第61話 アデリナの親友
【アデリナ視点】
殿下とポラリス嬢が補講を行っている教室の前まで来たのは、本当に偶然だった。
いいえ……そう言い聞かせているだけで、私の足は最初からここに向かっていたのだと思う。
授業が終わったから、気になってしまって。
(殿下と……ポラリス嬢が一緒に補講……)
朝の授業が終わってから、殿下がポラリス嬢に提案してから、その事実だけが胸の奥に刺さり続けていた。
廊下を通り過ぎるつもりだった。
けれど、扉の隙間から漏れた小さな声が、足を止めさせた。
「今日は楽しかった。君と学ぶ時間は……思った以上に心地よい」
殿下の声。
私でさえ聞いたことのない、柔らかく、温かい声。
喉の奥がぎゅっと閉じ、呼吸が浅くなった。
「は、はい……!」
震えるような、でも嬉しさの滲むポラリス嬢の返事。
その瞬間、胸の中心がふっと沈んだ。
(……また、私じゃなくて)
扉に触れないように壁に寄りかかり、肩が震えるのを押さえる。
一瞬、扉越しにポラリス嬢と目が合った気がした。
(補講……殿下の言葉……婚約……)
私は踵を返し、この教室から少しだけ離れる。
でも少し離れても思考が纏まらない。
足が歩く速度が落ちてくる。
ただ、胸の奥で渦を巻く”不安”だけが形を持って迫ってくる。
そして、扉が僅かにきしんだ。
(……いけない)
私は気配を消すように、この教室を後にする。
今度は普通に歩くことが出来た。
まるで追われているみたいに、速さが出ていたと思う。
(ポラリス嬢に……見られたかしら……?)
確かめる勇気は無かった。
私はそのまま次の礼法座学の教室へと向かった。
教室に入ると適当な席に座って、授業が始まるまでじっとしていた。
背筋を伸ばして、完璧を維持させたかった。
私は殿下の婚約候補として、人前で弱さを見せてはならない。
それが幼い頃から教え込まれた”義務”だから。
でも手は震えていて、平常心を身体が保てていないのが分かってしまう。
「アデリナ様、大丈夫ですか?」
令嬢の一人が心配して私に話しかける。
「は、はい……問題ない……ですよ」
私は乾いた笑いを見せながら、完璧な私を見せようとした。
心配をかけさせたくない。
だから頼る事なんてできない。
それが聖女候補を狙い、殿下と婚約も狙う者に課せられたものだから。
「今日のアデリナ様……目が赤くなっていたよ……」
「殿下の補講のせいよね……」
「もう限界なんじゃ……」
令嬢達が噂話をしている。
最近の話って、ポラリス嬢か私に対するもの。
話題の中心にいるのは嬉しいけれども、私の話題は状態が不安定になっているもの。
ポラリス嬢は殿下や他の子息と一緒にいるといったもの。
何とか良い噂にしないと……
でも今の私には、ただ聞いているしか出来なかった。
「……!」
心臓が跳ねた。
扉が開く直前だったけれども、足音や雰囲気などで分かってしまった。
開いたらポラリス嬢が入ってくる。
私はさっきよりも背筋を伸ばして、完璧な令嬢を見せようとした。ポラリス嬢に。
朝はポラリス嬢の後ろに座ったけれども、そんな気力が出てこない。
彼女も私に気を遣ったのか、離れて座っていた。
でも彼女の事を気にしてしまう。
何度も何度も私はポラリス嬢を見ていた。
彼女への不安や対抗心といった複雑な気持ちが、私の視線を誘導していた。
授業が始まったらアメー教師や黒板を見るようにしていたけれど、どうしたってポラリス嬢を見てしまう。
ペンを握り、ノートの端を手にしながら。
だけど、ペンの握る手はいつもよりも強く、ノートを触っている手は震えていた。
「では外国の王家における礼儀ですが……」
「……っ!」
私は震えのあまり、手にしていたノートを破いてしまった。
こんな事は初めて。
しかもその音は小さいはずなのに教室中に響いて、音を聞いた令嬢達が私を見ている。
アメー教師は私に気にせず授業を行っていく。
