空から降ってきた男
遠藤 菜月は人生初のナンパを体験をしてしまった。
それは渋谷に上京した初日の出来事。
憧れのSHIBUYA109を目の前にした大通りで、突然、ビジネスマン風の男が親しげに言い寄ってきたのだ。
「ねぇ君、どこかで会ったことあるよね?」
――これは、噂に聞くナンパ?
にしては古典的すぎる手段だと呆れたが、それでも相手を無下に出来ないのが菜月の性格だった。
「多分、人違いじゃないですか?」
「いや、そんなことはない。俺はハッキリと憶えてるんだ。ほら、あそこのファミレスで働いていたよね」
「あの……私、昨日渋谷に単身で引越してきたばかりなんです。それにバイトなんてしたこともないし」
途絶える会話。
男の引きつった笑みが妙に痛々しい。
――きっと、ナンパとかするの初めてなんだろうな。
「それじゃあ、私は用事があるので失礼します」
頃合いを見計らって、その場を立ち去ろうとした時。
「待ってくれ」
男は菜月の細い腕を掴んで、何とか引き留めようと試みた。
「君は今、単身で引っ越してきたって言ったよね。ということは、家族は近くにいないのかな?」
「はい、そうですけど……それが何か?」
菜月は相手の質問の意図が分からず、首を傾げた。
「いやぁ、好都合だと思ってね」
「好都合……ですか?」
「うん。まあ、こっちの一方的な都合なんだけどね」
瞬間、男は菜月の背中に両腕を回すと、力強く抱き寄せた。
「きゃ!?いきなり何するんですか、変態!!」
「変態呼ばわりは止めて欲しいな。俺だって仕事じゃなければ、君みたいな女の子に手を出さないよ」
そう囁いて、男は菜月の首筋に黒い鉄の塊、スタンガンを押し付けた。
菜月は無機質な冷たい物質の感触を肌に感じて、本能的に身動きが取れなくなる。
「そんなに怖がらないでくれ。少しの間、眠ってもらうだけだ」
直後、青白い火花が散り、菜月は全身の力が抜けるのを感じて、そのまま意識が暗転した。
男は膝から崩れ落ちる菜月の身体を優しく受け止め、満足げに口の端を歪める。
その時。
「さすがはリーダー、真っ昼間から大胆なことをしてくれる」
「なんだ、もう来てたのか」
リーダーと呼ばれた男は振り返らず、淡々とした口調で答えた。
その冷静すぎる反応を目の当たりにして、背後から迫っていた禿頭の男は面白くなさそうに唇を尖らせる。
「ちょうど良い、この女を車まで運んでくれ。力仕事はお前の専門だろう」
「お安い御用だ」
禿頭の男はリーダー格から菜月を受け取り、軽々とお姫様だっこをして見せた。
「にしてもお前と仕事を組むとホントに楽だな。今までの苦労がバカみたいに思えてくる」
「ふん、誉められるようなことは何もしてないさ。それに、ケルビムなら当然の仕事だろう」
最近、渋谷を中心に活動を始めたグループがある。
それが男の言う『ケルビム』だ。
イカれた集団。
キレた若者の集い。
頭のネジが二、三本ぶっ飛んだ奴ら。
そんな悪評ばかりが先行する謎のグループ『ケルビム』に所属する彼らが、いったいどんな目的で遠藤菜月を狙ったのか、それは定かではない。
しかし、彼らの動きと呼応するように、全く別の勢力が動き始めたのは確かだった。
* *
「あれはナンパっすかね」
寝癖を束ねたチェック柄のバンダナに、アニメキャラクターがプリントアウトされた半袖シャツ。
典型的なオタクの格好をした笹原 亘は渋谷駅の改札口から二分ほど歩いた大通りで、それを目撃した。
一人の少女がビジネスマン風の優男に言い寄られている光景だ。
亘はちょっとした好奇心で、困惑した表情を浮かべる少女を観察してみた。
