プロローグ
「面倒だな……」
大きな広間。本に囲まれ、中央に机があるだけの、正直寂しい空間で、頭に王冠を乗せ、見るからに王族のような格好をした男がため息をついた。
目の前には山ほどの書類。これを今日中に片付けなければならないと思うと、頭が痛くなってくる。
「ゼウス様」
広間の扉が開かれ、一匹の黒猫が入ってきた。ただし、白い翼が生えて空を飛んでいる、だが。およそただの黒猫には見えない。
「なんだよ?」
ゼウスと呼ばれた男は、不機嫌さ満々の顔で黒猫を睨みつけた。
「選抜試験を合格した神子見習いへの仕事任命をお願いしたいのですが」
「……カール。そのぐらいお前がやってくれ」
「いやいや、神子はゼウス様から神力をもらって人間界へ向かうんですよ? 僕にどうやってやれと言うんですか」
「気合で」
「……ふざけてないで、神子見習いを呼びますよ」
「お前は俺の仕事をさらに増やすつもりかぁ!?」
ゼウスの言葉を無視して、カールと呼ばれた黒猫は一度部屋を出て、すぐに戻ってきた。
「今回、選抜試験を合格したのは一人だけですね」
「一人か……まぁ一人ぐらいならいいか。よし、入れろ」
「はい」
一人ぐらいならすぐに終わる。そう思っていたゼウスの考えは、すぐに改められることになる。弾丸のように入ってきた少女によって。
「こんにちは! 神子見習いNo622! レナです! 好きな物は人間界の抹茶ココアです! 趣味は絵を描くことで……得意なことはかけっこです!」
入ってきたのは金髪ツインテールに青い瞳の少女。ビシッと右手で敬礼をして、高い声で自己紹介を始めた。
「……」
ゼウスはあんぐりと口を開けて、少女の顔を見た。別に自己紹介など求めていない。自分はこれでも高位な神族のはずだが、目の前の少女はそれを忘れさせるほど堂々としている。なにも考えていない、とも言えるが。
「あー……622号だっけか? えっと……」
気を取り直して、ゼウスは書類を手に取る。その中に書かれている文を上から下まで読み、少女のデータを確認する。
「人間界への実習は数回あり。成績は……」
書類に書かれていた、少女の成績を見て、ゼウスの目が見開かれる。
「カール」
カールを手招きし、ぼそぼそと小さな声で喋る。
「こいつ、成績が酷くないか? 本当に選抜試験に合格したのか?」
「ぎりぎりですが……確かに合格ラインに達しています。能ある鷹は爪を隠すってことじゃないですか? もしくは火事場の馬鹿力」
「……そうは見えん」
「まぁ試験中もあんな感じで落ち着きがなかったみたいですが」
選抜試験。
それは『神子見習い』と呼ばれる、神子候補たちが人間界へ行くための、そのまんまの意味。選り俊られた『神子』と認められるための試験だ。神子見習いが通う『神子育成学校』でいろいろ学び、六か月に一度の選抜試験に合格し、神子として認められた者だけが人間界へと行ける。
「……まぁいいか。行っちゃえばなんとかなるだろ」
「適当ですね。ゼウス様」
「心配するな。お目付け役としてカールをつけることにする」
「なるほど。それなら安全……って、えぇっ!?」
思わず翼が閉じて落ちそうになったカールは、フシャーっと毛を立たせて抗議した。
「なんで僕なんですかっ!?」
「馬鹿野郎。お前を信用してるってことだろうが」
「大体僕が行っちゃったら誰がゼウス様のお世話をするんですかっ!? わがままで自分勝手なゼウス様の世話を!?」
「……ほー。お前は俺のことをそんな風に思ってたのか? 仮にも神界で一番偉い俺に向かって」
「……一番偉いと思っているなら、もう少し言動に気を付けてください。それから朝は自分で起きてください。それから食事をするときナイフとフォークを逆に持たないで、こぼさないようにしっかりと――」
