その37 『しあわせ荘の夏休み~プロローグ~』
三部のはじまりはじまり
「明日から夏休み! 夏休みと言えば……」
真と瓜子、忠の前で、萌がスケジュール表を掲げて、声をあげた。
「補習だね!」
「いや、お前だけだから」
今日は越戸高校終業式である。
「……くそう! 私にだけ補習だなんて、先生は一体私に何の恨みが!」
「期末赤点だらけだったからだろ」
問題児ばかりの1年4組だったが、成績はそこそこ優秀のようで、赤点を取ったのは萌だけだったようである。ちなみに、萌は全教科全滅である。
彼女のように成績の悪い一部生徒は夏休みにある期間呼び出されて、補習を受けるのが越戸高校のルールなのだ。
「嫌だあああ! 夏休みまで勉強なんて嫌だあああ!」
「普段もしてないだろ。一週間くらい我慢しろ」
「チュウ冷たい! くっそ! 夏休みはやりたいことがたくさんあるのに! こうなったら、バックれて……!」
ぽんと萌の肩が叩かれる。くるりと萌が振り返ると、すらりと背の高い眼鏡の美人が立っていた。
すちゃりと眼鏡を持ち上げて、切れ長の目を光らせる。
「清湖さん。当然逃がしませんよ」
「い、委員長!?」
1年4組学級委員長、熊取谷紗英。
成績は学年上位、運動部にも引っ張りだこ、スタイルもよければ顔立ちもよし、人の嫌がる仕事でも進んで熟し、纏め上手の絵に描いた様な委員長タイプのクールビューティーである。問題児だらけの4組が比較的落ち着いたまま一学期を越せたのも彼女の力が大きい。
担任の柏屋先生にも信頼されているくらいに真面目で優秀な彼女が萌の肩を叩く意味とは?
「夏期補習、私も参加します」
「え、委員長も赤点?」
「いいえ。先生の助手としての参加です」
忠がああ、と手を叩く。
「きよしの見張りか」
「……そうとも言いますね。清湖さんならどうせ逃走を図るだろう……ごほん、失礼。補習を受けるのが一人では、清湖さんも学習が捗らないだろう、という先生のお気遣いです。学校への送り迎えから、補修中のサポートまで、徹底的にお手伝いさせて頂きます」
「い、委員長がつきっきり……」
ふらっとよろめく萌。ありとあらゆる女子男子にときめく彼女だが、委員長だけは苦手らしい。
でも、と真が尋ねる。
「委員長は夏休みにこんなのに付き合ってて大丈夫なの?」
「お気遣いありがとうごいます遠野君。大丈夫です。私から志願しましたので」
「こんなのって……さりげなく酷いのではまこまこ……? でも、委員長、そこまで私の事を……!」
ええ、と委員長は頷いた。
「私はこのクラスの支配者……ごほん、失敬。委員長ですので。配下、ではなくクラスメートを人格矯正……ではなく正しき方向に導くのは当然の事です」
若干、変なキャラが混じっているが、真面目で責任感の強い人である。
ぐっと萌の腕を掴み、椅子から引き上げると、委員長が教室の外へと向かって歩き出した。
「さぁ、早速今日から開始ですよ。教材を受け取りに行きましょう」
「ああ……! うりりん! まこりん! チュウ! 生きて帰れたら……夏休み中に絶対遊ぼうね!」
死亡フラグっぽいものを立てて、萌は去って行った。
「よし。一週間は平和に過ごせそうだな」
「うん」
やっぱり疫病神扱いの萌なのである。
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――夏休み中に絶対遊ぼうね!
そんな萌の言葉を思い出し、瓜子は頬を緩ませる。
制服から着替え、楽な格好になった瓜子は冷やしていた麦茶をコップに汲み、息をついた。
その時である。机に置いた携帯電話に着信があった。
普段は掛かって来ないのに。
携帯を手に取ると、電話番号はよく見慣れたものだった。
「……もしもし」
聞き慣れた声。
「……うん。今日終業式。うん……うん」
少し不満げにむっとする瓜子。
「大丈夫。何も問題なんてないから」
次に少し困った様な表情を見せると、ばつが悪そうにぼそぼそと喋る。
「え……いや、戻らないよ。いや、だから……ちょっとは帰るけど、夏休み中ずっとはそっちにはいないよ」
そして再びむすっとした。
「と、友達と夏休みに遊ぶ約束してるから! じゃあ、切るよ! 戻る予定が決まったらまた連絡する! じゃあ!」
一方的に電話を切る。そしてふん、と鼻を鳴らす。
「……もう!」
彼女にもまた、夏の事情がある。
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「……全く、本当に大丈夫なのかね」
「おばちゃん。瓜ちゃん、元気そうだった?」
ふぅ、と深く溜め息をついて、女は居間に座る少女の方を見た。
「いやね、友達と約束があるから、夏休みはあっちで過ごすって。天邪鬼でも、嘘吐きの見栄っ張りじゃないとは思ってたのに」
「いや、おばちゃん。娘に対してそれは酷いんじゃ……」
少女が苦笑する。
「でも良かった。向こうでも上手くやってるみたいで。でもでも……戻らないんだ……ちょっと寂しいなぁ」
「まぁ、戻りはするみたいだけどねぇ。また連絡するって」
少し寂しそうに、何かを考え込んだ後、少女は何かを閃いたように手を打った。
何かを企む悪戯ものの顔。
果たして少女は何を企むのか?
