王はいずこに
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東京駅の目の前に、ある日突然、その門は現れた。
直径は30メートルほど。門の向こう側には、この世界とは明らかに違う色の空が広がっていた。薄紫色の朝焼け、そびえ立つ白い塔、空を横切る帆船、そしてその上に浮かぶ巨大な影。
呆然と立ち尽くす人々の前に、門の向こうから白い服をまとった老人が現れた。長い銀髪を後ろで束ね、胸元には見慣れない紋章が光っている。左右に従えた者たちも、武器の類は一切持っていなかった。
老人は深く頭を下げ、宣言した。
「我らはエルドラ王国を中心とする六界連合を代表する外交団である。我はエルドラ王国宰相セラフィム・ドゥ・アルヴェイル。正式なる通交を願う」
その声は、聞く者それぞれの母国語として届いた。
東京駅周辺は即座に封鎖され、政府関係者が集められる間、外交団は何もせず、ただ静かに待っていた。
緊急会談の席で、宰相は最初にこう尋ねた。
「して、我らが王は、いずこにおられる」
会議室に沈黙が落ちた。
「王、というのは、貴国の元首を指すという理解でよろしいですか」
議長を務める外務大臣が尋ねた。
「その通りである。エルドラ王国第二十八代国王、アルトリウス・レイ・エルドラ陛下。世界門理論の完成者であり、七つの世界が二十年のうちに崩壊することを見出されたお方だ」
「崩壊、ですか」
「左様。陛下は、七つの世界を同時に固定せねば崩壊は止められぬと判断された。だが当時、七界はまだ結ばれておらず、正式な門を開くすべもなかった。ゆえに陛下は、単身渡界式を用い、各世界を巡られた。エルドラより第一の世界へ。そこで通交の承認を得て、次の世界へ。そうして五つの世界との折衝をすべて終え、最後に、貴国の属するこの世界へ渡られた」
「十八年も戻られなかったのなら、死亡された可能性は」
「ない」
宰相は即答した。
「白塔には、王命の宝珠がある。陛下が崩御されれば、その灯は消える。だが十八年、一度たりとも消えておらぬ」
「では、生きていることは分かっていたわけですね」
「左様。だが、どこでどのように在られるかまでは分からなかった」
大法官と紹介された女性が続けた。
「この世界への到達は、渡界式の反応で確認された」
「連絡はなかったのですか」
「陛下の渡界式は、肉体のみを送る術。衣も道具も送れぬ。陛下は御名だけで渡られた」
「では、到着後の状況は」
「分からぬ。ただ、陛下は戻らなかった。そして帰還門も開かなかった。我らはそこで、この世界への道を見失った」
七つの世界すべてが、いずれ崩壊に呑まれるのだという。
空間境界が薄れ、時空の裂け目が無秩序に生じるようになる。やがて町も国も大陸も全て、裂け目の彼方へ消え去る。
それを彼らは、世界剥離と呼んでいた。
「七界固定式は、陛下しか知らぬ」
「記録はないのですか」
「ない。記録してはならぬものだった。悪用されれば、任意の世界を崩壊させることすら可能になる」
会議はその場で、外交案件から失踪者捜索へ変わった。
異世界外交団は、十八年前の王の肖像を提示した。四十代ほどの男。金に近い茶髪。青い目。王冠も礼装もない、顔立ちを確認するための絵だった。
日本側は、本人確認の手段を尋ねた。
その問いに、宰相は不可解そうな顔をした。
「過去五界では、いずれも陛下は肉体のみで到着された。それでも各界は、古き伝承に照らし、陛下を迎え入れた」
「つまり、物証はなかったのですか」
「そのようなものがなぜ必要なのか」
会議室を沈黙が覆った。
捜索は続けられた。
転機は、地方の保健所記録からだった。
十八年前、関東近郊の小都市で、身元不明の外国人男性が保護されていた。
