キノ娘
茂みの中、倒れ朽ち果てたブナの巨木に、その謎の生き物はへばりついていた。
べったりと撫で付けられた褐色の髪に、ぎらりとした輝きを見せる茶色の瞳。艶の良い肌と、ふっくらとした肉付きの体。
その生き物の体からは、半透明の粘液がてらてらと光を照り返しながら滴り落ち、迂闊にもそいつに触れてしまった私の手からは細く糸が引いている。
姿形の総合的な評価を下すならば、ぽっちゃりした可愛い女の子……ただし粘液まみれ、というマニアック受けしそうな外観だ。
私の常識に当てはめて冷静に判断するなら、これは化粧水を体に塗りたくって森林浴をしていた天然少女、と理解すればいいのだろうか。でも、どちらかと言えば未知の不思議生物ということで片付けたい気もする。
「お、お前、なに? なんなの? 何者なわけ?」
私が精一杯の気力を振り絞ってできたことは、酷く単純な疑問を口にすることだけだった。
目の前の粘液まみれな謎生物はやたらと可愛らしく小首を傾げ、私に向かって微笑んでみせる。男なら心奪われる笑みかもしれないが、彼女?の顎からは透明のねばねばした汁が滴っていて、私としては非常に気持ちが悪い。
「何者……って、私のことですかぁ? 私はぁ、滑木滑子。キノ娘の滑子ですよ~」
「はぁあっ!? キノコのナメコだぁ!?」
ふざけた自己紹介。だが、確かに彼女の特徴はキノコのナメコのようにヌメヌメとしている。
ヌメヌメ……ヌメヌメ……ヌメヌメ……ヌメ……。
――その時、突如として私の脳裏にナメコに関する昔の記憶がフラッシュバックした。
それは中学時代、私にとって家庭における唯一の義務であるかのように朝食を食わされていた、ある日の出来事である。
朝食のメニューは毎朝決まったように出てくる鮭の塩焼きと目玉焼き、そしてネギと豆腐の味噌汁……のはずだった。
寝惚けた頭のまま味噌汁を口に含んだ瞬間、舌の上をぬるりと滑っていく丸い物体。私は味噌汁を咳き込みながら吐き出し、味噌汁茶碗をひっくり返した。
「おい、糞ババア! 味噌汁ん中に、ナメコ入れやがったろ! 食えるか、こんな××××みたいなもん!!」
味噌汁にナメコが入っていた。それだけで、家庭内戦争勃発である。納豆やオクラが大嫌いだった当時の私にとっては、それほどまでに許しがたい存在だったのだ、ナメコとは。
日本人にとっては人気のヌメり食品だが、好きな人もいれば嫌いな人もいる。いかに調理しようとも、私にはヌメヌメした食感がどうしても受け入れられなかったのである。
……はっ、と意識を取り戻したとき、目の前にはナメコ女がヌメヌメしていた。
「ヌメヌメきしょいんだよっ! ナメコ汁にした後で、地面にぶちまけんぞ!」
「ええ!? お味噌汁にしたなら、食べてよ!? 地面に捨てるとかひどくない!?」
ナメコがなんだかんだと喚いているが、私はそれどころではなかった。
そもそもキノコが人型になって話しかけてくるとか、誰かに説明したら確実に正気を疑われるようなことが目の前で起きているのだ。
「ちっくしょう……わけわかんねぇ場所に来ちまって、初めて会えたのがこんな意味不明生物とかマジかよ……終わってる……」
悲観に暮れる私を、可愛そうな人を見る目でナメコがじっと見つめてくる。
「あ……あの~、いったい何を深刻に考えているかわからないんですけど……。あなただって、私と同じキノ娘じゃないですかぁ?」
「あ……? なん……だと……?」
「そのキノコ頭、掻き揚げると舞い上がる胞子、あなたも私と同じく紛れもないキノ娘ですよ~!」
「なんだとー!?」
混乱で頭を掻き毟ると、確かに空中へ舞う胞子。
衝撃的事実発覚。
私はキノコだった。
あまりにもひどい事実に私の意識は遠のき、再び過去の世界へと旅立った。