まず目につくのは、西洋人形のような印象を受ける栗毛色のショートカットに、眩いほどの異彩を放つ茶色がかった大きな瞳だ。
誇張した表現ではなく、道行く人の大半が振り返るような整った顔のパーツ。
加えて、ほんのり赤く染まった頬と桜色の唇が、少女の美しい顔立ちをより一層引き立てる。
「へえー、可愛いっすね」
第一印象だけの素直な感想だった。
不謹慎な表現かもしれないが、少女はナンパされる資格を有した抜群の美形に違いなかった。
しかし、それでも。
亘は自分には関係のないことだと片付けた。
少女を助けて正義のヒーローを気取るなんて、自分の柄じゃないのは理解しているし。
何より、ナンパというものは、そんなに深刻な話でもないらしい。
暇を持て余した男が手当たり次第に女を誘い、馬が合えば一緒に楽しい時間を過ごす。
単にそれだけの話。
つまり、一介のオタクが口を挟める問題ではないのだ。
亘はそう結論付けて、再び人の波に流され始めた。
次第に少女との距離は詰まっていき、ついに間近で見える位置関係となる。
亘は少女の端正な顔立ちを視覚に焼き付けながら、再び会える幸運を祈り、そしてその場を通り過ぎようとした。
その時。
不意に、男が少女を力強く抱きしめた。
白昼堂々と、公然の場にも関わらずだ。
――最近のナンパって、けっこう大胆なことまでするんすね……
見ている方が恥ずかしくなる微笑ましい絵だった。
亘は慌てて視線を逸らし、止まりかけていた足を再び前に動かし始める。
――そうだ、渋谷みたいなリア充の巣窟はさっさと脱出して、オタクの聖地秋葉原に行こう。今日は、一日中暇だし。
そんな感じで強引に気持ちを切り替えて、その場を後にしようとしたのだが。
「ケルビムなら当然の仕事だろう」
――ケルビム。
その言葉が聞こえた途端、亘の足取りがピタリと静止した。
押し寄せる人混みの中で、彼一人だけが取り残されてしまったような錯覚に陥る。
――やっと、見つけた。
亘は背負っていたリュックサックからタッチパネル式の携帯電話を取り出すと、液晶画面の上で素早く指を滑らせて一件のメールを送信した。
『奴らを発見した』
* *
「何やってんすか、アンタたちは!!」
亘はリーダー格らしき人物の肩を掴んで指先に力を込めた。
そこで初めて二人の視線が交錯する。
「なんだ、君は?失礼なやつだな、手を放してくれ」
「その子を解放したら、すぐにでも消えてやるっす」
亘は相手の冷酷な瞳を真正面から睨み返した。
その表情に恐怖という感情は微塵もない。
「ったく、変なヤツに絡まれやがって」
リーダー格の隣で禿頭の男は肩をすくめながら溜息を漏らす。
「お前は、さっさと女を運べ。この世間知らずなガキの相手は俺がしてやる」
「だからっ、その子をどうするつもりっすか?」
問いに対して言葉による応酬はなく、代わりに容赦のない肘打ちが亘の脇腹に吸い込まれた。
亘は苦痛に表情を歪め、膝から崩れ落ちる。
激しい肩の上下運動、乱れた呼吸音がダメージの深刻さを物語っていた。
「これ以上大人の仕事に子供が口を挟むな。俺は君が思っているほど暇じゃないんだ」
「……はははっ、大人の仕事って言いますけど、随分カッコ悪い仕事してるんっすね」
地面に伏した亘は口の端をイタズラっ子のように歪めると、精一杯の皮肉を告げる。
が、この一言は余計だった。
「大人しく寝てろ!!」
リーダー格は亘の顔面を靴の底で踏みつけると、何度も地面に押し付けた。
激痛を伴う悲鳴が響く。
周囲の人間も眼前で繰り広げられる血生臭い光景にようやく気付いたのか、次第に二人を野次馬が取り囲んでいった。
