最初の審判
シーン1:『月の雫』採取依頼での決定的な失敗
セリーナの曖昧な記憶だけを頼りに、俺たちは王都から数日をかけて、目的の湿地帯へと向かっていた。高名な錬金術師からの指名依頼という高揚感は、旅の疲れを忘れさせるには十分だった。俺たちの実力が、ついに正当に評価される時が来たのだ。その思い込みが、俺たちの足を破滅へと向かわせていることに、まだ誰も気づいてはいなかった。
数日の旅の末、セリーナが「ここよ」と指し示した場所は、月明かりだけが支配する、静寂に包まれた湿地帯だった。
そこに、それは咲いていた。
湿った黒い土から、まるで亡霊のように銀色の茎が伸び、その先端に、夜露を吸って輝く花弁をつけていた。一つ一つの花が、月の光そのものを閉じ込めたかのように、淡く、しかし確かに、青白い光を放っている。その幻想的な光景は、この世のものとは思えないほどの妖しい美しさに満ちていた。
その幻想的な光景を前に、セリーナはうっとりとため息をついた。彼女の瞳には、目の前に広がる青白い光が映り込み、キラキラと輝いている。その横顔は、もはや薬草を探しに来た冒険者のものではなく、伝説の宝を見つけた王女のように、恍惚とした喜びに満ちていた。
「間違いないわ……。『月の雫』よ」
彼女の唇から、確信に満ちた声が、震えながらこぼれ落ちる。その声には、うろ覚えだった記憶からくる不安など、もはや微塵も感じられなかった。目の前の圧倒的な美しさが、彼女の曖昧な知識を、絶対的な真実へと塗り替えてしまったのだ。
「なんて美しいのかしら……」
その恍惚としたセリーナの横顔と、目の前に広がる幻想的な花の群れを見て、俺もまた、何の疑いもなく頷いていた。薬草の知識など、俺にはない。だが、これほど美しい花だ。高名な錬金術師が高額な報酬を約束するのも頷ける。俺の頭の中は、依頼の成功と、それによって得られる名声と金のことだけでいっぱいだった。
ガストンもまた、セリーナの言葉に何の疑問も挟まず、黙々と採取用の革袋を準備し始めている。彼にとって、それはただの「作業」だ。リーダーがやると決め、魔術師がこれだと指し示した。ならば、自分はそれを実行するだけ。その単純な思考が、破滅への扉を開けていることなど、彼は知る由もなかった。
「よし、採取するぞ! 一本残らず、根こそぎだ!」
俺の号令で、三人は一斉に作業を開始した。俺たちは、それが専門家でなければ見分けがつかないほどよく似た、しかしその雫に触れたものを内側から蝕む、猛毒の薬草『偽りの月』であることなど知る由もなく、その輝かしい破滅の光を、一心不乱に、そして大量に摘み取っていくのだった。
シーン2:責任のなすりつけ合い
依頼の成功を確信した俺たちは、意気揚々と王宮筆頭錬金術師、グランデル様の工房の扉を叩いた。そこは、薬草の不思議な香りと、フラスコで何かが煮詰まる微かな音が満ちた、荘厳な空間だった。俺は、Sランクパーティーのリーダーとして、これ以上ないほど傲慢な態度で、工房の主を待っていた。
やがて現れたグランデル様を前に、セリーナが「お持ちいたしましたわ」と、これ以上ないほど得意げな笑みを浮かべて、採取した薬草が詰まった袋を差し出した。自分の知識と美貌が、この伝説級の錬金術師に認められる。その瞬間を、彼女は心から待ち望んでいたのだ。
グランデル様は、無言で袋を受け取ると、中を覗き込み、そして、ぴたりと動きを止めた。次の瞬間、彼の顔から全ての表情が消え失せ、代わりに絶対零度の冷気が、工房全体を支配した。
「――貴様ら」
地を這うような低い声だった。
「これは、猛毒の『偽りの月』だ。Sランクともあろう者たちが、この違いも分からんのか!」
その言葉は、怒声というよりも、汚物を見るかのような、冷え切った侮蔑に満ちていた。工房の隅で作業をしていた弟子たちが、一斉にこちらを向き、クスクスと嘲笑を漏らすのが見える。セリーナの顔から、血の気が引いていく。
グランデル様は、忌々しげに毒草の袋を床に叩きつけると、冷ややかに言い放った。
「依頼料だと? 笑わせるな。貴様らには、私の貴重な時間を無駄にし、毒物を持ち込んだ罪に対する、多額の賠償金を請求させてもらう。詳細はギルドに通達しておく故、失せろ」
賠償金。ギルド中の笑いもの。これ以上ない屈辱。俺たちのプライドは、この荘厳な工房で、音を立てて砕け散った。
宿屋の部屋に戻るなり、俺は怒りのままに扉を蹴り閉めた。工房で無理やり押さえつけていた屈辱と怒りが、腹の底でマグマのように煮え繰り返っている。そして、その矛先は、ただ一人に向けられていた。
「――全て、お前のせいだ、セリーナッ!」
俺の怒声に、セリーナの肩がびくりと震える。だが、彼女の顔に浮かんでいたのは、怯えではなかった。同じように、屈辱に染め上げられた、激しい怒りの色だった。
「私のせいですって!? ふざけないで! あなたが、Sランクリーダーであるあなたが、薬草の知識の一つも持ち合わせていないのが悪いのよ!」
「なんだと!?」
「その通りよ! 私の記憶が曖昧だったのは認めるわ! でも、あなたがリーダーなら、なぜそこで『本当に大丈夫か?』と、慎重に確認しなかったの!? いつも、いつも、アルトがやっていたように!」
アルトの名前が出た瞬間、俺の理性の箍が外れた。
「黙れ! あの役立たずの名前を出すな! 大体、お前が自信満々に『間違いない』と言ったんだろうが!」
「あなたがそう言わせたようなものでしょう! あの場で私が『自信がない』なんて言えたとでも!?」
醜い責任のなすりつけ合いだった。互いの傷を抉り合い、自分の正当性だけを叫ぶ。もはや、そこに仲間という絆はなかった。
部屋の隅で、ガストンが石像のように固まっていた。彼は、巨大な体を縮こませ、ただ黙って床を見つめている。その沈黙が、俺たちの怒りにさらに油を注いだ。
「おい、ガストン! お前も何か言ったらどうだ!」
「そうよ、ガストン! あなたも、バルトロがおかしいと思うでしょう!?」
だが、ガストンは何も言わない。ただ、俯いているだけ。その姿は、俺たちの目には、判断を放棄した臆病者のそれにしか映らなかった。
やがて、罵り合う言葉も尽き、部屋には荒い息遣いだけが残った。俺とセリーナは、互いを生涯の仇敵のように睨みつけ、ガストンは、ただそこに存在しないかのように気配を消していた。
『竜の牙』の絆が、完全に断ち切れた瞬間だった。