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見えない土台

シーン1:ワイバーン討伐依頼


装備の手入れの一件で負った心の傷は、まだ生々しく疼いていた。これまで考えたこともなかった「雑務」に手間取り、互いに苛立ちをぶつけ合った、あの気まずい朝。あの記憶を払拭するには、Sランクパーティーにふさわしい、華々しい戦果を上げるしかなかった。


「――これだ。『渓谷に巣食うワイバーンの討伐』。不足なし、だな」


冒険者ギルドの依頼掲示板に貼り出された一枚の羊皮紙を、俺、バルトロは満足げに引き剥わす。ゴブリン退治などという屈辱的な仕事ではない。空を舞う飛竜ワイバーン。これこそ、俺たち『竜の牙』の武勇を、改めて世に知らしめるに相応しい獲物だった。


「まあ、素敵ね。汚い洞窟と違って、空での戦いは絵になるもの」


セリーナが、気まずい記憶を上書きするように、わざとらしく明るい声を出す。ガストンも、黙ってこくりと頷いた。そうだ、これでいい。前回の失態は、ただの準備不足。俺たちの実力が揺らいだわけでは断じてない。


意気揚々と依頼を受注し、ギルドを出て森へと向かう。その道中で、俺たちは初めて、アルトが担っていたもう一つの「見えない土台」の存在に気づくことになる。


森の入り口で、さてワイバーンの巣を探すかと周囲を見渡した時、セリーナがふと首を傾げた。


「そういえば、バルトロ。いつもアルトが持っていた、あの変な匂いのする粉とか、キラキラ光る石みたいなの、あれはないの?」


セリーナの言葉に、俺は一瞬、言葉に詰まった。そうだ。アルトはいつも、ワイバーンの痕跡――特殊な糞や、太陽光を反射する鱗の欠片――を見つけ出すための、専用の道具一式を完璧に準備していた。だが、今、俺たちの手元にあるのは、それぞれの武器だけだ。


しまった、と思ったのは一瞬。俺は、Sランクリーダーとしての虚勢で、その動揺を塗り潰した。


「フン、セリーナ。Sランクの経験と勘をなめるな。道具に頼るのは、二流のやることだ。俺の目があれば、飛竜の寝床などすぐに見つかる」


その根拠のない自信に満ちた一言を合図に、俺たちは広大な森へと足を踏み入れた。


だが、現実は非情だった。俺の「Sランクの経験と勘」は、何の役にも立たなかった。ワイバーンのものらしき巨大な足跡を見つけては、それが別の獣のものだと分かり、光る鱗の欠片を見つけては、それがただの雲母の欠片だと気づかされる。そんな無駄足の繰り返しだった。


太陽が中天に差し掛かる頃には、俺の額には汗が滲み、最初にあった自信は、焦りへと変わり始めていた。セリーナは、泥で汚れたローブの裾を気にしながら、あからさまに不満そうなため息を繰り返している。ガストンは黙って俺の後ろを歩いているが、その足取りは、出発の時と比べて明らかに重かった。


時間だけが、成果もなく過ぎていく。誰もが口には出さないが、三人の間には、重苦しい無言の焦りが、じっとりとまとわりついていた。


太陽が西の稜線に傾き始め、森が長く不気味な影を伸ばし始めると、俺たちの疲労はピークに達していた。もはや、誰も口を開かない。聞こえるのは、荒い息遣いと、落ち葉を踏む重い足音だけだ。


「……ちっ、おかしいな。この森の何かが、俺の勘を狂わせているようだ」


俺は、吐き捨てるように言った。自分の実力不足を認めることなど、プライドが許さない。原因は俺じゃない。この森が、この世界が、俺たちSランクパーティーに牙を剥いているのだ。そう思うことでしか、俺は平静を保てなかった。


その、瞬間だった。


ガサッ、という獣の気配と共に、俺たちの目の前の茂みが大きく揺れた。身構える俺たちの前に姿を現したのは、ワイバーンではなかった。丸太のように太い四肢、湾曲した巨大な牙、そして怒りに爛々と輝く赤い目。この森の主とでもいうべき、巨大な猪――フォレストボアだった。


「なっ……!?」


俺は舌打ちした。アルトがいれば、こんな事態にはならなかった。あの男は、戦闘能力こそ皆無だったが、その気配察知能力と危険回避の嗅覚だけは異常だった。彼がいれば、この獣の縄張りを、とっくの昔に避けて通っていたはずだ。


だが、今、俺たちの目の前にあるのは、回避不可能な、あまりにも不必要な戦闘だった。


「――来るぞ!」


俺の叫びと同時に、フォレストボアが地響きを立てて突進してくる。ガストンが即座に盾を構え、その衝撃を受け止めた。凄まじい金属音と、ガストンの苦悶の呻きが森に響く。


「セリーナ、援護を!」


「分かってるわよ! アイスランス!」


セリーナが放った氷の槍が、猪の分厚い毛皮に突き刺さるが、致命傷には程遠い。猪は、痛みでさらに猛り狂い、牙を振り回して暴れ始めた。それは、Sランクパーティーが挑むには、あまりにも泥臭く、消耗するだけの戦いだった。


苦戦の末、ようやく猪を仕留めた頃には、俺たちの体力も、そしてセリーナの魔力も、ワイバーン戦のために温存しておくべき貴重なリソースを、無惨に削り取られていた。ガストンの盾には、猪の牙によって刻まれた、生々しい傷がまた一つ増えている。