リーダー格は注目を浴びすぎたことを反省しつつ、それでも至って冷静だった。
「なあ、お前はケルビムっていう組織を知っているか?」
返答はなかった。
気絶、もしくは答える気力も残されていない、そう判断したリーダー格は去り際に言葉を残した。
「ケルビムには関わるな、この言葉の意味がよく分かっただろう。俺たちは普通じゃない。歪んだ人間の集まりなんだよ」
* *
「あの、さっき殴られてましたけど……救急車を呼びましょうか?」
乱闘騒ぎが収まってから間もなくして、一人の気弱そうな少年が亘の傍に駆け寄った。
しかし、反応はない。
状況を深刻に捉えた少年は携帯電話を取り出し、119番の入力を試みた、その時
「さっきの奴らは遠くに行ったっすか?」
少年の指は番号をコールする寸前で停止した。
聞き間違いの可能性を考えて、おそるおそる視線をケータイの液晶画面から亘に戻すと、そこには白目を剥いたまま気絶している彼の姿があった。
しかし。
「もう一度聞くっす。あいつらは遠くに行きましたか?」
聞き間違いなどでは決してなかった。
気絶したと思われていた亘は、口を動かさず、それでいて器用に言葉を発していたのだ。
少年は呆気に取られながらも
「さっきの人たちなら、もう姿は見えませんけど……」
何とか、それだけを告げた。
「そうっすか。情報提供感謝します」
言い終えると、亘は機械仕掛けの人形の如く勢いよく立ち上がり、何事も無かったかのように服に付いた砂ぼこりを払い落とした。
「全然平気そうですね」
「はい、痛くも痒くもないっす」
そのにこやかな表情は、とても痩せ我慢には見えなかった。
亘はリュックサックのポケットから携帯電話を取り出すと、通話履歴から一人の相手を選んだ。
液晶画面に鬼塚 小吉というアンバランスな名前が表示される。
コール音は三回繰り返されたところで相手と繋がった。
「あっ、ショウちゃん……はい、亘っすよ。って、何でまだ登録してないんすか……それより、たった今、ターゲットに発信器を付けたんでケータイのGPS機能で追跡を要請するっす……ああ、そうだ、ターゲットは一人の女の子を拘束してます……ええ、だから本気で暴れるのはナシっすからね。では健闘を祈るっす」
通話終了。
この時点で亘は仕事から解放され、ようやく自由の身となる。
「あ、あの、追跡とか暴れるとか、何だか物騒な友達だね……」
少年は引きつった笑みを浮かべながら、嫌な汗をたっぷりとかいていた。
亘は、心外とでも言いたげに唇を尖らせる。
「ショウちゃんは悪い人じゃないんっすよ。ただ、ちょっとだけ常識外れというか規格外というか……いや、とっても良い人なのは確かなんっすけど」
* *
車道沿いにある七階建ての雑居ビル。
その屋上に、バーテンダーのような服装に安っぽいサングラスをかけた長身の男、鬼塚小吉はいた。
落下防止用のフェンスに背中を預けながら、ターゲットが到着するのを心待ちにする。
鬼塚はケータイのGPS機能が示す座標と、目の前に広がる猥雑な世界を照らし合わせてターゲットの位置を正確に導き出していた。
「アレ、だな」
視界の隅に捉えたのは、高速で移動する黒いワゴン車だった。
明らかなスピード違反に、危険を伴う追い抜き行為の連続。
――ったく、分かりやすい野郎だ。
どこか嬉しそうに、そして破壊衝動を抑え切れなくなった身体がついに動き始めた。
鬼塚は網目状のフェンスに十本の指を絡ませると、両足で踏ん張りながら強引に持ち上げた。
額の血管がはっきりと浮かぶ。
直後、コンクリートの床は乱暴にめくり上がり、落下防止用のフェンスはあっけなく地上から引き剥がされ、そのまま遥か下の車道へと落下した。
