手毬屋敷
碧玉の海――竹林――に囲まれた道で、私は一人の男に出会った。電車やバスに乗り、適当な場所で降りてはその周辺を散策することを趣味としていた私は、初めて訪れた街の外れにあったこの美しい竹林のことをすっかり気に入っていた。
男は、私が今日歩いた場所についてメモ帳に書き記している最中私に声をかけてきた。
年は三十位。男の割に体の線が細く、髪が長い。今時珍しい着物姿で、その色は竹と同じ。肌の色は青白く、不健康そうで、背はやや丸まっている。異様な雰囲気を醸しだしており、私は一瞬竹の精が現れたのかなどと思った。
すみません、と私を呼び止める触れればたちまち溶けて消える氷の結晶の様な声。
「喉が渇いて仕方が無いのです。もし何か飲み物があれば少し分けて頂きたいのですが」
私はバッグにミネラルウォーターの入ったペットボトルが入っていることを思い出した。まだ充分すぎる程の量があったから、私はそれを男に差し出す。男はそれを受け取ったが、たった一口しか飲まなかった。そもそも本当に喉が渇いていたのかよく分からない。
「ありがとうございました、助かりました。それでは失礼」
男はそう言うと、私の前から姿を消した。
直後、竹林が俄かにざわつき、葉の波が激しくうねり、ばあんという岩に波が勢いよく当たったような音が聞こえる。強い風、息が出来ない、むせるような竹の香り、眩暈、ふらつき、目を瞑り。
風がおさまり、私はそうっと目を開け、そして声をあげた。
先程まで確かにあった竹林が消えていた。
日中であるにも関わらず、空は真っ赤に染まっていた。空に浮かぶ雲、遠くに広がる山々は漆黒。地上を覆い尽くす彼岸花、曼珠沙華、狐花、地獄花、幽霊花。一目見て分かった、ここは人の住む世界ではない。どういうわけか私は異界へ迷い込んでしまったらしい。普通なら頭の中が白くなるような事態であるにも関わらず、私は驚く程冷静であった。
驚きも恐怖も何も無い。どうしてだか、空っぽだった。
赤、黒、赤の世界の中ぽつんと建っている屋敷。木造のまるで死人の様な建物。私はその屋敷の前へ向かう。
屋敷の入り口前に立っている、木の棒。それに括りつけられているのは赤く細い糸。その先には一羽の烏。右足をその糸でとらわれている。
烏は最初大人しかったが、私のことに気がつくと大きな声でなき始めた。
鳴いているのか、それとも泣いているのか。どちらか分からない、分からないから余計気味が悪い。
ばたばた羽を動かしながらなき続ける烏。その声に混じって、何かかたかたという音が、屋敷の奥の方から聞こえた。
その直後、入り口の戸が小さく開いた。僅かに出来た隙間から、女の顔が覗く。この家に住んでいる者らしい。
「ここはどこですか」
私は女に尋ねた。怒っているような、悲しんでいるような彼女の顔が胸を深く抉る。
「ここはどこでも無い場所、どこにも無い場所です」
静かで冷たい声。その声がどこか震えているような気がしたのは、果たして気のせいだっただろうか。
「私はどうやらこちらへ迷い込んでしまったようです。どうすれば帰れるでしょう」
「帰る術などありません」
烏の声にかき消されてしまいそうな、返事。それと共に女は戸を大きく開けた。空から降り注ぐ赤い光に照らされ、赤や緑に輝く黒く豊かな髪を緩く縛っている、美しい女だった。大きく冷ややかな瞳、赤い唇。その美しい姿に負けず劣らず美しいのは、彼女が首から提げている手のひらサイズの小さな毬。青地に赤や紫の糸で花の模様が描かれている。八枚の花びらの大きさは綺麗に揃っていた。
このような世界にいる女なのだから、彼女もきっと人間では無いのだろう。
人であるわけがなかった。人には無い妖しさと艶やかさ、美しさをもっていたから。
どういうわけか私は、彼女とかつて会ったことがあると思った。
