絶対的な絶望
シーン1:伝説との、戦いですらない蹂躙
破滅への行軍は、数日に及んだ。険しい山道を越え、凍てつくような風に身を晒しながら、俺たちはただ、狂気に支配された俺の指し示す方角へと、無言で歩き続けた。そして、ついに、その場所にたどり着いた。山の頂を抉り取ったかのような、巨大な洞窟。伝説の魔物、エンシェントドラゴンの巣。俺は、その入り口を前に、狂気的な高揚感に支配されていた。そうだ、ここで竜を殺し、俺は再び英雄となるのだ。
洞窟の最奥は、広大な伽藍のようだった。そして、その中央に、奴はいた。
眠っていた。まるで、この山そのものが意思を持って横たわっているかのような、圧倒的な巨体。その鱗の一枚一枚が、磨き上げられた黒曜石のように鈍い光を放ち、静かな寝息は、地鳴りのように洞窟全体を震わせている。それは、ただの巨大な生物ではなかった。幾千の時を生き、この世界の始まりと終わりを見届けてきたかのような、神々しさすら感じさせる、絶対的な存在。
その、本物の「伝説」を前に、俺の頭を支配していた狂気的な高揚感は、まるで熱い鉄にかけられた水のように、一瞬で蒸発し、消え失せた。後に残ったのは、あまりにも純粋な、そして根源的な「死」への恐怖だけだった。セリーナも、ガストンも、声もなく立ち尽くし、その顔から完全に色が失われている。俺たちは、冒険者としてではなく、ただの矮小な生き物として、絶対的な存在の前に、完全に戦意を喪失していた。
だが、それでも。
「――う、おおおおおおっ!」
俺は、最後の、そして最も無意味なプライドを振り絞り、砕け散った狂気の代わりに、虚勢の雄叫びを上げた。そして、あの胡散臭い店で手に入れた、粗悪な長剣を握りしめ、奴の巨大な足元へと突進した。会心の一撃。俺が持つ、全ての力を込めた一撃だった。
カキンッ!
あまりにも軽く、そして虚しい音が、広大な洞窟に響き渡った。俺の剣は、エンシェントドラゴンの鱗に、赤子の爪ほどの傷一つつけることもできず、あっさりと弾かれていた。その、あまりにも絶対的な硬度が、俺の剣士としての魂を、完全にへし折った。
「――そんな……嘘よ」
俺の絶望を、背後からのセリーナの震える声が追いかけた。だが、彼女の瞳には、まだ、最後の光が灯っていた。魔術師としての、最後のプライドの光が。
「私の……私の最大魔法なら……!」
彼女は、震える両手を天に掲げ、残された魔力の全てを、その一点に集中させていく。空気が震え、洞窟の天井から、魔法の光に照らされた小石がパラパラと落ちてくる。それは、彼女が放つことのできる、最大にして最強の一撃。Sランク魔術師としての、魂そのものだった。
「インフェルノ・カタストロフ!」
灼熱の炎の奔流が、巨大な竜の体へと叩きつけられる。だが、その王国最強と謳われたはずの極大魔法は、エンシェントドラゴンの鱗に触れた瞬間、まるで線香花火のように、あまりにも儚く、そして虚しく、ただ散っていっただけだった。
「……ぁ」
セリーナの喉から、声にならない声が漏れる。彼女の魔術師としての心は、今、完全に折れた。
ガストンは、ただ、立ち尽くしていた。あの胡散臭い店で手に入れた、粗末な盾を構えることすら、もはやできない。彼の目には、もはや敵の姿は映っていない。ただ、絶対的な「死」そのものが、そこにあるだけだった。
そして、ついに、竜が目を覚ました。
俺たちの必死の攻撃が、ようやくその永い眠りを妨げたのだろう。ゆっくりと、山が動くかのように、その巨大な頭が持ち上げられる。そして、その黄金色の瞳が、初めて俺たちを捉えた。
だが、その目に宿っていたのは、怒りではなかった。敵意ですらなかった。ただ、巣に迷い込んできた、取るに足らない虫けらを見るかのような、完全な無関心。
グオ、と、退屈そうにあくびを一つすると、ドラゴンは、まるで邪魔な虫を払うかのように、戯れに、その長大な尻尾を振るった。
それは、もはや「攻撃」ですらない。ただの、気まぐれな仕草。だが、その一振りは、俺たちの全てを終わらせるには、十分すぎるほどの破壊を伴っていた。
戦いですらない。ただの、一方的な蹂躙だった。
シーン2:砕け散ったプライド
ゴシャッ、という、肉と骨が砕ける鈍い音と共に、俺の体は、木の葉のように軽々と吹き飛ばされた。受け身を取る間もなく、背中から洞窟の壁に叩きつけられ、肺から全ての空気が絞り出される。口の中に鉄の味が広がり、視界が、赤と黒のノイズで点滅した。
朦朧とする意識の中、俺は見た。ドラゴンが、ゆっくりとその巨大な顎を開けていくのを。その喉の奥に、まるで小さな太陽が生まれたかのように、神々しくも、禍々しい光が収束していく。時間すら溶かすと言われる、エンシェントドラゴンのブレス。
――ああ、終わりか。
そう、思った。もはや、恐怖も、屈辱も、後悔もなかった。ただ、絶対的な「死」を前に、俺の心は、完全に無と化していた。隣で同じように倒れているセリーナも、その光を、ただ呆然と見つめているだけだった。
その、全てが終わるはずだった瞬間。
「……ぐ、ぅ……!」
これまでで最も大きなダメージを受け、壁際にうずくまっていたガストンが、呻き声を上げながら、最後の力を振り絞っていた。彼は、震える手で懐を探ると、一つの、小さな魔石を取り出した。それは、かつてアルトが、まだ俺たちが仲間だった頃に、「万が一の、本当の最後の切り札です。使わないに越したことはありませんが」と、そう言って彼に託していた、最後の希望。
転移の魔石だった。
ガストンは、最後の力を振り絞り、その魔石を起動させた。眩い光が、俺たち三人の体を包み込む。
それと、ほぼ同時だった。
エンシェントドラゴンの顎から、世界そのものを白く塗りつぶすかのような、絶対的な破壊の光――ブレスが放たれた。直撃は、免れた。だが、転移の光が俺たちの体を異空間へと転送する、その刹那、ブレスの余波が、熱波となって俺たちを飲み込んだ。
ジュウウウッ、という、肉の焼ける音と、金属の溶ける音が、転移の光の中で混じり合う。俺が最後に見たのは、安物だが、それでも剣士の魂の残り香だったはずの長剣が、まるで飴のように溶け落ちていく光景だった。セリーナの杖も、ガストンの鎧も、俺たちが冒険者であった最後の証の全てが、その一瞬で、完全に消滅した。
命からがら、どこかの森へと転移した俺たちの体は、火傷と打撲でボロボロだった。だが、そんな肉体の痛みなど、どうでもよかった。
俺たちの心は、あの洞窟で、完全に折れていた。
俺たちは、冒険者として、「死んだ」のだ。