日陰のキノ娘 その2
私の目の前には、私の姉である白蕊茸子にそっくりな、しかし生物学的に明らかに人間ではない震えるキノ娘がいた。
それでも彼女はやはり、私にとっての姉であるようだ。
――そう、キノ娘である私、シロシベ・キューベンシスの。
「………いい? キューちゃんね、私の名前は………シロシベ・アルゲンティ……。キューちゃんは、私の妹のキューベンシス……」
「そのキューちゃんってのは……まあいいか。とにかく、あんたが私の姉ってことで間違いないんだな?」
「……そう、私のことをキューちゃんはね、お姉さま、って呼んでくれていたよ……」
「てめぇ、嘘だろ、それ!」
「……あ、ばれた……。がっくし……」
どさくさに紛れてお姉さま呼びさせようとするアルゲンティ。この辺の『姉としての威厳を保ちたい一心で姑息な手段に頼る』という性格は人間だった頃の私の姉そっくりである。そして私にあっさり看破されて、さらに威厳を失うところまで一緒だ。
「それでキューちゃんは……その……。今まで『人間』の世界で暮らしていて……、ある日突然にこのキノ娘の世界に飛ばされてきた……って言うんだね?」
「そーそー。信じられないかも知れないけど、本当の話」
投げやりに説明する私に、アルゲンティは大きく肩を落として頭を抱えた。
「やっぱり……キューちゃん、壊れてる……」
「だから誰が壊れだよ!! 私は正常だっての!」
「……もう、何が異常で何が正常かもわからないんだね……。かわいそうなキューちゃん……」
アルゲンティは「およよ……」と、芝居がかった様子で涙も出てないのに目元を拭う仕草をしてみせる。
「でも、お姉ちゃんのことはわかるんだよね……? それで、家にも帰ってきてくれたんだよね……?」
「あ? 別に姉ちゃんのことなんか、ここに来るまですっかり忘れていたし。家の場所もたまたま知っている奴に聞いただけで……」
一片の情けもない私の言葉に、アルゲンティは悲壮な表情となってがっくりとうなだれた。何故か周囲がまた、暗くなった気がする。
そんなみすぼらしい姉の姿を見て、不意に私の脳裏に過去の情景が甦ってきた。
「――あ、これはまたフラッシュバック――?」
「……キューちゃん? キューちゃ…………キュー…………! …………!!」
アルゲンティの声がどこか遠くへと消えていき、代わりに私にとって見知った風景が眼前に広がっていく。
そこは、私が生まれてからずっと暮らしてきた、実家のアパートだった。
親父と一緒に行ったキノコ狩りから、たくさんのお土産を持って帰ってきたある日のことだ。
「姉ちゃーん! 今、帰ったぞー!」
まるでどこぞの関白亭主のような帰宅の宣言であったが、その声に答えるものはいなかった。
「あれ~。おっかしーなー! 姉ちゃーん!」
家の中に入って襖を一枚開けると、居間で寝こける姉(六歳)の姿があった。
幸せそうな寝顔をして、口の端から涎を垂らしている。
「なんだ、姉ちゃんいるし。キノコ狩り行ってきたぞー。いっぱいキノコ取れたぞー」
私が居間の卓袱台にキノコを広げて姉に見せようとするも、姉は熟睡していて起きる気配がない。
「おーい、起きろよぉー」
ゆさゆさと揺すってみるが全く起きない。相変わらずだらしなく口を開けて眠っている。
「…………」
私はおもむろに卓袱台に広げていたキノコの一つを手に取り、姉の口の中にねじ込んだ。
姉は反射的に口に入ったキノコを咀嚼し、眠りながらも器用にキノコを飲み込んだ。
「ちぇっ、つまんねー。遊びに行こうっと!」
私は姉をそのまま放置して外へ遊びに行った。
その後、買い物から帰った母が居間で泡を吹きながら痙攣している姉を発見した。
「きゃぁあー!! 茸子! 茸子! しっかりしなさい!!」
救急搬送された私の姉、白蕊茸子(6)は辛うじて命を取り留めたが、その日を境に明るかった彼女の性格は一変し、いつも何かに怯えるようになってしまった。
毒による後遺症、というわけではないのだろうが、少なくとも幼い少女の精神に悪影響を及ぼしたのは間違いなかった。
後の警察の捜査で、寝惚けた姉が口にしたキノコが日蔭痺茸という毒キノコであったことが判明。
事件性はないと判断されたが、キノコ狩りに行って毒キノコを持ち帰ってしまった私の親父は厳重に注意を受けたらしい。もちろん当時、四歳児であった私はお咎めなしだった。
白けていた視界が急速に色を取り戻し、私は再び不思議のキノコの世界に戻ってきた。
「はっ!! やべぇ、またトリップしちまってたぜ」
「あー、お帰りー、キューちゃん。今日のトリップは戻るの早かったね」
ぷるぷると細かく震えながら、暗い顔で私の帰還を待っていたアルゲンティ。
対応が自然すぎて、逆に不自然だわ。
「てか私、そんな頻繁にトリップしてんのか?」
「え? いつものことでしょ?」
私がトリップしているのはいつものことらしい。なんてことだ、こんな所まで現実世界と同じとは。ここは本当に異世界なのか?