~~~~
しあわせ荘にやってくる。
夏と一緒にやってくる。
ピンポーン。
205号室のインターホンが鳴らされる。
真ははいはいと受話器を取った。
――真。私だ。
少し低めの男の声。
聞き覚えのあるような、しかしいつもと雰囲気が違うような、今ひとつ掴み所のない声に真はん?と眉をひそめた。
「え。どちら様ですか」
――私だ。シャルル・シュバリエだ。入れてくれ。
シャルル・シュバリエ。
201号室に住む、日本好きの留学生。エセ外国人口調の吸血鬼である。
絶対に、今喋っているのは違う人だと思う。
「……すみません。キャラ違いではないでしょうか」
――何だそれは。頼みがあるのだ。貴殿にしか頼めぬ頼みが。
シャルルと大分キャラが違う気がしたが、かなり深刻そうな口調に真は少し考える。
「ちょっと待ってて下さい」
一旦受話器を置き、ドアの方に駆けていく。
表には法被姿のシャルルがいた。
やはりシャルルだというのは本当らしい。
という事は……
「やっぱり日本語ペラペラだったのか……」
『いや、それもそうだけど。大分深刻な表情だぞ』
ヒカルが言う通り、シャルルはかなり険しい表情である。
真も彼が嫌いな訳ではない。
困っていて、助けになれるのなら、力を貸すつもりである。
真は部屋の扉を開けた。
「どうしたんだシャルル。柄にも無い顔とキャラして」
「済まない。此処では話しづらい事なんだ」
「ああ、上がっていいよ」
シャルルが下駄を鳴らしながら、真の部屋に入ってくる。
いつも温厚そうにふわっふわしている目は、今日は鋭く尖っている。
今日のシャルルは特別吸血鬼っぽかった。
「お茶でいいかな」
「ああ。お気遣い感謝する」
お茶を運び、卓袱台を挟んで向かい合う。
シャルルは出したお茶に一口、口を付けると、しばらく黙った。
そして、心の準備を整えたのか、やがてゆっくりと口を開く。
「私の『本性』を知った貴殿にしか頼めぬ事がある」
「本性? え、それ、本性なの?」
『マジか。やっぱエセ外国人の方はキャラだったのか』
何か聞いてはいけない事を聞いた気分である。
しかし、シャルルは構わず続ける。
切ない表情で、シャルルは目を伏せる。
「悩んでいるのだ。ずっと。食事も喉を通らぬほどに。エセ外国人の道化を演じる余裕もない程に」
「自分でエセ外国人の道化とか言うのか……まぁ、いいや。最近食べてないのか? そう言えば何か頬がこけてるような」
若干心配になる真。
シャルルは以前から痩せ形だったが、前より不健康に痩せている気がする。
彼の悩みはどうやら深刻であり、本物であるらしい。
「何か作ろうか? いや、それより悩みを聞くのが先か。できる事なら強力するから」
「済まない。いきなり真剣に話せる相手が真だけなのだ。……実は」
シャルルはぐっと息を呑む。真も合わせて息を呑んだ。
再び言葉を押し殺し、間を置いたシャルルはやがてゆっくりとその名を告げた。
「マダム雪江」
「まだむゆきえ? ……雪江さん?」
白川雪江さん。
しあわせ荘の102号室に住む、雪女の女性。
働く女性で、隣の103号室に住む鬼火のリンさんとは犬猿の仲。
恋愛関係でやたらと悩んでいたりする、その手の話題を出さなければクールでできる大人である。
どうして彼女の名前がシャルルの口から出てくるのか?
シャルルは色白な頬をほんのり赤らめ、口の前で組んだ手をもじもじとさせた。
「……陶器を思わせる白くきめ細やかな肌。黒真珠の如きつぶらな瞳。絹のように艶やかな黒髪。まるで完成されたビスクドールのような容姿を持ちながら、他者を迷わず助けに入る心優しさを持ち合わせていて、人から頼りにされる、自立した強さも持ち合わせている。その暖かい心とは対照的な、ひんやりとした手は、冷たさよりもむしろ心地よさを感じさせて……」
「待て待て待て」
急にもの凄く流暢にしゃべり出したシャルルに真も流石に困惑を隠せない。
今ひとつ言いたい事は理解できなかったが、シャルルが雪江さんをベタ褒めしているのは確かである。
しかし、急に名前を出したかと思えば、突然誉めちぎりだす。唐突な展開に流石にストップをかける。
「急に何だ。雪江さんが何だって? いや、確かに綺麗な人だとは思うけど」
『いやいや真……そこは察してやれよ……』
「あ、ああ、済まない。彼女の美しさを改めて語る必要もなかったな」
シャルルが若干取り乱したように咳払いした。
「……実は、私は……」
目を逸らし、もじもじしながら、恥ずかしそうにシャルルが言った。
「彼女に……恋してしまったらしい」
「……鯉?」
『またベタなボケを』
しあわせ荘にやってきた。
夏と一緒にやってきた。
……恋の予感がやってきた?
いきなり始まる恋の予感。
いよいよ恋愛要素が登場?