その36 『そしてあつい夏が来る』
首に掛けたタオルで額をぐいと拭い、きっこさんは真っ青な空を見上げる。
眩しそうに目を細め、しみじみと呟いた。
「夏ですね~」
「夏ですね!」
元気よく答えるレイも目元に手をかざしつつ、空を見上げた。
夏真っ盛り。
薄手のワンピースで涼しい格好のきっこさんは、朝から花壇に水を撒く。
春が過ぎて、ほんの少ししあわせ荘の景色も変わる。
がちゃりと扉が開く音。それをぴくりと聞きつけて、きっこさんとレイはとてとてふわふわと駆けだした。
「ゆきちゃんおはよー!」
「雪江さんおはようございます!」
春先はジャケットにタイツと肌を隠していた雪江さんも、涼しげなクールビズ。暑くて寝苦しいせいで、特に人一倍暑さに弱いせいで、なかなか寝付けず夏は自分で起きられる雪江さん。
ぴょんと二人に飛びつかれ、苦笑しながら雪江さんは挨拶する。
「おはようございますきっこさん。おはようレイ。はい、離れて離れて」
「ゆきちゃん冷たくて気持ちいい……」
「暑い夏には一家に一台雪江さんですよ……」
「台言うな」
雪女の雪江さんは夏場もひんやりと冷たい。暑い朝、触れるとひんやり気持ちいい雪江さんにハグするのが、きっこさんとレイの、夏場の朝の日課である。
二人のハグを切り抜けて、出かけようとする雪江さんに、上から見送りの声が掛かる。
「イッテラッシャーイ!」
法被姿のシャルルが二階から手を振っている。最近朝が早いシャルルも雪江さんのお見送りに出てくる。
軽くひらひらと手を振って、雪江さんもお見送りに答える。
雪江さんの姿が見えなくなるまで三人で手を振り見送った後、きっこさんとレイがくるりと上を見上げて、手を振る。
「シャルルくんおはよー!」
「シャルルルおはよー!」
「きっこさん、レイさん、オハヨウゴザイマース!」
ぶんぶんと大きく手を振り、挨拶した後、チリチリと頭から煙を上げながら、シャルルが「あっつ!」と急いで自室に飛び込んでいく。
「シャルルくん暑がりですねー」
「シャルルルも雪江さんに抱きつけばいいのにー」
未だ残るひんやりとした感触を名残惜しそうに噛み締めながら、きっこさんとレイは放り出したホースの元に戻り、再び水まきに勤しむ。
やっぱり暑いので、ホースの向き先がレイになったり、きっこさんになったりと、半分水遊びをし始める二人の元に、声が掛かったのはもう少し後の事。
「きっこさん、レイさんおはようございます。今日も暑そうですね」
長袖の無地シャツにロングスカートの女性が104号室から顔を出す。
全体的に地味目な色合いの服を着て、髪も短め、清潔感のある装いである。
「音無さん、おはようございます!」
「夜子さんおはようございます!」
見た目普通のお姉さん、最早アイデンティティの欠片もない女こそ、現在休業中の越戸高校七不思議の一人、夜子婦人なのである。
しばらく戻っていなかったしあわせ荘に一旦戻り、今では普通に生活している。
夜の不健全な本業もなくなり、十分に睡眠が取れている彼女の目の下にはクマもなく、肌も前よりも綺麗に。もう本当に消失してしまった個性の中、唯一残ったアイデンティティ、黒い日傘を差して、彼女も朝、鼻歌交じり仕事に出る。
「薔薇蔵さんはまだ寝てるんですか?」
「はい。全く、始まりが遅いからって、ギリギリまで寝てないで欲しいです。家事の一つくらい手伝って欲しいですよ」
「大丈夫ですか? 手が足りなければおてつだいしますよ?」
「いえ、そんな。大丈夫ですよ。きっこさんにお手数を掛けるなど……格安で住処を提供して頂いてるだけで頭が上がらないんですから」
「大丈夫ならいいですけど、困ったら言って下さいね!」
はい、と微笑み、夜子婦人がしあわせ荘を出る。「いってらっさい」とそれを見送り、きっこさんは考える。
「そうですよね。ずっと寝てないで、家事のひとつでもするべきです」
ちらりときっこさんが見るのは103号室。
リンさんの身に危機が迫る!
ちなみに、彼女は夏でも春でも冬でも秋でも平常運転。今も熟睡中である。
「いやぁ、あっついのう」
「あ、しろさんおはようございます!」
「真白さんちーっす!」
ぴょんと二階の手すりから飛び降りてくる真白さん。右手でひらひら顔を扇ぎながら、巫女服も少し薄手のものに変え、流石の大妖怪も夏には参り気味のようである。
「朝ご飯はどうしますかー?」
「今日は夜子の所でご馳走になるつもりじゃ。『ふぁみれす』の『めにう』にはわくわくするからの」
夜子婦人はファミレスでバイトしている。そこでご馳走になるのが最近の真白さんのマイブームである。
ちょっぴり寂しそうに口を尖らせて、きっこさんは出て行く真白さんをお見送りする。
「れーちゃん、朝ご飯食べます?」
「ゴチになります!」
ホースを片付け、ずんずんと101号室に向かうきっこさんとレイ。
すると途中でがちゃりと上で扉が開く音がする。
たった、と足早に駆けてくるのは大きな少年。
「行ってきます!」
「あっ! だいくんいってらっさい!」
夏服を着る大はここ最近、早めに家を出るようになった。
以前よりも少し元気に見えて、きっこさんはほっこりとした。
少し足を止めると、後を追うように再び上で扉が開く音。
ああ、と軽く頷くと、きっこさんはにっこりと微笑み、レイを引き連れ自室に戻った。
扉を開けて、飾り気のない髪を揺らして、夏服姿の瓜子さんが表に出る。
忘れないよう部屋を施錠し、かつかつと軽い足取りで隣の部屋の前に移動する。
ふんふん、とさりげなく鼻歌を唄いながら、自然と緩む口をきゅっと引き締め、瓜子さんは深呼吸してからインターホンに指を掛ける。
ピンポーン。
遅れてガチャリと受話器を取る音。「はい」と答える男の子の声を聞いて、瓜子さんはインターホンに口を寄せて、すぅっと息を吸って、すっかり慣れた言葉を吐き出した。
「真くん、おはよう!」
あ、おはよう。
ちょっと待ってて今出るよ。
そんな返事にもすっかり慣れて、一歩引いて、背中の後ろで鞄を揺らして瓜子さんはじっと待つ。
少し間を置き空いた扉からは、鞄を肩にひっ掛けて、夏服姿の真が現れた。
「瓜子さんおはよう」
「おはよう!」
少しぎこちないが、以前よりはずっと慣れた、その笑顔。
じゃあ、行こっか。と二人で並んで歩き出す。
階段を降りて、101号室に向けて、行ってきますと声を掛け、二人は通学路に踏み出した。
『しっかし、すっかり慣れたもんだな天邪鬼娘も。大分いい顔するようになったじゃねぇの』
御守り効果で離れる事ができるようになったものの、時折背後霊、もとい守護霊ヒカルは真についてくる。瓜子さんをまじまじと見つめて、そう言ったヒカルに対して、真はほんの少し口元を緩ませた。
「だな」
出会いの春を経て、あつくてあつい夏が来る。
青く晴れ渡る空を見上げて、瓜子さんは言う。
「もうすぐ、夏休みだね」
しあわせ荘に夏が来る。
これにて二部完結。
ちょっぴり変化を受け入れて、しあわせ荘の住人達に夏が訪れます。
三部「夏、おもいおもいで」に続きます。