「どうぞ、お入りになって下さい。野宿するわけにもいかないでしょう」
「しかし」
「構いません」
女に促され、私は屋敷の中へ足を踏み入れた。
彼女は私を玄関から程近い部屋に招き入れてくれた。一日の殆どを彼女はその部屋で過ごしているらしい。ここ以外の部屋は殆ど使わないのだと私に話してくれた。
部屋の中には黒い箪笥と文机がぽつんと置いてある。開け放たれた障子、その奥には庭。しかし普通の庭では無い。一面を大小様々な赤い風車が埋め尽くしている。風車は風が吹いている、吹いていないに関わらずかたかた、からからという音をたてて絶えず回っている。庭の端の方には井戸がぽつんとあった。
畳の上に、毬――手毬が、ごろごろ転がっていた。桜や睡蓮、紫陽花等の花を思わせるもの、鶴等の鳥に見えるもの、川の流れや夜空等を模様化したもの――様々な模様の、そして様々な色の毬だった。全体的に暗く寂しい部屋を彩る赤、青、黄、白、若草色、茜色、紫色……。
天の川、銀杏、乱菊、三菱、竹の葉――整った形、模様、七色咲き乱れ、入り乱れ、鮮やか。
何と美しいのだろう。私は素直にそう思った。
女は私をこの部屋に通した後は、何も喋らず、部屋の隅で裁縫をしていた。
毬を作っている、というわけではないらしい。私は黙ってバッグから読みかけの本を取り出して、読んだ。
かたかた、からから。この世にある音は風車の回る音だけ。
赤い空も、私が本を読み終えた頃にはすっかり暗くなっていた。気がつくと女の姿が無い。ややあって、彼女はお膳を持ってやって来た。その上には山菜ごはんときのこの味噌汁、それから漬物が乗っている。女は私の前にそのお膳を差し出した。
「どうぞ、お食べになって下さい」
「ですが、そんな」
「お食べ下さい、毒なんて入っていませんから、安心して下さい」
そう言ってから女は自分の分を持ってくる為、再び部屋を離れた。私は最初どうしようか迷ったが、結局空腹には勝てずそれを食べてしまった。大変美味しかった。
女は自分用のお膳を持ってくると、私とはやや距離を置いた場所に座り、静かに食べ始める。硝子細工が食事をしている、そう思った。女は食事中も首から提げている毬を外さない。
無言。かたかた、からから。延々と続く静寂と風車の音が私を焦らせ、口を開かせる。
「ここにある毬は全て貴方が作ったのですか」
「ええそうです。全て私が作りました」
「綺麗ですね」
「綺麗ですか」
「ええ、とても綺麗です」
「そうですか、綺麗ですか」
女の顔は常に、憂いという感情を少しだけ含んだ仮面を被っているように見える。
「貴方は人では無いのですか」
思い切って聞いてみる。女はわずかに口の端をあげ、私の顔をじっと見る。私もじっと彼女の顔を見返す。
「人に見えますか」
「見えません」
「そうでしょうとも」
「……貴方は人を食べますか」
「食べやしませんよ」
今度は声をたて、笑った。この屋敷の前にいた、あの烏のなき声に似た笑い声。笑っているのか、泣いているのか。
「貴方はここに一人で暮らしているのですか」
「一人です。この世界には私しかいません。ここを訪れる人は……おりません」
いない、と言うまでに妙な間があった。
「寂しくありませんか」
「寂しいですよ。ですが仕方の無いことなのです」
それから女は黙り、またあの音だけが世界を支配する。
夕飯を食べ、それから何時間経ったか。読み終えた本をもう一度読み返している最中、女が私を別の部屋へ案内した。そこに布団を敷いたから、寝るといいと彼女は言う。
一人暮らしのはずなのに、どうして余分の布団があるのか。何故余分の膳や食器があったのか。不思議に思ったが、そんなことはどうでも良いと思った。
私は遠慮せず、何も無い部屋で一人眠りについた。
気がつくと、私は女の部屋に立っていた。女の姿は無い。
