を描いてるときに眠くなる? 確か一番集中できるのは絵を描いてるときだって言ってなかったか? 眠くなるわけがないと思うんだけど。
……気にしすぎか。もしかしたら俺みたいに寝不足なだけかもしれないし。
「じゃあこれでも飲んで眠気覚ましとけ。もうすぐ雫が来るから相手にする体力がなくなるぞ?」
「はい。ありがとうございます」
俺が手渡した抹茶ココアを手に取り、レナは笑った。
また作り笑いだ。すぐにわかる。
確実に今日のレナは様子がおかしい。俺はダイニングの床暖房で寛いでる黒猫の尻尾を踏んづけた。
「ぎゃわん!?」
「もう『わん』にはツッコまないぞ」
大体もう春なのに、床暖房の電源勝手に入れてんじゃねぇよ。
飛び起きたカールの前に座り込み、俺はリビングにいるレナをちらっと見てから問い詰めた。
「レナ、なにかあったのか?」
「は、はぁ? なんだよいきなり」
「明らかに様子がおかしい。俺の目は節穴じゃないぞ」
お目付け役のこいつならなにか知ってるだろう。俺はそう思ってさらに問い詰める。最悪吊るし上げぐらいはやってやる勢いで。
「仕事のことでなんかあったのか?」
「……レナには聞いたの?」
「なんでもないって言われた」
「じゃあ僕が勝手に話すわけにはいかないよ」
その言い方は、とりあえず、なにかはあったってことか。
……なにかって言っても、俺が思い当たるのは一つしかないな。
「……俺がモタモタしてるからか?」
レナがうちに来てからもう一週間経ってる。モタモタしてるからゼウスに怒られたとかそんな感じか? だったら申し訳なさ全開だ。
「……そうだね。そういうことにしておこうか」
「なんだよ。しておこうって」
違うってことじゃねぇか。
あとは……なんだろうな? 具合でも悪いのか? 顔色は普通に見えたけどな。それにそれなら、作り笑いを浮かべる意味もわからない。
「とにかく、君はさっさと願いごとを決めてよ。神子だって暇じゃないんだよ」
「次の願い人のところに行くのか?」
「…………そうだよ」
……? なんだよ今の間は?
話が一方通行だ。これ以上、こいつに聞いても無駄そうだな。吊るし上げしても意味なさそうだ。だったら本人に聞くしかない。
「お兄ちゃん」
ダイニングに入ってきた瑠璃も、レナを心配そうにちらちらと見てる。瑠璃も感じたんだろう。レナの様子がおかしいことを。
そうだ。誰が見てもわかるほど、レナはいつもと違う。これはただ事じゃない。
「レナさん、どうしたの?」
「……これから聞いてみる」
俺はもう一度レナに声をかけた。
「レナ」
「……」
またかい。
……これはちょっと悪戯しても気が付かないレベルじゃないか? ちょっと少年誌でぎりぎりいけるかいけないかぐらいの悪戯を――自主規制――やめとくか。瑠璃の目が痛い。
「ていっ」
「ひあっ!?」
テーブルに置かれたままになってた抹茶ココアをもう一度押し付ける。さっきと全く同じ反応。声が可愛いから二回無視したことは許そう。
「な、なんですか?」
さすがに俺のことを認識したレナは慌てて振り返る。ソファーから転げ落ちそうな勢いで。反応が不自然すぎる。
「……レナ。なにかあったなら話してくれ」
「な、なにもないですよ?」
「……レナは嘘をつくとき、手の平同士をくっつける」
「えぇっ!?」
「いや、嘘だけど」
今の反応は当たりだな。レナは確実に嘘をついてる。
嘘をつかれてるって時点で少しショックだけど、それ以上に、
「……俺はそんなに信用できないか?」
話してくれないってことは……そういうことかもしれない。
「え?」
「俺のこと信用できないから……話してくれないのか?」
「違います!」
レナが強く否定してきた。よかった。ここで黙られたらどうしようかと思った。
「私は……葉介のことを信頼してます。でも……それでも……」
レナはそれでも、話すことを迷っている。
無理に聞き出すのも嫌だけど、困ってたり悩んでたりするなら話してほしいんだ。作り笑いを浮かべてるレナは見たくないからな。
「レナさん」
瑠璃がレナの横に座って、手をぎゅっと握りしめた。
「とりあえず話してみて? 私とお兄ちゃんが力になれるかわからないけど、人に話すだけでも楽になるよ。私は……元気なレナさんがいいから」
「瑠璃……」
瑠璃も俺と同じ考えみたいだ。
これは俺の出る幕じゃないな。女の子同士。瑠璃に任せればいい。
レナは瑠璃から目を逸らして、少しの間、考え込んでいた。ここまで不安そうなレナの顔は初めて見る。一体、俺たちになにを話せないでいるんだ?