その一連の動きは平凡な日常とは結び付かない、まさに常軌を逸したものだ。
「さーて、俺の相手がまともに務まるんだろうなァ?」
鬼塚は遮るものが無くなったビルの屋上から、少しの躊躇いもなく飛び降りた。
* *
逃走を続ける黒いワゴン車。
「これで三千万が手に入るなんて、ホント、最高の商売だな。あっ、女子中学生だったらプラス五百万か」
運転席でハンドルを操っている禿頭の男は、金の話で頭が一杯だった。
助手席で退屈そうに耳を傾けていたリーダー格の男は呆れたように言葉を重ねる。
「俺たちの目的は金じゃない」
「ケルビムに入ることだよな。もちろん承知してる」
「ふん、だと良いんだけどな」
交差点の信号が赤く点灯しているのを確認して禿頭の男はブレーキを踏みつける。
ラジオ番組の他愛もない会話が流れる車内で、不意にカーナビの上に置かれた時計が控えめなアラーム音を響かせた。
それは約束事の時間が迫っていることを二人に知らせている。
「ちょっと急ぐか?」
「必要ないさ。相手があの御伽賢人だからな」
御伽 賢人。
その名前を口にした瞬間、リーダー格は感傷に浸るように目を細めた。
「相変わらずあの男を信用してねえみたいだな」
「ウソをウソで塗り固めて、のし上がってきた奴だからな、信用するに足らない人間さ。だけど、あいつがケルビムとの接点を持っているのは間違いない。確証もある」
「だからって、俺たちとのパイプ役になってくれるかは疑問だぞ」
「心配ない、それも約束の一つだ。それに、もしあいつが契約を違えるようなマネをしたら……」
と、その時。
ワゴン車の屋根から金属同士がぶつかり合う甲高い音がした。
二人は同時に顔を見合わせて首を傾げる。
「何だ、今の音は?」
禿頭の男は車窓から身を乗り出すと
「うわぁ、車の屋根にフェンスが引っかかってやがる。こんなもんどこから降ってきたんだ?」
疑問を口にしながら上空へと視線を移したところで、禿頭の男は大きく目を見開いた。
それは文字通り、開いた口が塞がらないという状況だ。
「な、な、なんだよ、あ、アレ」
語尾が微かに震える。
「おい、みっともないぞ、少しは落ち着け。まさか、隕石が降ってきたわけでもあるまいし」
瞬間。
とてつもない衝撃がワゴン車を包み込んだ。
金属の削られる不快な音が鼓膜を刺激し、フロントガラスには幾重もの白い亀裂が走る。
――何が起きた……?
リーダー格のガラス越しに見えるのは上空からの強い衝撃を受けて、もはや原型を留めていないボンネット。
そして、その上には人が立っていた。
「ったく、小者臭がぷんぷんしやがる。こりゃケルビムじゃねえなァ」
バーテンダーのような格好をした長身の男、鬼塚小吉は、鉄の塊と化したボンネットの上でひどく失望していた。
「お、お前、他人の車を滅茶苦茶にしやがって……しっかり落とし前をつけてくれるんだろうな?」
「落とし前だと?ケルビムの名を騙ったお前らが悪いんだろーが。笑わせるんじゃねーよバーカァ」
言って、鬼塚はフロントガラスに蹴りによる一撃を加えた。
派手な破裂音と共に、雨のように降り注ぐガラス片。
鉛の銃弾さえ弾き返す防弾ガラスも、生身の人間の攻撃には耐え切れなかったらしい。
「俺はケルビムが嫌いだけどなァ、それ以上に、ケルビムの名を騙るゆとり野郎はもっと大嫌いなんだよ!!」
サングラスの奥で威嚇する瞳孔。
リーダー格の男はもはや敵対心とかそれに似た感情は持ち合わせていなかった。
ヤバい、こいつは本格的にヤバい。
戦う?いや、冗談じゃない、間違いなく殺される。
だったら逃げないと、逃げるしかない!!