私は今寝ているはずだ。それならばこれは夢なのだろう。ごろごろと転がっている毬を私は眺める。どれも見惚れる程美しい。
「綺麗だと思いますか、その毬達を」
聞き覚えのある声。振り向くと、そこには竹林を歩いていた時に出会ったあの男が立っていた。月光に照らされた肌は、昼間見た時より不気味で、また美しかった。夜という時間が、彼の異質な雰囲気をより引き立てている。どうして彼がこんな所に、ああそうかこれは夢だ、夢だから少しもおかしくない。
そんなことを思っていたら。
「私は、貴方を助ける為にこうして貴方の夢の中に現れました」
突然彼がそんな言葉を口にした。少し驚き、え、と小さな声をあげ。
「……ご存知のことと思いますが、ここは貴方の住んでいる世界とは全く別の世界です。狭い、あまりに狭いこの世界――暮らしているのはこの家の主だけ。さて、話を進めましょう。単刀直入に申し上げます……貴方、このままですと彼女に殺されます」
私の胸を冷たく突き刺す言葉の刃。しかしそれを聞いても私はそれ程驚きはしなかった。男もその反応に驚いた様子は無く、淡々と話を進める。
「彼女は時々、この世界に人を呼び込みます。そして。……貴方にこの部屋の、真の姿をお見せしましょう。それを見せた上でお話します。少し刺激の強いものではありますが……我慢して下さい」
男がそう言い終えると、一瞬、世界が闇に包まれ、一切が私の目に映らなくなった。ややあって、再び戻った光、現れた世界。
それを見て、私はあっと声をあげた。
畳や壁、天井がこの世界へ来た時にみた夕焼け空と同じ色をしている。そして、赤く染まった畳の上に転がっていたのは。
毬ではなく、首であった。人の、首であった。
どちらかというと、中高生前後位の年の子供のものが多い。それより若いものもある。明らかに大人の首もあったが、一番年がいっていて、私と同じ三十前後のようだった。彼等は皆目を瞑っている。色はどれも青白い。性別にはばらつきがある。
どの首にも、それぞれの毬の模様と同じ光の線が見える。
ごろりと転がっている首、首、首。一つ残らず、首であった。
しかしどういう訳か私はそれ程驚き、動揺してはいなかった。目の前の光景よりいやに冷静な自分の方がかえって恐ろしいと思う。
何故、私は、こんなに……冷静でいられるのだろう。
かたかた、からから、からからから。俄かに早くなる風車の回転。
「彼女はここに招きいれた人間を殺します。そして、魂を体内から抜き取った上で、首を切るのです。彼女は魂を糸にして、首にその糸を縫いつけ、毬を作ります。糸は様々な色に変わります――しかし無限に変わるわけではなく、一定の変化しかしません。幾つの色、どんな色になるかはその魂次第。そして出来る毬の模様も」
男は屈み、近くにあった首に触れる。それは小さな少女のもの。
私は女がこの部屋に座り、とった首に糸を縫いつけ、模様を描く様を思い描いた。その姿はただ美しく。不思議と怖い、気持ち悪いという気持ちにならなかった。
「魂をまわりに縫いつけられた首は腐ることなく、永遠にこの状態を保ちます。そして永遠に彼女と過ごすのです。……貴方もこのままですと、この首達の仲間入りをすることになります。出来れば貴方にはそうなって貰いたくありません。ですから私は貴方を助けます。水を下さったお礼です。あの出会いによって私と貴方の間に縁が結ばれ、そのお陰で私はこうして貴方の夢の中に入ることが出来た」
そう言った男は私に黒曜石の様なもので作られた刃を差し出す。
「彼女が首から提げている毬、あれが彼女の魂です。あれにこの刃を突き刺せば、彼女は死にます。貴方は殺されることなく、この世界から逃げることが出来ます」
その刃はとても冷たく、私はすぐ手放したくなった。これであの世にも美しい毬を、そして彼女を殺さなければならないと思ったらぞっとした。
