第86話 何も起こらなかった、ちゃんとした一日
(散歩、結構歩いたね)
それから、王都市街地へは行かなかったけれど、学院近辺を歩き続けていた。
学院のすぐ側にある高台の端にあるコリントス公記念緑地で、初夏の午後を楽しみながら。
共に歩く古い並木道がさわやかな感じを出している。
足取りはゆっくりで、いつもよりも遅い感じ。
でも、それでイライラするといった事は起こらなかった。
ボクもロランスも自然とどっちかに歩幅を合わせている。
のんびりとしていて、今日はそれでも良かった。
「太陽が落ちてきたね」
「そうだね」
初夏だけれども、ちょっとだけ橙色が見え始めた。
結構歩いていたんだね。
散歩をしていて、午後が消えていく。
(最初の予定は、図書館に行くか、部屋でゴロゴロしているだけだったからね)
だからこそ、昨日に引き続いてロランスと一緒に歩く事で充実していた。
穏やかな雰囲気の緑地が、ボク達を引き立てている。
「そろそろ戻ろっか」
「うん」
ボク達は寄宿舎へ戻っていく。
疲れはまだない。
だからこそ、丁度良かった。
緑地から寄宿舎へ帰る道。ほんのちょっとだけど、まだ少しだけ散歩は続いている。
「今日、何も起こらなかったね」
午後は特に何も。
緑地で事件や騒動が起こるわけでもなく。
「起きてたよ」
「え?」
ロランスは軽く笑っていた。
サイダーみたいにさわやかで。
「それ、事件扱い?」
「大事件」
冗談っぽく微笑んでいる。
でも、それ以上その場でロランスは言わなかったし、ボクもツッコまなかった。
やがて寄宿舎の前に着いた。
そこでロランスは一旦立ち止まる。
「昨日よりね」
時間差で、続きを答えている。
「昨日より?」
「”考えすぎてない顔”だった」
ロランスはそう言いながら、穏やかな表情を見せていた。
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
少しだけ間が空いて、にこっとはにかむロランス。
可愛らしくて、綺麗だった。
「じゃ、夕飯でね」
いつもの感じになって、先に寄宿舎の中に入っていった。
「うん」
ロランスの足音が遠ざかるけれども、ボクは入り口で立ち止まったまま。
一人で考え事をしていたから。
(今日は追撃がない)
踏み込まれなかったのが、少し寂しくて、でも救われた。
どうしてなんだろう。
もうちょっと言ってもいいのにな。
(でも、落ち着いている)
不思議だけれども、その答えは考えも分からなかった。
だからこの答えを求めるのはやめて、部屋へと戻っていく。
そして部屋に戻り、扉を閉めて気づいたこと。
「疲れていない」
靴を脱いでベッドに腰掛けながら、そう感じる。
さっきも疲れを感じなかったのに、ベッドに腰掛けたタイミングでさえ、そう感じることはなかった。
確かに散歩したのは、記念緑地までだからそこまで距離が無かったのもある。
でも、それだけじゃない気がする。
(昨日は、全部が濃すぎた。今日は、薄い)
少年服でお出かけ、呼称事故や”年下彼氏・年上彼女”。
一日だけでいくつも起きたから、イベント数がありえないと思えるくらい。
でも今日は違っている。
午前中はゼナイド様に呼ばれたり、フェリックス様と話したりと、多少あったけれど、午後はそうでもない。
ロランスと一緒に散歩をした。
ただそれだけ。
それ以上のことをしていない。
ふと、窓の外を見てみた。
さっきよりも夕焼けに空が染まっている。
結構歩いたんだね。
(少年服でも、私服でも。令嬢でも、元男の子でも)
小さく息を吐いた。
(今日は、ただのポラリスだった)
そうでいようと、選んだんだと思う。
ボクはそう考えて、ベッドから立ち上がる。
そして部屋を出て食堂へ降りていく。
夕ご飯は何だろうね。
明日のことは、まだ考えなくていい。
(お腹空いた)
それだけを考えながら食堂へ。
食堂へ降りると、昼とは違う匂いがしていた。
煮込みの香りと、焼いたパンの匂い。
夕方の空気と混ざって、さっきよりもお腹が空いてくる。
(ちゃんと一日が終わろうとしている)
食堂は昼間と違って人は多い。
でも、騒がしいほどじゃなかった。
ボクは給仕から料理の入ったトレイを受け取って、席を探していく。
今日のメインは舌平目のムニエル。
「ポラリスさん」
名前を呼ばれて振り向くと、ロランスがいた。
さっき別れたばかりのなのに、不思議と久しぶりな気がする。
「また一緒だね」
「うん」
それだけで十分だった。
席に座って、スープを一口飲む。
温かくて、少し塩が効いている。
「今日ね」
ロランスが、食事を始めながら言った。
彼女は隣の座席に座っている。
「いい一日だったよね」
「うん」
理由を訊かれないのが、ありがたかった。
説明しようとすると、多分言葉が多くなるから。
パンをちぎって、ゆっくり食べる。
特別な味じゃない。
でも、ちゃんと美味しい。
舌平目のムニエルだって、ほどよい味。
(こういう日が、続けばいいのに)
そう思って、すぐに首を振る。
続くかどうかは分からない。
でもーー
(今日は、ちゃんとここにいた)
それで十分だった。
食事を終えて、トレイを返す。
廊下に出ると、外は完全に暗くなっていた。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
短い言葉を交わして、それぞれの部屋へ向かう。
扉を閉めたあと、ベッドに座って、もう一度だけ思う。
(今日は、何も起こらなかった)
でもそれは、何も残らなかった、という意味じゃない。
静かで、薄くて、ちゃんとした一日。
それが今のボクには、ちょうどよかった。




