その23 『憂鬱ティーチャー』
朝十時頃。
ようやく目覚めたリンさんは、ふらりと自室から出る。
そこでたまたま、きっこさんと顔を合わせた。
「あ、おはよーリンちゃん」
「うっすー」
ひとつ大あくびをするリンさん、昨日はかなり夜更かししていた。
同じアパートの後輩を助けてやろうとしたら、思わぬ仕打ちを受けたので、雪江さんをとっ捕まえて、寝落ちするまで愚痴を言いながら飲み明かしたのである。
「ゆきちゃん、すごい顔で出てったけど、どれだけ昨日飲んだんですか?」
「あー、どうだったっけな。家にあった缶は全部開けて、その後買いに行ったから……」
「飲みすぎです! ゆきちゃんは今日もお仕事なんだから、つき合わせちゃダメ!」
「あー、頭がガンガンする……」
きっこさんも小言を言いたかったようだが、本当に調子の悪そうなリンさんを気にして、これ以上大きな声を出さなかった。実はすごいくだらない理由でやけ酒をしていたのだが、リンさんが特別何か悩んでいると勘違いしているのだ。多分、中学生に憐憫の目で見られたからという理由を知られれば、説教再開待ったなしであったろう。
ふう、とため息をついて、あ、そういえば、ときっこさん。
「そうそうリンちゃん聞きました? 真くんと瓜子ちゃんの担任の先生のこと」
「あんにん?」
「杏仁豆腐食べたいです! ……じゃなくて! た・ん・に・ん!」
ノリツッコミもできる管理人さん、それがきっこさんなのである。
しかし、今はそこはどうでもいい。
「柏谷先生だそうですよー」
「……柏谷?」
ボリボリと頭を掻いていた手を止めて、リンさんが眉間に皺を寄せる。
そして右上に視線を向けて、何かを考えるように頭を再び掻き始める。
「……へえ」
にやりと怪しい笑みが浮かぶ。
「きっこ。ひとつ頼みがあるんだけどよ……」
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デスクで頭を抱えて、頬のこけた男性教員は深くため息をついた。
少しゆったりとした上着を脱ぐと、ワイシャツに包まれた体の細さが際立つ。
その肩をぽんと叩き、一人の教員がにひひと笑った。
「ご愁傷様柏谷先生」
「……やめてください、猫宮先生」
くたびれた表情で、1年4組の担任、柏谷六郎は1年2組の担任、猫宮を見上げた。
「災難ですねぇ本当。毎度毎度『問題児』……でなく、『個性派の生徒』ばかりのクラスに当たって。今年は特に強烈だって聞いてますよ」
当たって、という猫宮の言葉には語弊があった。
越戸高校には、毎年のようにちょっとした『問題児』……ではなく『個性派の生徒』(そう言わないと親御さんからこっ酷く叱られる)が入ってくる。
その『個性派の生徒』達は、当然教師が抑えきれるようなものではなく、並の教師では一ヶ月も体が持たないほどなのだ。
故に柏谷は毎度必ず入学したての『個性派の生徒』を預かることになっている。
「まぁ、優秀すぎる人間は得てして損をするようにこの世の中はできていますし。そう気を落とさないで」
「……お世辞は結構ですよ」
名前のとおり『猫かぶり』が得意な猫宮と違い、『妥協』のできない柏谷は、毎年キリキリと胃を痛めているのである。
「お世辞じゃないのに~。んで、柏谷先生は飯、どうします?」
「……パン買ってます」
柏谷が足元のカバンから、小さなアンパンをひとつ取り出す。
それを見た猫宮は、ぱっちりとした目を更に大きく見開いて、わざとらしく驚いてみせた。
「あっれ~? それで足りるんですかぁ?」
「余裕ないんですよ」
「自炊とかしないんです?」
「できませんよそんなの」