消耗しきった俺たちの目の前に、不意に、木々の切れ間から巨大な岩山が姿を現した。山の中腹には、明らかに人工的な、巨大な洞窟の入り口が見える。ワイバーンの巣だ。


だが、そこに達成感はなかった。ようやくたどり着いたという安堵もない。ただ、これから始まる本番への漠然とした不安と、ぬぐいきれない疲労だけが、三人の間に重く、重くのしかかっていた。


シーン2:後味の悪い勝利


疲労と焦燥感を引きずったまま、俺たちはワイバーンの巣である岩山の洞窟へと、ついに足を踏み入れた。ひんやりとした湿った空気が、火照った肌を撫でる。洞窟の奥からは、巨大な獣の寝息のような、不気味な風の音が聞こえていた。


もう、迷っている時間はない。俺は、森での捜索で失った威信を、この戦いで取り戻さなければならなかった。Sランクリーダーとしての、圧倒的な実力を見せつけることで。


「――行くぞ!」


アルトがいれば、ここで綿密な作戦を立て、それぞれの役割を確認し、完璧な奇襲を仕掛けていただろう。だが、俺の頭にあるのは、ただ一つ。この苛立ちを、目の前の敵に叩きつけることだけだった。俺は、仲間への合図もそこそこに、雄叫びを上げて洞窟の奥へと突進した。それは、作戦などという高尚なものですらない、ただの無謀な突撃だった。


「なっ……おい、バルトロ!」


背後でセリーナの焦った声が聞こえたが、もう止まれない。俺の目に、薄闇の中でとぐろを巻く、巨大なワイバーンの影が映った。好機!


だが、その無計画な突撃が、俺たちの連携を、開始わずか数秒で崩壊させた。


俺の動きに合わせ、ガストンが慌てて前に出る。だが、彼の立つべき最適な防御位置は、俺が塞いでしまっていた。彼はやむを得ず、一歩ずれた不安定な体勢で、巨大な盾を構える。


その、直後だった。


俺の雄叫びで目を覚ましたワイバーンが、咆哮と共にその長大な尻尾を薙ぎ払った。ガストンは、その初撃を不完全な体勢で受け止めざるを得なかった。


ゴッ、という鈍い衝撃音と共に、ガストンの巨体が大きくよろめく。そして、彼の盾に刻まれた猪の牙の傷が、その衝撃でさらに無惨に広がっていくのが見えた。


「私の魔法が……!」


セリーナの悲鳴のような声が、洞窟に響く。俺の無謀な突撃のせいで、彼女は開幕に叩き込むはずだった最大火力の魔法を撃つタイミングを、完全に失っていた。最高の見せ場を、リーダーであるはずの俺に潰されたのだ。彼女の目に、俺への明確な怒りの炎が宿る。


初動の失敗。それは、Sランクパーティー『竜の牙』の戦いが、ただの泥臭い乱戦へと堕ちていく、破滅の合図だった。


そこからの戦いは、もはや連携などという言葉とは無縁だった。俺は、ただがむしゃらに剣を振るい、ワイバーンの硬い鱗に何度も弾かれながら、浅い傷を刻んでいく。セリーナは、俺とガストンを巻き込まないように、タイミングのずれた単発の魔法を乱発し、貴重な魔力をみるみるうちに消耗させていく。


「ぐっ……!」


ガストンは、必死に俺たち二人を守ろうと、盾を構え続けていた。だが、アルトという司令塔を失った今、彼の守りは後手後手に回らざるを得ない。ワイバーンのブレスを、爪を、牙を、その身一つで受け止め続け、彼の鎧は至る所がひしゃげ、その表情には明らかな疲労と苦痛が浮かんでいた。


じりじりと、だが確実に、俺たちは消耗していく。Sランクパーティーが、たかが一匹のワイバーンに追い詰められている。その屈辱的な事実が、俺の理性の箍を外した。


「――ああ、もう、終わりだ!」


俺は、剣士としてのプライドも、リーダーとしての体面も、全てかなぐり捨てた。ワイバーンがガストンに気を取られた一瞬の隙を突き、その懐に転がり込むように飛び込んだのだ。それは、剣技などと呼べるものではない。ただの、泥臭い捨て身の一撃。


狙いすました剣先が、ワイバーンの喉元の、鱗の薄い部分に、深く突き刺さる。断末魔の咆哮を上げ、巨体が崩れ落ちるのと、俺の体が地面に叩きつけられるのは、ほぼ同時だった。


洞窟に、ようやく静寂が戻る。残ったのは、三人の荒い息遣いと、ワイバーンの死体が放つ生臭い血の匂いだけだった。俺も、セリーナも、ガストンも、全身が切り傷と打撲で痛み、息も絶え絶えだった。


勝った。だが、誰も勝利の雄叫びを上げる者はいない。気まずい沈黙を破ったのは、俺だった。


「……ちっ。今日のワイバーンは、やけにタフだったな」


俺は、自分たちの連携不足から目をそらし、原因を敵の強さに求めることで、リーダーとしてのちっぽけなプライドを保とうとした。セリーナとガストンは、その言葉に無言で頷く。彼らもまた、本当の原因には気づいているが、それを口にして仲間割れが起きることを恐れ、俺の責任転嫁に同調したのだ。


後味の悪い勝利の後、俺たちの間には、もはや信頼ではなく、互いへの不満と、ぬぐいきれない疑心暗鬼だけが、重く漂っていた。

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