俺たちは待っていた。レナが口を開くのを。
やがて、レナはなぜか瑠璃じゃなくて俺に目を向ける。
「……?」
レナは俺をずっと見てるだけだ。なにも言わない。
……なんだ?
もしかしてレナが悩んでるのは……。
俺のことなのか?
「……でもやっぱり、話せません」
「レナさん……」
俺を見つめたまま、レナは自分の胸をぎゅっと握りしめた。
心を押し止めるように。
感情を押し殺すように。
「話してしまったら……」
今にも泣きそうな顔だ。
レナをこんな顔にしてるのは……。
「葉介が願いごとを考えることをやめてしまうかもしれないから……」
俺なのか――。
「見つけた」
「は?」
外からそんな声が聞こえた直後、リビングの窓ガラスが大きな音をたててぶち破られた。
ていうかまた!? 流行ってんの? 人んちの窓ガラス破壊するのが。
「……」
窓ガラスをぶち破って入ってきたのは、一人の女の子。
見た感じ小さい。小学生ぐらいか? 腰よりも長い赤髪に、同じ……いや、さらに濃い赤色で鋭さをもった瞳。幼い顔立ちとはあまりにも不釣り合いだ。ん? 背中にあるのは……もしかして『天使のような悪魔の翼』? それにあの服……レナの神子服を黒くした感じの……。
こいつ、まさか神子?
『天使のような悪魔の翼』を使ってるのを見る限り、そうとしか思えない。神力アイテムは神子のためにゼウスが作ったって言ってたからな。神力アイテムを使ってる時点で、それは核心できる。
「やはり悪魔モードは制御が難しいな……」
「いやいや!? そこじゃねぇだろ! お前が今ぶっ壊した物を見ろ!」
「ん? なんだお前は?」
なに? 神界では人んちの窓ガラスぶっ壊したあげくに「なんだお前?」って言うのが当たり前なの? 謝罪の言葉が先じゃないの? どうなってんだ神界の教育は。
「先輩……」
「……え?」
レナが女の子に向かって呟いた。
先輩? この子が? むしろ年齢的にレナが先輩に見えるけど。どう見ても歳下だろ。
「……513号。なんの用だい?」
いつの間にかカールがレナと女の子の間に立っていた。
その構えは少し……警戒している。毛が少し逆立ってるのがわかる。513号って、確か神子の識別番号だよな? レナは622号。確かに、番号的にはレナより前だけど。
「仕事中、神子同士の接触は禁止されてるはずだけど? なんでレナを探してるの?」
「……そんなことは知っている。今回はちゃんとゼウス様の許可をもらって来た」
「……ゼウス様が? よく許してくれたね」
「プリンを差し上げたら一発だったぞ」
大丈夫か? 神界。プリンに釣られる王様ってよ。
まてまて、なんで新しい神子が俺のところに来るんだ? いや、でも俺は眼中にないみたいだから、レナに用があるのか? それもわざわざゼウスとかいう偉い奴に許可をもらって。
「……622号。いや、レナ。お前が神子になったことはゼウス様から聞いた。そして……お前の潜在神力のこともな」
「……」
「……その様子では、もう知っているようだな」
なにを言ってるんだ、こいつは? 全く話が見えてこない。とりあえず、俺の存在感を出そうと、話に入る。
「なぁ、あんた……レナのなんなんだ?」
「……なんだお前は?」
「お前が土足で入り込んでる家の者だよ。それから、レナの願い人でもある」
それを聞いて、女の子――513号は明らかに俺を見る目が変わった。幼い顔に似合わず、冷たく、心の奥が見えないような目。いや……心の奥を隠しているような目。人間である俺を信用していない。そんな目。俺は背中に悪寒を感じた。
「ならばお前は知らなくていいことだ」
「いやいや、訳わかんねぇから。ちゃんと説明してくれないと納得――」
そこから一瞬、なにが起こったかわからなかった。ドタン! と音がして背中に衝撃があったかと思うと、一瞬で、俺の体は床に倒されていた。
「いでっ!?」
仰向けに倒れた俺にまたがり、513号は首筋にギラリと光る得物を突きつけてきた。
刀だ。
ぶわっと汗が噴き出る。体が自然と恐怖を感じ取っている。まさか……真剣?