忙しくて料理をする時間もない。そんな時間があるなら少しでも眠っていたい、数年前からの柏谷のくたびれた生活。気の毒そうに目を細めて、猫宮はくっくと笑う。
「柏谷先生もご結婚されればいいのに~。それか彼女、作るとか」
「……彼女って年でもないですよ」
教師歴、実に云十年。四十、五十に見えるくたびれた教員、実は大ベテランである。
「ええ~、年齢とか関係ないですよ~。彼女、いいですよ~。弁当とか作ってもらえるし」
「自慢ですか」
「いえいえそんなつもりでは」
白々しくふふんと笑い、どかっと柏谷の隣に腰掛け、猫宮が弁当の包みを開く。
その隣でアンパンの袋を破り、頬張る柏谷は余計にくたびれたように見えた。
そんな弁当を作ってくれる女性どころか、女性という生き物に全く縁のない、くたびれ教師がふと職員室の窓の外に目をやると……
「よっす~柏谷」
思わずアンパンを吹き出す柏谷。
窓枠を乗り越え、乗り込んでくるのは、かつて面倒を見た超がつく問題児。問題児と言っても差し支えない問題児オブ問題児。
「ほ、鬼灯!?」
「ひっさしぶり~! あん? なんだ、そのくたびれたスーツ! 相変わらずだなオイ!」
窓から平然と侵入してきたリンさんは、ニヤニヤしながらずかずかと柏谷に詰め寄ってくる。
何を隠そうリンさんは、越戸高校の卒業生であり(中退ではない)、柏谷のかつての教え子なのである。
バンバンと肩を叩かれ、柏谷の背中が次第に縮んでいくように見える。すごく嫌そうな顔で、柏谷がリンさんの顔を見上げた。
「……柏谷先生。彼女は?」
「……教え子ですよ。私が更生できなかった数少ないね」
赤い髪。猫宮はじろりとそれを見て、ひくっと口元を引きつらせる。
「……レッドキング?」
「お? 見ない顔だな。新任か? しっかし、そんなヤツにも知られてるとか、流石だなあたし!」
青ざめた顔でささっと猫宮が柏谷から離れていく。
「か、柏谷先生。久しぶりのかつての教え子の再会をお邪魔しちゃ悪いんで……失礼しますっ!」
「お、気がきくじゃねーか」
「……逃げられたんだよ。お前……ほんと何しにきた?」
「あ? つれねぇなぁ、相変わらず」
『越戸のレッドキング』と呼ばれ、『越戸のスノーホワイト』と双璧を成していた超問題児は、伝説的な有名人なのである(悪い意味で)。
跳ねっ返る赤髪を振り乱し、制服など持っていないかのように薄汚れた体育のジャージを乱暴に着こなし、目を吊り上げながら暴虐の限りを尽くした超問題児を思い出し、柏谷は思わず胃を抑える。
しかし、赤い癖っ毛をきちんと寝かせ、シワの寄っていない赤いジャージとスキニージーンズを着こなす彼女は、昔よりかは幾分か落ち着いた印象を与える。
「何しに来たって、同じアパートに暮らしてる後輩の担任がお前だって聞いたからよー、久しぶりに挨拶ついでに顔見に来てやったんだよ」
「あの中にお前の関係者がいるのか!?」
「嬉しいだろ?」
吐きそうになって口を抑える柏谷。
にやりと笑う赤い悪魔。
柏谷は今まで多くの問題児の面倒を見てきたが、彼女ほどに厄介だったヤツもそういない。リンさんは完全に柏谷先生のトラウマなのである。
その関係者がいるとなると、いよいよ胃が爆発四散しそうだったが、柏谷はあえて「誰が」とは聞かない。
きっと、それを知ってしまうと、生徒に偏見を抱いてしまうだろう。そう考えてのことだった。
そんな彼の苦痛を知ってか知らずか、平然と職員室に乗り込んできたリンさんは、けたけたと笑いながら柏谷の顔を見下ろす。
「しっかし、相っ変わらずのガリガリだな! 昔より痩せたんじゃねぇの? ちゃんと飯食ってんのか?」
「……お前みたいなのの面倒見てると痩せるんだ自然と。それよりお前……」