「この刃は、貴方が彼女を殺したいという意思を完全に失った時、消えてしまいます。躊躇ってはいけません。躊躇え(ためら)ば、貴方は殺され、毬にされる。そして残りの体はあちらに埋められるでしょう」
男が指差したのは、あの庭。どうやらあれは女に殺された者達の墓であったらしい。
「……それでは、失礼します。貴方の無事を祈っています」
男はその言葉を最後に、私の目の前から消えた。再び暗転。
そして私は目を覚ました。少しも赤くない、黒い天井を私の目がとらえる。
ふう、と一呼吸。
夢であって夢ではない夢。起き上がった私の右手には、男から貰った黒い刃。それを見た時、あの夢で見たものは全て真実であったことを悟る。私はぎらり輝くそれを手に、女の寝ているあの部屋へと向かう。
部屋の戸に鍵はかかっておらず、簡単に開けることが出来た。真実を知ってなお、畳にごろごろと転がっている毬は美しく見える。そしてその毬に囲まれるようにして眠っている女も。布団の端からのぞく、多くの者の血で濡れたとは到底思えない、白く美しい手。
体にかかっている布団を静かにずらすと、彼女の魂である毬が姿を現す。
私は彼女に覆い被さるようにし、それからあの刃を静かに振り上げた。
しかし私は腕を振り下ろすことが出来なかった。このままでは殺され、魂を抜かれ、首を切られ、針を突き刺され、鞠にされてしまう……そんな恐ろしい未来を頭でどれだけ思い描いても、体は動かない。それどころか、そんな運命を受け入れても良いという気にさえなった。
迷っている内に女が目を開く。彼女は私に馬乗りになられていることに気がついても、少しも動じなかった。ただ静かに私のことを見つめていた。こういう事態には慣れているらしい。
「殺さないの」
淡々とした声。抵抗することも、逃げることもなくただ彼女は私と、私が握っているものを見つめている。彼女は私に殺されることを望んでいるのかもしれなかった。
「殺さなければ、殺される」
「この刃を振り下ろさなかったら……貴方は私を殺しますか」
「殺します。そして貴方の首と魂をとって、毬を作ります」
かたかた、からから、風車。このままでは私も後少しであそこへ仲間入り。
しかしそれでも腕は動かない。生に執着していないということは無い。私は生きたい、生きて色々なことをしたい。私は今の暮らしに満足している。そこから逃げ出したいとは思っていない。思っていないはずなのに。
かたかた、からから、がらんどう。何もかも、空っぽだ。
刃を握っていた手から力が抜ける。くるくると回り、落ちていったそれは彼女の胸にある毬につくかつかないかといったところで、消えた。もうこれで彼女を殺す術は無い。しかしそのことを悔しいとは思わなかった。
私は静かに立ち上がった。自由になった女も立ち上がった。
「あの人はまだ私を許す気にならないようです」
「まだ許しませんか」
意味は分からなかったが、何故か自然とそんな言葉が出た。女は頷くと、静かに私の首へと手を伸ばした。白く、白く、真っ赤な手はとても冷たい。
強い力で私の首は絞められていく。苦しい、痛い――だが抵抗はしない。闇に溶ける髪、銀の光を受けて輝く百合の肌、ああ美しい、とても、美しい。痺れる頭。ぼやける視界。
全てが無になる間際、私はふとそういえば前にもこんなことがあったなと思った。
一度ばかりではない。何度も、何度も。
ああ、だから私はこんなに落ち着いているのだろうか。もう慣れているから……諦めて、いるから。
彼女が許されない限り、私は。
それからのことは何も知らない……何も。
からから、から、からからから。……ごとり。
*
女は薄暗い部屋で一人座っていた。開け放たれた障子、庭の方から降り注ぐ銀色の光。休むことなく回り続ける庭の風車――今夜、新たに一本、増えた。