幼い頃の記憶がフラッシュバックしてくる。
それは放蕩者の親父とキノコ狩りに行った帰りのことだ。たくさんのキノコを摘み取ってご満悦の私は、親父の肩に担がれながら手にしたキノコを振り回して叫んでいた。
「おやじー! おやじー! わたし、決めたー! 大きくなったらわたし、キノコになる!」
「はっはっはぁっ! 絹子は本当に独特な感性をもっているなぁ。将来が楽しみだよ。それから、パパのことをおやじと呼ぶのはやめような? パパだぞ、パパ、ほら」
「おやじー! おやじー! このキノコ食べて!」
「おいおい、こら、無理やり口にキノコをねじ込むんじゃない。んむぐっ……うん? おお、これは美味なキノコだな! 初めて食べたかもしれない、何のキノコだ?」
「べにてんぐだけー」
「……な、なんのキノコだって?」
「べにてんぐだけー!」
「…………」
ベニテングダケ。美味だが有毒のキノコである。
何の処理もせずに食したなら、とりあえず一日は腹を押さえて吐き気と下痢に耐える覚悟を決めるしかない。
見た目からして派手な赤色をしていて、やばそうな雰囲気を醸し出しているのだから、普通は食べようなどと思うものではないのだが。
もっとも、地味でありながらベニテングダケよりも致命的な猛毒を持ったキノコは数多くある。その中では、まあ比較的ましな方かもしれない。あくまで致死率で比較したらの話だが。
ああ、そんな懐かしい、ろくでもない親父とのキノコ狩りの記憶。
その帰り路で私は宣言したのだ。将来はキノコになりたいと。
……はっ、と意識が戻ると、すぐ間近でナメコが私の顔を覗き込んでいた。
「あの~? 大丈夫ですか? ものすごく逝っちゃってる表情が怖いんですけどぉ……」
現実は残酷だ。
フラッシュバックから意識を取り戻しても、非常識なキノコの世界は消えていなかった。
深く溜め息を吐き、色の変わってしまった自身の髪を掻き上げる。風に乗って、ふわりと胞子が漂った。
……私は、本気でキノコになりたかったわけじゃない。
ただ、面白おかしい性質を持ったキノコが、幼心には魅力的に映っただけだ。結局、その後の人生もキノコとの縁は切れなかったが、どうやら私は自分自身がキノコとなって、一生縁切りできなくなってしまったようだ。
「ちっ……わけわかんねーよ……。けど、こんなとこでわけわかんないまま、わけわかんない奴に看取られて死ぬとか絶対御免だし……私の人生の目標は楽して気持ちよく八十歳で大往生なんだよ……こんなところで、くっそー……」
「あのー、もしもーし。わけわかんない奴とかひどくないですかー? 滑子ですよぉ、あなたと同じキノ娘ですよぉ~」
全くもって理解不能な世界に放り出された私。
だが、例えどんなに理不尽な現実が襲ってきても……私はこの先生きのこる。
この無慈悲な世界で、一人のキノ娘として。
※ひとまず完結。キノコトリップとこの先生きのこる、が書きたかっただけです。
一応、お話の続きの構想はあるので気が向いたら書くかもしれません。
以下は構想だけのあらすじ。このお話がこの先生きのこるかはわからない。
<今後のあらすじ>
主人公は自分がキノ娘になってしまった現実を受け入れられず自分探しの旅に出る。他のキノ娘と出会うことで自分がキノ娘である事実を突きつけられながらも、過去のキノコにまつわる記憶をフラッシュバックしながら自分自身を見失うまいと孤軍奮闘するのだった。
『主人公ステータス』
娘名:“シロシベ・キューベンシス”
分類:モエギタケ科 シビレタケ属
和名:シビレタケモドキ(痺茸擬)
食毒:神経毒(幻覚作用あり)
能力:幻覚胞子、痛覚無視、悪運
趣味:×××
性癖:××××