模範組の扇
午後の授業、礼法実技。
息をする音さえ礼儀の一部みたいに、静まり返っていた。
ああ、苦手なもの……
大広間には毅然と並ぶ金の椅子、磨き抜かれた大理石の床。
シャンデリアが反射した光が、生徒達の金糸や宝石を淡く照らしている。
模範組は陽の当たる前列辺りで、ボクも今日からそこに……
ああ、令嬢達の視線が怖い……
(肩身が狭いし、感覚が開いているし……)
余裕があるはずなのに、露骨なくらい模範組はつめつめで席に座っている。ボクとは何人も座れる余裕ができるくらいに。
(満員電車だって、こんな事しないって……)
模範組に強制編入させられたから、腫れ物を触るような扱い。だって、ボクと詰めている令嬢との間に扇子を置いているから。
隣の香水の香りさえ、境界線を越えてこない。
まるで見えない壁があるみたいに。
で、苦手なこの実技だよ……
始まる前から胃が痛くなりそう。
この時間の講師、オーデル・ライプツィヒ教授が静かに言った。
「本日のテーマは、”舞踏会における扇子礼”です」
その声に、教室の空気が一瞬で張り詰めている。
生徒達は息を整え、それぞれが扇子を手にしている。
ライプツィヒ教授の視線は冷たくて、まるで刃物のように鋭い。
ボクも同じく手にしている。最初は何も考えずそのまま扇いでいて、怒られたっけ。
「では、王子へ挨拶をする場面を想定します。アデリナ・レーゲンスブルク嬢、先にお手本を」
模範組に居るアデリナ様が優雅に立ち上がった。
金髪が揺れ、翡翠色の瞳がわずかに光る。
扇子を半ば開いて胸元に添え、微笑と共に一礼ーー完璧。
他の生徒達から小さなため息が漏れた。
「見事です、アデリナ嬢。王宮でも通用いたしますわ」
ライプツィヒ教授が満足そうに頷いていた。
流石アデリナ様、完璧な動きをしている。
そんな中、ゼナイド様が薄く笑っていた。
「さすがですわね、アデリナ様。まるで”聖女”のように」
「まあ、ゼナイド様こそ。昨夜の舞踏でもお見事でしたわ。リュカ殿下と最初に踊ったのは見事でしたわ」
二人の視線が交差する。
どっちも笑っているのに、空気が冷たい。
(や、やめて……怖いからその笑顔のまま口撃するの……!)
「では次にーーポラリス・バルカナバード嬢」
ライプツィヒ教授の声。
全員の視線がボクに集まった。
「えっ、ボ、ボクですか!?」
「はい。あなたも”舞踏会で王子に呼ばれた身”でしょう?」
(いや、あれは偶然……偶然だから! ただ料理を食べていただけなのに……!!)
焦りながらも立ち上がる。
手汗で扇子が滑りそう。
ゼナイド様がいつの間にか隣にやってきていて、そっとボクの耳元で囁く。
「落ち着いて。扇子を顔の前に掲げて、少し開くの」
「こ、こう……?」
「違う、開きすぎ。貴族の女性がそれをしたら”求婚の合図”になりますわよ」
「ひえっ!? ど、どうすれば……!?」
混乱のあまり、思わず扇子をパタンと閉じてしまう。
その音が、まるで王宮の審問室で鳴った断罪の鐘みたいに響いた。
全員の視線がボクに突き刺さる。
”拒絶”の合図。
クラスの空気が凍り付いた。
アデリナ様が眉をぴくりと動かす。
「まあ……ポラリス嬢。殿下に対して、それは少し……大胆ですわね?」
ゼナイド様が扇子を静かに開き、微笑む。
「彼女はまだ練習中ですのよ。ねえ、ポラリス?」
「は、はいっ!! 練習です! ボク、扇子の初心者なんで!!」
ゼナイド様の助け船に乗って、何とか誤魔化そうとする。
教室に微妙な笑いが広がった。
ライプツィヒ教授がため息をついている。
「……バルカナバード嬢、減点三。理由、”恋愛的誤解を招く仕草”」
「れ、恋愛的誤解って何!?」
こんなんで減点されるなんて……
(ちょ、ちょっと待って!? 扇子の角度でそんな意味があるの!? こっちの世界、恋愛表現むずかしすぎない!?)
授業後……
ゼナイド様は肩をすくめた。
「あなた、あの調子ではいつか本当に誤解されますわ」
「ご、ごめんなさい……」
「でもーーふふ、悪くなかったわ。退屈な授業が、少しだけ楽しくなったもの」
その後ろで、アデリナ様が小さく微笑む。
けれどその瞳は、どこか鋭かった。
「偶然? それとも……計算かしら?」
ボクの背筋がぞわりとした。
けれどその瞳は、どこか鋭かった。
笑っているのに、鐘の奥では氷が音を立てて割れていた。
(いやいや、ボク何もしていないから! 本当に!)