駅前広場で倒れていた。全裸。所持品なし。外傷は軽微。意識混濁。言語不明。
数日後には日本語での簡単な意思疎通が可能となった。本人は、来てから覚えたと主張していた。
自称名は、アルトリウス・レイ・エルドラ。
急性錯乱状態を疑われ、救急搬送。その後、精神科病院へ転院。身元は不明のまま。
現在は地方都市で単身生活。七十代男性。独居。自治体の高齢者見守り名簿に名前があった。
記録を見た瞬間、大法官が立ち上がった。
「陛下だ」
翌朝、調査班はその町へ向かった。
東京から電車で一時間。さらにローカル線で四十分。駅前にはシャッターの下りた商店街と、古いスーパーが並んでいた。
団地は丘の上にあった。昭和の終わり頃に建てられた、白い外壁の五階建て。手すりには布団が干され、階段の踊り場には植木鉢が並んでいた。
市役所職員が管理人へ話を通す。
「アルトリウス? そんな名前の人はいないよ……ああ、田中さんね? 三〇五の。最近はあまり出歩かないけど、朝はスーパー行ってるよ。昔はちょっと大変だったらしいけどね」
「大変、とは」
「詳しくは知らないけど。昔は自分は王様だとか言ってたって。まあ、今は全然。ちゃんと挨拶するし、ゴミ出しも守るし。いい人ですよ」
いい人。
その言葉を聞いた大法官の顔が、少しだけ歪んだ。
三〇五号室の前に立つ。古い鉄の扉。郵便受けにはスーパーのチラシ。表札には、黒いマジックで「田中」と書かれていた。
日本側担当官がチャイムを押す。
扉が細く開いた。
出てきたのは、小柄な老人だった。白髪は短く、背は少し丸い。灰色のカーディガンを着て、手には湯呑みを持っている。目は薄い青だった。
絵姿の王とは、似ていなかった。
似ていないはずなのに、宰相はその場に崩れ落ちた。
「陛下」
老人は、驚いたように瞬きした。
「はい?」
大法官が一歩前に出た。
「アルトリウス陛下。お迎えに上がりました」
老人は、しばらく彼らを見て、申し訳なさそうに笑った。
「すみません。人違いじゃないですか」
「陛下、セラフィムです。あなたの臣、セラフィム・ドゥ・アルヴェイルです」
「いや、本当に困ります。私は田中です、陛下などではありません。
昔、そういうことを言っていた時期があったのは、聞いています。
でも、あれは病気だったんです。今はもう、大丈夫ですから」
魔術院長が、老人の目を見つめた。
薄い青。
十八年前の王の瞳と、同じ色。
だが、それだけだった。
証明するものは、何もなかった。
宰相は顔を上げた。
「陛下、思い出してください。白塔の間を。西門の戴冠式を。あなたは六つの世界の名を順に読み上げられた。最後に、こう仰った」
彼は、異世界の言葉で何かを言った。
王と臣下だけが知る、白塔の最上階で交わされた誓約の句。
老人は首をかしげた。
「何をおっしゃっているのでしょう?」
「お判りに、なりませんか」
「すみません。外国の言葉でしょうか」
大法官が息を呑んだ。
「陛下、どうか。七つの世界が、あなたを待っています」
「そんなことを言われても、私には分かりません」
「あなたしか知らぬ式があるのです」
「困ります」
「あなたが思い出されなければ、全てが失われます」
「ごめんなさい」
老人は、本当に申し訳なさそうにそう言った。
「私は、ただの田中です。ここで暮らしています。毎朝スーパーへ行って、昼はラジオを聞いて、夕方に薬を飲みます。昔のことは、もう覚えていません」
廊下の向こうで、誰かの洗濯機が回る音がしていた。
遠くで子どもが笑っていた。
「ごめんなさい。今日は、もう疲れました」
扉が閉まった。
カチャリ。鍵がかかる音は、驚くほど軽かった。
最初に動いたのは、宰相だった。
「何をした」
硬く、平坦な声だった。
「我らの王に、貴国は何をした」
記録の照会は、近くの市役所で行われた。
