一、初めてのキス
ちょっとだけ、どっちもぶっ壊れてます。
辺境には、さまざまな物語が漂う。
あるものはとどまり続け、あるものは、静かに消えていく。
………
山中には雪が吹き荒れていた。何もかも、夜の闇ですら全てが白く覆い尽くされていく。風の音は雪女の哄笑のように響き渡り、家中の窓や壁は揺さぶられるように鳴った。
立て付けの悪い玄関の戸を空けて、あいつが家を出ていくのが分かった。こんな猛吹雪の中でも、酒を求めに行くのは愚かだ。もう既に酔っているにも関わらず、運転して麓のコンビニにでも行くつもりだろう。
「さすがに危ないよね」
自らの父親を心配し、立ちあがろうとする友人の肩を、マサは掴んで止めた。ゆっくりと首を降る。前にも同じことをしてあいつに殴られている。どうせ留められないなら、何もしないほうがいい。
「アキ、寒いからこっちに」
マサは友の名を呼び、自分の布団の隣に連れ戻す。アキは躊躇しつつも、腕を引かれるまま従う。
数分後、吹雪に交じって、異様な音が響き渡った。車がスリップしタイヤが叫ぶような鋭い音と、ドンという大きな音。……だったと思う。本当に音が聞こえたのかどうかですら、後に二人の記憶の闇の中に曖昧に漂っている。それに、この辺りに他の家はないから、もし音がしたとして、それを聞いたのはマサとアキの二人だけだったろう。激しい風の音の中に、それらはすぐかき消された。
アキが不安そうに布団から身を起したので、マサは目を開けた。そして、アキの華奢な手首を引き止めるように掴んだ。それこそ雪のように白いアキの肌は、血の気が引いて青くなっていた。美しいものにただ触れたいという思いで、マサがその頬に手を伸ばした。
「大丈夫。後はおれがいるから」
アキは手に頬を擦り寄せて、静かに目を伏せた。
決定的な瞬間を刻むように、居間の時計が零時を打った。
………
整備工場からの帰り道、雪がちらついてきていた。
今年の雪は少し早い。萩森将生(マサ)は車のスピードを落として急カーブを登り、ルームミラーで後方をちらりと伺う。男らしい太めの眉の下、彫り深い眼窩の暗がりで、黒い眼があの事故が起きたカーブを無感情に眺める。
家は、バス停にすら徒歩1時間はかかる程の山奥にある。着く頃には雪の粒は大きくなっていた。車から降りて、マサは肩や袖についた雪を玄関先で払う。
昔から通い慣れた築60年近いモルタル壁の家。中学の頃、百回だろうと、二百回だろうとここに通おうと心に決めた。そして住むようになってから既に千日は過ぎた。
「ただいま」と玄関の引き戸を開けると、奥から煮物のよい香りが漂ってくる。つられるように台所に向かうと、エプロンをつけた片尾秋人(アキ)が「お帰り」と振り返った。その姿を見ると、思わず小動物を見た人のように、自然とマサの表情筋は緩んでしまう。
アキは昨年二十歳を過ぎたが、相変わらず線の細い青年だった。全身の色素が薄いのか、髪も亜麻色をしている。少し長めの前髪が一筋垂れて、顔にかかっている。また今度切ってやらなければと思う。隣に立つと、「今日は少し早かった?」上目遣いにこちらを見上げてくる。マサよりも10センチほど背が低い。肩幅も狭いし、頭も小さい、顔も小さい。なんだか守らなければならないという気持ちになる。
「今日は飲みの誘いもしつこくなかったから」
「また誘われたの?」
アキの目が三白眼になる。上目遣いが強くなるといつもだった。その刺すような鋭さも、アキのものだと可愛いと感じてしまう。
「おじさんと飲むだけだよ」
「先に風呂に入るね」とマサはその場を離れた。機械オイルが染みた手を洗い、服を脱ぐ。風呂はマサのためにアキが沸かしてくれている。建物は古いがアキがよく掃除をしているから気分が良い。
風呂上がりに、マサは鏡の前に立つ。
週末の農作業をするようになって、体のあちこちに筋が出てきていた。顔の輪郭や、鼻筋もはっきり出てきて、黒い眼の力が年々強くなっているような気がしている。この前アキに「マサって年々かっこよくなるね」と褒められて思わず心の中でガッツポーズをした。
風呂上がり台所に戻ると、アキが食卓に料理の皿を並べていた。煮物とみそ汁、おひたしだろうか。
手伝いながら、「おいしそうだね」と労いの声をかける。アキは小鉢を卓に載せながら言った。
「セリのおひたしだよ。畑で採れた」
「へえ、セリか。珍しいね」
「頂きます」と箸を持つと、じっとアキが見つめてきた。そしていたずらっぽい上目遣いで言う。
「ドクゼリだったらどうする?」
アキは箸を掴まずに、テーブルに手をちょっとだけ載せて、そこにもう片方を軽く重ねる。まるで演技しているような繊細な動きだった。そして、口角だけをほんのり持ち上げてから、目を細めつつ続ける。
「……おれは覚悟ができているよ」
マサは考えた。
「死ぬ前にしたいことか……」
マサはテーブルに手をついて、少しだけ身を乗り出す。そして、アキに柔らかく触れるだけのキスをした。初めてのキスだった。
「なにそれ」
目を瞬くアキの前で、マサは飯を食べ始める。
結局、普通のセリだった。