(やめて……見ないで……)
視線が針のように刺さってしまう。
するとひそひそという噂をする声が聞こえてくる。。
「アデリナ様……無理してない?」
「昨日から様子が変だよね」
唇を噛んで噂話を耐えていく。
今の私には浅い息をするしか出来なかった。
でも絶対に泣きたくはない。
私の誇りを保ちたいから。
「……っ……落ち着きなさい……私……」
私は誰に言うでもなく、自分に言い聞かせて落ち着かせようとしていた。
でも今の私に対しては効果なんて、雀の涙よりも無いと思う。
だけどそうしないと、私は……
目が潤んでくるけれども必死にこらえる。堰き止められないのは分かっているけれど。
その瞬間だった。
ガララッ。
教室の扉が開いた。
突然の出来事で、教室中は静まり返った。
こんな状況なんて、滅多に起こらないから。
扉からひとりの令嬢が入ってくる。
凛とした立ち姿に淡い茶金色の三つ編み。
留学帰りを思わせる洗練されたドレス。
そして、特徴的だったのはその声ーー
「……アデリナ?」
どこまでも優しくて、迷いのない響き。
しばらく聞くことのない、懐かしい声。
私はその姿をもう一度見て、思い出した。
「ブランカ……?」
彼女はブランカ・アクアエ・グランニ、私の唯一無二の親友。
隣国にあるネーヴェラ公国の学院に行っているはず。
それなのに、どうして戻ってきているの?
しかもブランカは私だけを見ていた。
もしかして私のために帰ってきたの……? どうして……?
私の唇は震えて、潤み続けている。
「アデリナ。手が震えているわ、無理しているのね?」
「わ、私は……大丈夫……っ、ですわ……」
これ以上心配をかけさせたくなかったけれど、私の声は途切れ途切れな上に震えていた。
「大丈夫なわけ、ないでしょう?」
信じてもらえるわけなかった。
でもブランカは叱るのではなく、ただ優しく話してくれていた。
「昨日も今日も……あなたの心、ずっと乱れていたでしょう? 誰より分かるわ、あなたは”完璧でいる時ほど壊れやすい”人だから」
「…………っ」
私の睫毛が震える。
止められなくなった涙が机に落ちていく。
ブランカは私の手をそっと手を包んで、微笑んだ。
「ねえ、アデリナ。強がらなくていいの。泣いても、崩れても……あなたの価値は変わらないわ」
その優しい声を聞いた瞬間ーー
私は涙をこらえるのをやめた。
「……っ……ブランカ……!」
大粒の涙が止めどなく流れていく。
声は完全に震えているけれども、気にしなかった。
ブランカは私の涙をそっと指ですくった。
「ここは教室よ。いったん、外へ出ましょう。ね?」
ブランカは微笑んだまま私の手を握った。
「……はい」
私は彼女に連れられて、教室を出ていく。
こんなの初めてだけれども、もう彼女に従いたかった。
一瞬、ブランカが誰かに振り返ったみたいだけれども、私には誰に振り向いたのか分からなかった。
「医務室で休みましょ?」
私はコクリと頷いて、医務室へ。
しばらく学院にはいなかったのに、ブランカは覚えていて迷わずに着いた。
医務室に入ると、私はそのままベッドへ。
「隈も……本当に疲れていたのね……」
「ありがとう、ブランカ……」
ブランカは私をじっくりと見て、呟いた。
朝も昼はあまり食べていない。昨日の夜だって、ロランス嬢のミルクティーを飲んだくらい。
こんなので私の体力が持たない。
「今は寝て、それから寄宿舎に戻りましょうか?」
私は首を上下に振って肯定の意思を示す。
ブランカは笑みを見せて肩をポンポンと優しく叩く。
まるで子供をあやすみたいだけれども、今の私にとっては安心した気持ちになる。
だから徐々に眠くなっていく。
「……ブランカ……お願い……少しだけ……私を、許して……」
ブランカは受け取ったのか、頷いてくれた。
それを見て私は、眠りの世界に入っていった。