「おい、さっさと車を出せ。この場は逃げるぞ……って、聞いてるのか?」
リーダー格は眼球だけを横に動かし、そして運転席に誰もいないことが判明した。
車窓から身を乗り出していた禿頭の男はさっきの衝撃で車道に投げ出されてしまい、そのまま気を失っているのだ。
「クソっ、肝心な時に……役に立たないヤツめ」
「おいそこのお前、一つ質問だ」
「は、ハイっ!何でしょうか?」
何故か、丁寧な口調になってしまうリーダー格。
「誘拐した女の子はどこだ?素直に差し出せば今日のところは見逃してやる」
「う、後ろの荷物入れです。今は気を失っていますが、何も危害は加えていません」
「ふん、売り物に傷をつけたら金にならないもんなァ」
さりげなく嫌味を呟いて鬼塚はボンネットから降りると、ワゴン車の後部にある荷物入れの傍に回り込んだ。
しかし、荷物入れの開口部にはロックがかかっており、通常の手段で開けることは不可能だった。
もちろん彼の怪力を駆使すれば即座に少女を救い出すことも可能なのだが。
――危害は加えないって約束しちまったからなァ……でも、やっぱり面倒だ、ぶっ壊そう。
鬼塚は荷物入れの窪みに指を引っ掛け、そのまま上向きに力を加えた。
すると鉄製の板は別の柔らかい物質のように捻じ曲がり、その奥の空間にて横たわる少女、遠藤菜月を発見した。
「誰……ですか?」
その少女は酷く怯えていた。
「安心しろ、もう大丈夫だ」
鬼塚は少女の頭を優しく撫でると、彼女の手首を縛っていたロープをほどいてやった。
少女は目に涙を浮かべたまま鬼塚の正面に立って、ぺこりと頭を下げた。
そして、何やら言葉を紡ごうと口を開いた時。
すぐ隣で、騒がしいエンジンの音が鳴り響いた。
直後、リーダー格はアクセルを踏みワゴン車を急発進させると、見事なハンドル捌きでUターンし、二人を真正面に捉えたところで停車した。
鬼塚の額に血管が浮かび上がる。
「ったく、何のマネだよ、そいつはァ?」
「うるせぇ……さっきから黙って聞いてりゃ調子に乗りやがって。くそっ、てめぇのせいで何もかもが台無しだ……お前が邪魔さえしなければ俺たちはケルビムに入れたかもしれないのに」
「安心しろ。ケルビムにてめぇらみたいな三下の居場所なんて用意されてねぇからよォ」
「だーかーら、そういうのが一番ムカつくんだって!!」
リーダー格は再びアクセルを踏むと、鬼塚に狙いを定めて車を発進させた。
あっという間にトップスピードになり、その距離を縮めていく。
「何で逃げないんですか!死ぬつもり?」
鬼塚の身を案じた少女の声が飛ぶ。
しかし、鬼塚は一向に逃げる素振りを見せず、あくまで自然体で立ち尽くしていた。
「おいおい、逃げなくていいのか」
そう言いつつ、更に速度を上げるワゴン車。
仮に鬼塚が逃げるという手段を選んだとしても、既に手遅れだったろう。
だから、彼は逃げなかった。
「逃げる必要なんてねぇだろーが。俺は普通じゃない、歪んだ人間だからよォ」
ワゴン車と接触する寸前、鬼塚は予備動作もなく右足を振り上げた。
普通なら、常識的に考えれば、次はどのような光景が予想されるだろうか。
例えば、ワゴン車との接触で右足があり得ない方向に曲がり、もがき苦しむ鬼塚。
いや、苦しむ以前に即死だろう。
誰だって、車と生身の人間ならば前者に軍配を上げるに違いない。
そして、それは正しい判断だ。
あくまで、常識の範疇での話だが。
コンクリートの地面と火花を散らしながら横転するワゴン車。
運転席のリーダー格は、恐怖のあまり気を失っていた。
* *
「車が突っ込んで来たんだ。こりゃ、立派な正当防衛だろう」
集結した警察車両の多さにうんざりする鬼塚。
――そもそも、俺が車を吹っ飛ばしただけで、これは接触事故だ。普通なら警察が俺の身を心配するべきだよな……
と、必死に言い訳を考えていた時。
「あの、さっきは助けてくれて、ホントにありがとうございました」
振り返ると、そこには深々と頭を下げる少女がいた。
警察の事情聴取から一時的に解放されたらしい。
「あっ、いや、その……どういたしまして」
その口調に先程までの男らしさは欠片もない。
――くそっ、女は昔から苦手なんだよなァ……
七階建てのビルの屋上から飛び降りても平気で、猛スピードで向かってくるワゴン車を生身で返り討ちにできる男は、たった一人の少女が手に負えないのだ。