「知らなくていいと言ってるだろう」
鋭い目で射抜かれ、俺は蛇に睨まれた蛙みたいに固まった。
なんだこいつ? 神子にしては、レナとあまりにも違う。
「――!?」
513号が俺の上から飛び退いた。その直後、俺の上を通り過ぎる鋭い蹴り。
「なにやってんのよあんた!?」
雫だ。勝手に家に入ってるし。ていうか蹴りの瞬間、パンツ見えた。
いや、それよりも雫が俺を庇って――。
「レナと瑠璃ちゃんをあんなに怯えさせてるのはあんたね!?」
ですよねー。俺なんかどうでもいいですよねー。ちくしょう。泣いてやる。
「……私はこいつのために言っているんだ」
513号が俺を指差した。
俺のために? なにを言ってるんだ。
「知らない方がいいこともある。知れば辛くなるのは……こいつだ」
「……」
こいつがなにを言ってるのかわからないし、話は全く見えてこない。知らない方がいいこともある。まぁそういうこともあるんだろうけど。
「知らないままだと俺はあとで後悔する。だったら知って……一緒に悩んで、考えてあげたい」
それでも俺は……。
「俺は知らないまま終わってるほうが百倍嫌だ」
知りたいんだ。レナがなんであんな顔をして、悩んでるのか。
「……」
513号は刀を鞘に納めた。これ以上、攻撃してくることはなさそうだ。だから雫、その今にも人を殺しそうな構えをやめてください。
「ならば知るんだな。知って……それこそ後悔するがいい」
513号はレナとカールを交互に見る。それに答えるように、先に口を開いたのはカールだった。
「……レナ。僕から話すよ」
「……はい」
レナからは話せないことなのか? そんなに大事なことなのか? 俺は少し身構えて、カールの言葉を待った。
「神子には潜在神力って言って、持てる神力の限界が決まってるんだ。個体によって強かったり弱かったり、その大きさで神子にはランクがある。AランクからFランク。ゼウス様からは、潜在神力以上の神力はもらえないんだ」
それは前にも聞いた。
神子はゼウスから神力をもらって、その神力で願い人の願いごとを叶える。
「……そしてレナは、最低ランク。Fランクの神子なんだ。Fランクの神子はね、一度願いごとを叶えると、神力が空っぽになるんだ。潜在神力が低いからね。これはどうしようもない。潜在神力は生まれつきだからね」
「……それがどうしたんだ?」
話を聞いてても、俺にはそんなに重要なことには思えなかった。
「無くなったらもう一回ゼウスに神力をもらえばいいだけだろ?」
「……そうだね。Eランク以上の神子はそうしてる。一回の仕事ごとに、ゼウス様が神力を与えるんだ。そしてBランク以上の神子には専用の神力アイテムを与えてる。神力が込められてるんじゃなくて、自分の神力を消費して使うアイテムをね。Bランク以上の神子じゃないと、神力に余裕がないから」
前にそれぞれの神子専用のアイテムがどうのって言ってたことがあるけど、それか。
でも、そのランクがどうしたっていうんだ? レナが最低ランクだからなんだっていうんだ。レナは一生懸命頑張って神子になったんだぞ。ちょっと抜けてる部分もあるけど。ランクが低くても、レナが神子だってことには変わりない。
「だから、そのランクがなんの関係があるんだよ?」