どうにも昔と様子の変わらない、不法侵入を働いた教え子に久しぶりに説教のひとつでもしてやろうかと柏谷が顔を上げようとする。すると、彼のデスクにどん、とそこそこ大きな包みが放り投げられた。
それはどうやら弁当のようである。
「おら、食えよ。差し入れだ。どーせ、昔みたいにコンビニのパンとかで済ませてんだろ? 大飯食らいのくせによ」
「……お前が作ったのか?」
「あたぼーよ。弁当箱はきっこからの借りもんだから後で洗って返せよ」
少し驚き柏谷が包みを開く。
くまのイラスト入りの弁当箱の蓋を開けると、そこにはギッシリと中身が詰まっていた。
餃子にエビチリ、麻婆豆腐に春巻きと、ガッツリ中華な詰め合わせは、可愛らしい弁当箱には不似合いな雄々しさ感じさせる豪快なもので、下の段にはぎっしりと彩りもない白飯が詰め込まれている。
女性らしさを欠片も感じられない弁当ながら、なかなかに食欲のそそる、食いでのありそうな弁当だ。
「……相変わらず、料理だけは大したもんだな」
「ったりめぇよ。体育と家庭科ならあたしの左に出るやつはいねぇ」
「右な」
「なんでもいいから早く食えよ」
柏谷はリンさんの顔をもう一度見上げる。
ニヤニヤしている悪魔に呆れ顔で目を細め、はぁ、と深くため息をついて、柏谷はパンと手を合わせた。
「いただきます」
まずは、とエビチリに箸を伸ばす。開けた時から気づいていたが、まだ温かい。作ってすぐに持ってきたようだ。
かつてのリンさんも、授業のバックレは当たり前だったが、家庭科の調理実習はかなり真面目に参加していた。料理は本当に好きだったらしく、無理矢理食わされた数々の料理もそこそこ……いや、かなり美味しかったと柏谷も覚えている。
故に柏谷は迷わずそれを口に入れた。
ぱくり。
次の瞬間、目をカッと見開いて、柏谷は文字通り『跳ね上がった』。
勿論、料理漫画的なオーバーリアクションではない。
「辛あああああああああああああああっ!?」
「ぎゃははははははははははは! 引っかかりやがった! 『リンさん特性辛さ増し増し激辛弁当』の威力を見やがったか柏谷!」
「鬼灯ぃぃぃぃぃぃぃぃッ!!」
柏谷がとうとうキレた。
そしてすかさずリンさんは職員室の入口から飛び出した。
「ひゃっはー! 久しぶりにキレやがった! とんずらっ!」
そのあまりのスピードに、目をぎょろりと光らせ、『本性』を見せかけた柏谷がすっと縮む。
「は……はいつ……!」
口を真っ赤にして、ひいひい言いながら、涙目で柏谷が席に着く。
そう、リンさんは今でも超問題児なのだ!
柏谷は思わぬかつての教え子の嫌がらせの再来に、頭をぐっと抱えてうずくまった。
そこで、職員室の入口に、ダカダカと走って戻ってきたリンさんが「おーい!」と声をかける。
「残さず食えよ! あと、洗った弁当箱は遠野真に渡しとけ! あばよっ!」
ひゅん、と疾風怒濤に去っていく、嵐のようなかつての教え子。
未だにひいひい言いながら、後輩って遠野のことか、だとか残さず食えとはよくもそう抜け抜けと、とか、ぶつぶつと呟き、柏谷は弁当箱に再び視線を戻す。
そして、再び激辛エビチリに箸を伸ばし、恐る恐るぱくりとかぶりつく。
もぐもぐと、今度は飛び上がらずにそれを噛み締め、はぁぁぁぁ、と今までで一番深い溜息をつき、机に額を押し付けた。
「……辛すぎるがちゃんと美味いのがまた……腹立つんだ」
麻婆豆腐も春巻きも、餃子も全てしっかり辛い徹底ぶりだったが、なんだかんだで柏谷は全部平らげてしまったという。
リンさん回。
実は真達の担任の柏谷先生の教え子だったという。
そして高校ちゃんと卒業してるという。
昔も今も問題児ながら、実は昔よりはマシだったりするのです。