「私は明日から常盤高校に通う遠藤菜月です。あなたは?」
――なんだ、俺を知らないのか。
それは鬼塚にとって少々意外な事実だった。
彼の名前は渋谷の人間なら九割方は知っている。
それぐらい、超が付くほどの有名人なのだ。
――もちろん、悪い意味でだけどな。
できれば、鬼塚は自分の名を口にしたくなかった。
きっと今まで通り、畏怖の視線で見られることになるからだ。
けれど、鬼塚は菜月のために、あえてその名を口にした。
「鬼塚小吉だ。この街じゃ、東京タワーから落ちても死なない怪物だって恐れられてる。お前もこれ以上関わらない方がいい」
名前を告げてから、しばしの沈黙があった。
それは予想できた反応とはいえ
――やっぱり言うべきじゃなかった。
鬼塚はぷいっと顔を背け、派手な舌打ちをする。
と、その時、菜月は思わず噴き出していた。
慌てて片手で口を押さえているが、それでも込み上げてくる笑いを堪えきれない様子だ。
「なんで笑う?」
「だ、だって、そんな深刻な顔して面白いこと言うんだもん。さすがに笑っちゃいます」
「どういう意味だ?」
聞き捨てならない言葉だった。
「確かに鬼塚君は怪物みたいに強いかもしれないけど……でも、それを理由に人との関わりを拒絶するのは絶対におかしいから」
「お前に何が分かる」
「わかります」
菜月の表情が真剣味を帯びる。
「私はまだ鬼塚君のこと何も知らないけど、あなたが悪人じゃないってことだけは分かる。だって優しいんだもん」
言い返そうとして言葉に詰まった。
鬼塚は味わったことのない照れ臭さを感じて、相手を直視することが困難になる。
――こいつ、苦手だ。
心底、そう思った。
「お褒めの言葉としてありがたく受け取っとくけどなァ、そりゃ買い被りだ」
鬼塚は片手を軽く挙げて、足早にその場から逃げようとする。
が、菜月に服の裾を掴まれてしまった。
――ああ、ホントに鬱陶しいガキだ。
「まだ何か用があんのか?」
「うん、今度会ったとき、ちゃんとしたお礼がしたいから、だから連絡先を教えて欲しいというか……」
鬼塚は菜月が言い終えるのを待たず、自分の携帯電話を放り投げた。
「俺、赤外線の使い方とか知らねえから、勝手にメアド交換しとけ」
「わあ、ありがとうございます!!」
菜月は無邪気に眼を輝かせると、両手を器用に動かして二台の携帯電話を同時に操作する離れ業を披露した。
やがてメアド交換は終了したらしく
「勝手にメアド変更したら本気で怒りますからねー」
と、捨て台詞を残して、菜月は警察の事情聴取に戻った。
風のように去っていく少女の後ろ姿を見送って、鬼塚はほんの少しだけ寂しげに呟いた。
「ったく、お前に怒られても、ちっとも怖くねえよ……」
* *
「女嫌いのショウちゃんが、ついにラブコメ展開っすか……いやぁ、これは完璧に油断したっす」
「お前、どこから見てやがった……」
「最初から全部っすよ」
典型的なオタクの格好をした笹原亘は、意味ありげな笑みを浮かべる。
鬼塚はバツが悪そうに顔を背けた。
「そう言えば、今回もハズレだったよなァ」
「ええ、幸い、女の子に怪我はありませんでしたが……とりあえず、本物の奴らを補足するのは楽な仕事じゃなさそうっす」
亘の言うように、最近はケルビムの名を騙る偽物を引き当ててしまうことが極端に増えていた。
それだけ彼らの知名度が一般にも浸透しているということだ。
「つーか、今気付いたんだけどよォ、お前と組むようになってから圧倒的にハズレの回数が増えてねぇか?」
「そ、そうっすかね。気のせいじゃないっすか」
亘の顔が青白く染まる。
どうやら、心当たりがあるらしい。
「最近は警察のお世話になることも多いよなァ。前回は一週間も警察署に拘束されたしよォ……」
「はははっ……御愁傷様っす」
「それもこれも、どこかの誰かさんの命令通り動いたおかげなんだよなァ……」
鬼塚の語調が次第に強さを増していく。
「いやぁ、ホントにご苦労様です……って、何で僕を睨むんすか!?」
「なあ亘、一発だけ殴ってもいいかァ?」
亘は首を激しく横に振った。
「ま、まさか、怒ってるんすか……」
「いいや、ちっとも怒ってないぞォ。俺はただ、一発殴りたいだけだ」
数秒後、近くの警官に助けを求めるオタクの姿があった。