「……Fランクの神子は一度願いごとを叶えると神力が尽きる。それゆえに、使い捨て神子と呼ばれている」
黙っていた513号がいきなり話に入ってきた。しかも、気に食わない単語付きで。
「使い捨て神子? なんだその嫌な呼び方。ていうかだから……無くなったらまたゼウスにもらえばいいだけの話だろ?」
さっきから俺はそう言ってる。話が進まない。なんか遠まわしに話してるな。
まるで話の核心を話すのが嫌みたいに。
「……神子の体は元々神力で生み出されたものだ。ゼウス様に神力を与えられるまでは、最低限体を維持できる神力だけを持っている。Fランクの神子は持てる神力の限界値が低すぎて、願いを叶える際、その最低限、体を維持するための神力をも使い果たしてしまう」
「……」
それを聞いて、俺はやっと少しずつ、話が見えてきた。
レナがあんな顔をしている理由。カールと513号が俺たちに話すことに躊躇いを持ってる理由。
神子は神力から生まれた。最低限の神力で体は存在できている。ゼウスから神力をもらったとしても、Fランクの神子は持てる神力の限界値が低くて、体を存在させてる神力も使ってしまう。
それってつまり……。
使い捨て神子。その名の通り、
「……俺の願いを叶えたら、レナは消えちまうってことか?」
そういうことなのか?
カールと513号はなにも言わない。それは肯定を意味していた。
俺はレナに向き直る。レナは下を向いたままだ。目を合わせてくれない。
「……ちなみに、レナがそれを知ったのは最近だよ。だから別にずっと隠してたわけじゃない。本当は人間界に来る前に、ゼウス様から自分のランクを告げられるんだけど、レナが突っ走って行っちゃったし、ゼウス様も忘れてたんだ」
最近って……ちょっと前ってことか? じゃあ昨日までは無理してたってことなのか? 俺たちの前では……いつもと変わらないように振舞って……。
なんだよそれ。
なんだよ使い捨て神子って。
そんな酷な話あるか?
レナは俺に恩返ししたら、消えちまうなんて……。
「レ、レナ……本当なの?」
雫がレナに駆け寄ると、力なく頷いた。
「レナさんが消えちゃうなんて……嫌だよ……」
腕にしがみ付く瑠璃になにも言えず、レナはその手に手を置き返すだけだった。
なにも言えるわけがない。
なにを言っても、その現実は変わらないから。
「……葉介」
雫が俺に振り返った。言いたいことはわかる。
……俺だってそのつもりだ。
「だったら俺は願いごとなんていらない」
俺が願うことでレナが消えるなんて、耐えられない。そもそも願いごとは決めかねてるんだ。無理して願ったところで、レナが消えるなら、俺は願いたくない。
「そうよレナ! 神子なんてやめて、普通に生きれば――」
「やめられるはずがない」
513号が冷たく言い放った。
「神子は人間の願いを叶えるために生まれる。そして人間の願いを叶えることは、神子にとっては最高の栄誉であり、誇りでもある。もし、それを放棄すれば……出来損ないの神子として、更生するために拘束される。これは先代ゼウス様からの掟だ」
掟だと? 出来損ないの神子として更生するために拘束されるだって?
じゃあFランクの神子は……。
生まれた瞬間から、消えるために頑張るしかないってのか?
レナはそのために頑張ってたってのか?