かたかた、からから。銀混じりの赤。真っ直ぐと、俯き気味の女を見つめている。彼女のことを哀れみながら、じいっと、かたかた、からから。
ごろりと畳みの上に転がっている無数の毬。椿花、鶴、紫陽花、紅梅、麻の葉……。
その内の一つ――波紋広がる水面、そこに浮かぶ蓮の花を思わせる毬を、女は静かに撫でる。先程作り終えたばかりの物だ。しかし彼女は新たな毬の完成を喜んではいないようだった。月の光に白く照らされた女の顔。きゅうと噛み締めた唇、悲しげに下がる眉、憂いの月を浮かべた瞳。
女の傍らにあるのは、毬を作るのに使った糸の余り。丸い固まりの中、浮かんでは消える男の顔。
その糸の存在に気がついた女はごくりと喉を鳴らし、俄かに震える手を伸ばす。
がらり。からり風車の回る音に合わせるようにして、部屋の入り口の戸が開く。女ははっとし、それからゆっくりと体をそちらへと向けた。
誰も来ないはずの世界。自分以外の誰も存在しない世界。そこにやって来たのは、一人の男。竹の色をした着物姿、細い体に青白い肌、やや長い髪。
男は女の抱いている毬に目をやり、次に女が首から提げている毬を見、静かにため息をついた。
「……また、駄目でした」
「そうでしょうね。貴方の姿と、貴方が今抱いている毬を見れば分かります」
女はうなだれ、それから静かに口を開く。その唇は今はとても重そうで。
「いつになったら、終わるのですか」
重い唇から紡がれるのは重みをもった声。
「私が――私がすっかり貴方のことを許すその日まで」
女の問いに答える男の声もまた小さい。長い時間と、重い思いを背負い続けて丸まった背に月光は当たらない。女の瞳と同じものを浮かべたそれと、青白い肌だけがそれを受けていた。
「貴方はいつになったら私のことを許してくださるのです」
「分かりません。私にも、それは分かりません」
「繰り返すのですか。貴方が私を許すその日まで、私はこうして人を殺め続け、毬を作り続けなくてはいけないのですか。そしてここで一人、死ぬことなく生き続けなくてはいけないのですか」
「そうですとも。……それが、私の大切な者を殺し、その首で毬を作った貴方への罰なのです」
「その罰を与え続ける為に、貴方は。私が殺した、貴方が大切にしていた人の生まれ変わりをこの世界に引き連れては、私に殺させ続けるのですか……魂の欠片――余った糸を回収しては、天へと上げて、新たな生を授け、そして」
思わず膝を立て、立ち上がろうとした女。上に乗せていた毬がごろごろ転がり、男の足に触れる。顔を上げ、男の目を真っ直ぐ見つめる。そしてそこに広がっている果てしない悲しみ、女への憎しみ、そしてそれとは全く正反対の思いに触れ、心震わせ、そのまま顔を再び畳へ戻した。
男が再び口を開く。
「ええ、そうです。私は繰り返します、何度でも……これは貴方への罰であり、私への罰でもあるのです。大切な人を奪った憎い貴方を、愛してしまった愚かな私への。貴方を許し、私自身を許す日まで……続けます。何度でも」
無言。かたかた、からから。軽やかな音たてる風車のある外、一方重い想いと、時間が立ち込めている屋敷の中。
「私が貴方を、そして私自身を完全に許した時――貴方はようやく死を与えられ、私は大切な者の魂を不幸な死へと導かなくて済むようになります」
女が畳を見つめながら、震えている。男は畳が透明な雫でしゅん、しゅんと濡れるさまを見たが、気がつかない振りをし、そのまま彼女の傍らにあった糸の余りを手に取ると、何も言わず屋敷を後にした。
月輝く夜空の下、男は立ち止まり、手中に収めた魂の欠片を眺め。
「水をありがとうございました。またいずれ、お会いしましょう」
魂を持つ手が暖かく透明な雫で濡れるのを男は感じたが、矢張り男はそのことに気がつかない振りをし、再び歩みを進め、そして日中と変わらず真っ黒な木々で出来た林の中へと消えていくのだった。