「まあ、なんでもいいや。とにかく、あんたが私の姉だってことは認めてやるよ。どことなく他人って気もしないしな」
「キューちゃん、な、なんでそんな上から目線なの……?」
上からも何も、昔から私と姉の関係性はこんな感じだった。そして、それはこのキノコな世界に来ても同じようなものだろう。
「と、ところでキューちゃん。今回は出先でトリップしちゃったみたいだけど……お、お土産は買ってきてくれた?」
「はあ? 出先? お土産? なんのこと言ってんだ? 私はちょっと前に、この異世界に飛ばされてきたばかりだぞ?」
突然、意味不明なことをアルゲンティは言い出した。当然ながら、私には思い至ることがない。
「はぁ……だよね……。だと思った……。今回のキューちゃんはかなり激しくイッちゃったみたいだし、まともにお仕事はできてないだろうな、って思ってた……」
「待てよ、仕事ってなんだ? 私には何か仕事があったのか?」
全くの初耳である。元の世界でも真面目に働くことが嫌だった私が、こんなわけわからない世界でキノ娘になってまで一体何の仕事をすると言うのだろう。
「そ、それは……キューちゃん、自前のおクスリを作って、街に売りに行ってたんだけど……。それも忘れちゃったの?」
「あー……おクスリね、おクスリ。確かに作って売っていたわ……キノ娘になる前も」
ハーブとかキノコを煎じた特別製のおクスリってやつだ。あれはいい値でよく売れた。
もっともそれが原因で警察のご厄介にもなったのだが。
「はぁ……楽しみにしていたのに……お土産のビーフマヨバーガー……」
「そんなもん街に売っているのかよ。この世界、どうなってんだ? 街にはちゃんと人間の文明が存在してんのか」
アルゲンティは私の疑問には答えず、ただひたすら溜め息を吐いて暗い空気を量産している。
なんというか、本当に人間の姉にそっくりだ。こういう仕草を見ているといらいらしてくる。
「はぁあぁ……。お腹減ったなぁ……減ったなぁ……」
当てつけがましく腹減ったと連呼するアルゲンティに、私の堪忍袋の緒は切れた。
私は短気なんだ。切れやすい若者なんだ。
「だあぁぁあっ!! 鬱陶しいー!! 暗いんだよ、ネチネチねちねちと文句垂れやがってぇ!」
私は怒りに任せて、アルゲンティの大きく肌が露出した背中を手の平で叩いた。ばちーん、と景気のいい音がしてアルゲンティが椅子から床に転げ落ちる。
「ぎゃ、ヒィッ!! ……きゅ、キューちゃん……ひどい……」
「あんだよ、大げさだな」
「痣になった……家庭内暴力反対……」
「ああん? あれくらいで痣になるわけないだろ?」
そういってアルゲンティの背中を見ると、私の手の平の形をした青痣がくっきりと背中に浮き出ていた。
「げっ!? きも……姉ちゃん、どんだけ肌弱いんだよ……」
「うぅ……。謝ってすらくれない……」
涙を流して床に這いつくばるアルゲンティであったが、しばらくすると悲劇ぶるのも飽きたのか、何事もなかったかのように椅子に座りなおしてお茶を飲み始める。
しかし、背中には青痣がしっかりと残っており、ちょっとだけ私の罪悪感を刺激する。
「とりあえずお腹へったし……外にご飯食べに行こうか……」
「こんな山の中に飲食店なんてあんのかよ? てか、そう言えば私も気にしてなかったけど、腹が減ったような減ってないような」
「そう言えば、キューちゃん……最後に食事食べたのいつ?」
「は? こっち来てから食ってねえけど……。そういや、来る前も朝飯と昼飯まだだったし、かなり時間空けてるな。その割にはあんま腹減った感じしねえけど」
「……キューちゃん、それ極度に食欲減退してるだけだから……。ちゃんと食べないと死んじゃうよ」
「マジか!?」
てっきりキノ娘になったことで、食事をしなくても平気な体になったのかと思っていた。
ところがそうではなくて、今の状態は単に×××で興奮して食欲を感じなくなったのと同じ状態ってことだ。そいつはヤバイ。
「そ、そうか……でも、本当にどこへ食べに行くんだよ? 当てがあるのか?」
「それも忘れちゃったんだね……。じゃあ、ひょっとしてヤマドリ家も覚えていない?」
「ヤマドリ家? 知らねーな……」
「お料理が上手いキノ娘がいるんだよ。時々、遊びに行ってご飯もらってるの。キューちゃんは普段からあまり食事は取らなかったから、行く機会は少なかったけどね。外食で高栄養のもの摂取するだけで足りていたみたいだし……ぅぅ、羨ましい……三ツ星レストランの食事とか……」
「私はそんな贅沢してたっけか……? いや、時々してたな。臨時収入とかあったし……」
そう思うと急に腹が減ってきたような気もする。健康な証拠だ。
「よし、それならそのヤマドリ家とかに行こうぜ。なんか色々と異世界トリップの謎は残ってるけど、腹が減っていちゃ考えもまとまらねえ! で、そのヤマドリ家はどこにあるんだ?」
「山道をもう少し、登った場所だよ。今から行けば、夜には着くかな」
「遠すぎんだよ!!」
腹はそれほど減っているように感じなかったが、わけもわからないまま餓死してしまうのは御免である。
結局、なんだかんだで私はアルゲンティと共に、空腹を満たすためにヤマドリ家へと向かうことになった。