……ふざけんな。
掟がなんだってんだよ。
「掟とかそんなの知るかよ!? なにが出来損ないの神子だ!? とにかく、レナは絶対に消させ――」
「葉介」
レナが笑っていた。
作り笑いじゃない。本当の笑顔。
どこか寂しそうに見える、でもいつもの笑顔だ。
……なんで、ここでそんな顔するんだよ。レナ。
「願いごとなんていらない。そんなこと言わないでください。神子にとって、願い人にそう言われることが……なにより辛いんです」
願いごとなんていらない。
神子にとっては、確かに願い人にそう言われたら、辛いだろう。
自分の存在を否定されているようなものだから。
「レナ……」
「それに、言ったじゃないですか? 私は……葉介に恩返ししたいんです」
出会ってから、ずっと俺に言っていることだ。
恩返し。
七年前に俺に世話になったから、恩返しがしたい。
でも……何回も言うけど。
「レナ……俺は覚えてないんだぞ?」
俺はレナのことを覚えてない。忘れちまってるんだ。
「そんな俺に恩返しなんてすることない。それよりも、自分のことを――」
「七年前、人間界への実習をしている頃……私は自信を失っていたんです。神子になることへの……」
思いがけないレナの言葉に、俺は驚いた。
「……自信?」
「はい。神子育成学校でなにをやっても駄目だった私は……神子に向いていないんじゃないかって。神子になる為に生まれたのに……私には、神子になる資格がないんじゃないかって」
「……」
513号が少し目を細めた。レナの先輩だって言ってたから、その頃のレナがどんな感じだったのかよく知っているんだろう。
今のレナからは、考えられない。昔、そんな悩みを持っていたなんて。神子になれたことを本当に嬉しそうに語ってたから。本当に、この仕事をしたかったんだって思ってたんだ。少なくとも、俺にはそう見えていた。
「自信を無くしてた私は……その心の矛先を人へと向けるようになりました。なんで人の願いを叶えなきゃいけないの? どうしてその為に私が苦労しなきゃいけないの? 人って……願いを叶えてあげるほど、素晴らしい生き物なの? とか……」
願いを叶えてあげるほど素晴らしい生き物。
それを聞いて、俺はなにも言えなかった。
そりゃそうだ。人間が素晴らしい生き物かって言われたら……胸を張って、そうだなんて言えない。
人間なんて所詮、欲の塊だから……。
「でも、葉介に会って……そんな心はどこかに行ってしまいました」
「え?」
俺と会って? なんで俺が出てくるんだ。
「初めて会った私に優しくしてくれて……名前をくれて……私はわかったんです。神子は、こういう優しい人の願いを叶える為に存在しているんだって。私は……この人の願いを叶えるために神子になるんだって。葉介は、私の恩人なんです」
「……」
レナが前に言っていた「人を笑顔にするために願いを叶える。今は本気でそう思える」それにはそんな意味があったのか。あのときの感慨深いレナの顔が浮かんでくる。
俺と会ったことが、レナの心の救いになった。
だからレナは俺の願いを叶えたい。恩返しがしたい。
その為に神子になった。
……くそ!
なんで俺はそんな大事なことを忘れてるんだよ。
その時のことを覚えてれば……。
今、もっとレナにかける言葉があったかもしれないのに。
「私は葉介に恩返しがしたいから、頑張って神子になったんです。だから……葉介」
レナはまた笑った。
この状況で……なんで笑えるんだ?
「私のために、願いごとを考えてください」
自分が消えちまうってときに――。
俺はレナを消すなんてことはできない。
それでも、レナは俺が願うことを望んでいる。
神子の仕事を全うし、俺に恩返しすることを。
俺は……。
「……わかった」
答えるしかないのか? その想いに。
「考えるよ。俺にとって、すごい……最高の願いごとを」
正直、ハードルを上げすぎたなんて思ってたけど。
すごい……最高の願いごと。
それがなんなのか、今はわからない。
でも、絶対に見つけたくなった。
レナのために。
「……はい!」
少しでも、レナが笑ってくれるなら。
今の俺には、それしか言えなかった。
「513号。それで? 君はなんでわざわざレナの所に来たのさ」
カールが513号に疑いの目を向ける。確かに、わざわざゼウスに直接許しを得て、他の神子の所に来るなんて考えにくいけど。レナの先輩なんだよな? 見た目はレナより歳下だけど、神子も容姿が様々らしいから別に不思議じゃないか。
「……心配するな。別にやましいことはない。私は今、仕事待ちなんだ。だから……出来の悪かった後輩の様子を見に来ただけだ」
513号は俺たちに背を向けて、『天使のような悪魔の翼』を起動させた。
「私もしばらくはこの町に滞在する。レナ。お前の……最初で最後の仕事を見届けるためにな」
一瞬、513号が優しい笑みを浮かべた気がした。気がする程度の笑みだけど、そのとき、俺は思った。
513号は純粋に、レナを心配して人間界に来たんだ、と。
それだけ言うと、513号は悪魔モードで空へと飛び立って行った。