小さな会議室。折りたたみ机。パイプ椅子。白い蛍光灯。壁には防災訓練のお知らせと、熱中症対策のポスター。
古い病院のカルテは電子化されていた。原本の写しも倉庫から送られてきた。
補佐官が、震える声で読み上げる。
『発見時、意思疎通困難。未知の言語と思われる発声あり。「アルトリウス」「エルドラ」に近い語を反復』
『入院四日目。日本語での応答が急速に改善。本人は「来てから覚えた」と説明。自らを「アルトリウス・レイ・エルドラ」と名乗る。王である、異世界より来た、首脳との会談が必要、七つの世界が崩壊すると訴える。誇大妄想を認める。管理名を田中レイとする』
『入院五日目。自室にて壁面に複雑な図形を書く。本人は「門の再構築」と説明。制止に対して強い興奮あり。「帰還門を開かねば六つの世界が崩壊する」と訴える』
『入院七日目。帰還の必要性を強く訴え、病棟出口へ向かう行動あり。「戻らなければ全てが崩壊する」と繰り返す。保護室にて経過観察』
大法官の手が、折りたたみ机の端を掴んだ。
『入院九日目。壁面への書字行為、職員への制止抵抗あり。鎮静目的にて投薬処置。以後、夜間の訴えは減少』
『入院十三日目。自らを王と称する発言継続。外交使節、臣下、七界、門、世界剥離など一貫した物語性あり。妄想体系は精緻。説得による訂正困難』
魔術院長が、小さく言った。
「妄想体系……」
『入院一か月。患者は「忘れれば世界が崩壊する」と訴え、睡眠を拒否。門式保持のためと称し、同一図形を反復して記述。妄想への没入を助長するため、紙筆の使用を制限。以後、図形記述は減少』
「紙筆を……」
魔術院長の声がかすれた。
『入院二か月。薬物療法により睡眠改善。王であるとの主張は弱まるが、時折「私は戻らねばならない」「式が失われれば全てが崩壊する」と発言』
『入院三か月。「名を奪われれば戻れなくなる」と発言。治療者より、現在の呼称は本人を否定するものではないと説明。以後、田中氏としての呼びかけに対する反応は徐々に改善』
『入院六か月。本人より「最近、式がうまく思い出せない」と発言。主治医、妄想内容への固執が薄れつつあるものとして経過観察』
『入院八か月。「私はたぶん病気なのだと思う」と発言。ただし「でも、あの塔だけは覚えている」とも述べる。塔について尋ねると涙ぐむ』
宰相は目を閉じた。
白塔。七界固定式が眠る場所だった。
『入院一年二か月。患者、初めて自らを田中と呼ぶ。「田中でいいです」と発言。「昔のことは夢のようで、今はよく分からない」』
『入院三年六か月。退院支援開始。患者は自らを田中と認識。王国、異世界、門について問うと「昔、そういうことを言っていたらしいですね」と答える』
それは、治療経過としては良好だった。
混乱していた身元不明男性が、薬物療法と生活支援により安定し、病識を獲得し、地域生活へ戻る。
その過程のどこにも、何もおかしなところはなかった。
最後の退院時要約が読み上げられる。
『退院時診断:統合失調症圏の精神病性障害疑い。誇大妄想は寛解。単身生活可能と判断』
『本人希望:静かに暮らしたい。昔のことは思い出したくない』
誰も、何も言わなかった。
窓の外、丘の上の団地に、夕方の光が当たっていた。
三〇五号室のベランダに、白いタオルが一枚揺れていた。
六界連合の宰相が、折りたたみ机に両手をついたまま動けずにいる。
大法官は、唇を噛んだまま涙をこぼしている。
日本側の医療担当者は、端末から目を離せない。
その窓の向こうで、どこにでもある団地の一室だけが、いつも通り夕方を迎えていた。
宰相は、何かを言おうとした。
だが、言葉にならなかった。
東京駅前に開いた門の向こうでは、六つの世界が崩れ続けている。
窓の外からはセミの鳴き声が聞こえた。
やけに、うるさかった。