「心配するな! 新しい『使い神』を創る。しばらくはそいつに面倒な用を……じゃない。俺の補佐をさせる」
半ば強引に会話を切ったゼウスは、まだ抗議の目で見ているカールを無視して、レナに向き直った。
「622号。あーいや、レナだったか? 自分で名前を持ってるなんて珍しいな。お前の人間界行きを認める。すぐに人間界へ赴き、対象の願いごとを叶えるのだ」
ゼウスが掌から白い球体を生み出した。これはゼウスの神力が凝縮されたもので、神子見習いはゼウスから神力を与えられることで、神子としての力が宿る。
ゼウスの神力がレナの体へと降り注ぎ、小さく光を放つ。その光りが消えたとき、レナがぱぁ~っと笑顔になった。自分の中での変化がわかったのだろう。ここに、また神子が一人、誕生した。
「わぁ! ありがとうございます! 私、一生懸命頑張って来ますね! 抹茶ココアがまた飲めますぅ」
「……いや、抹茶ココアはいいけど、ちゃんと仕事してね?」
ゼウスの不安はいきなり大きくなった。まさか抹茶ココアを飲むために選抜試験を合格したのではあるまいな? といきなり不純な動機を疑った。
「じゃあ行って参ります! 神子見習い改め、神子レナ! 人間界でちゃんとお願いを叶えてきますよ!」
また敬礼の真似事をして、レナは入ってきたときと同じく、部屋から弾丸のように出て行った。嵐が去ったかのように、シンと静まり返る。
「……いや、まだ願いごとを叶える人間が誰かとか話してないんだけど」
「人の話を最後まで聞かないタイプですね」
ため息をついて、ゼウスは人差し指をくるりと回す。床に散らばった無数の紙の中から、一枚の紙がふわりと浮かんでゼウスの手の中へと飛んできた。
「じゃあ願いを叶える対象。『願い人』はこいつな」
「また適当ですね。ゼウス様」
「どうせランダムだろうが」
「まぁそうですけど……」
「えーっと……天坂葉介。こいつな。忘れるなよ? 住所とかはここに書いてあっから」
カールに紙を投げて渡し、ゼウスはもう一度レナのデータを見直した。
そして……気が付いた。
「おい、カール。こいつ……潜在神力がFランクじゃないか。『使い捨て神子』じゃねぇか」
「え?」
カールも横から覗き込む。
神子には潜在神力というものが存在し、体内に持てる神力が決まっているのだ。それによって、ゼウスから与えられる神力にも差が出る。
Fランクは最低ランクだ。あまりにも潜在神力が弱すぎて、ゼウスの神力をもらったとしても……。
「……あいつ、このこと知らないよな?」
「当たり前じゃないですか。見習い中は自分のランクを知る機会なんてありませんからね。ていうか、さっきここでゼウス様が神力を与えるときに言わなきゃいけないことなんですけど?」
ゼウスが目を逸らした。視線が宙を泳いでいる。
「……お前、タイミングを見計らって言え」
「なんで僕が!?」
「そのためのお目付け役だ。さーって! 俺はまだまだ仕事があるからなぁ! あー忙しい忙しい!」
「ぐ……もう! わかりましたよ! 帰ってきたら最高級猫缶もらいますからね!」
「気が向いたらな。あーそれから、神力アイテムはちゃんと持っていかせろよ? 人間界はなにがあるかわからんからなー」
「はいはい!」
カールは翼を勢いよく羽ばたかせ、レナと同じように弾丸のように部屋を出て行った。
誰もいなくなった部屋の中で、ゼウスは椅子に寄り掛かり、壁に飾られた一枚の肖像画に目を向けた。先代ゼウスの肖像画に。
「人間の願いを叶える存在、神子。か……先代ゼウスはなんでそんな存在を創ったんだか。おかげで俺の仕事と気苦労が増えた。あー一発殴りてぇ」
欠伸をして、とりあえず、うるさいお世話役である黒猫がいなくなって、ゼウスがやろうと思ったことは、
「おやつのプリンでも食べるか♪」
自分の空腹を満たすことだった。