足枷なき祝宴
シーン1:解放を告げる鐘
冒険者ギルドの重厚な樫の扉を開けた瞬間、喧騒が満ちたホールは、まるで水を打ったように静まり返った。酒場で騒いでいた屈強な男たちも、依頼書を眺めていた魔術師たちも、誰もが一人残らず、俺たち――Sランクパーティー『竜の牙』の姿に視線を釘付けにする。
羨望、嫉妬、そして手の届かない存在への憧憬。それらが入り混じった無数の視線が、まるで温かい外套のように俺の体を包み込む。俺は、その快感に口の端を吊り上げ、パーティーのリーダーとして、誰よりも堂々と大理石の床を踏しめた。
「よう、マスター。依頼完了の報告に来たぜ」
俺、バルトロは、カウンターの奥で帳簿をつけていた老獪なギルドマスターに、顎をしゃくって声をかける。その態度は、依頼をこなした冒険者というよりは、王が臣下に声をかけるような、絶対的な強者のそれだった。
ギルドマスターは、羽ペンを置くと、年季の入った顔に営業用の笑みを浮かべた。
「おお、『竜の牙』の諸君。ご苦労だった。して、今回の依頼も問題なく?」
「当然だ。俺たちにかかれば、オーガの群れなど赤子も同然よ」
俺がそう言って笑うと、隣に立つ紅一点の魔術師、セリーナが優雅に髪をかきあげて、会話に花を添える。
「ええ。むしろ、少し退屈だったくらいですわ。ですが、これからはもっと伸び伸びと戦えそうですの。――長年、私たちの足を引っ張っていた『足枷』が、ようやく外れましたから」
セリーナの言葉に、俺は満足げに頷いた。そうだ。俺たちは、つい先ほど、このパーティーの唯一にして最大の汚点であった支援員、アルトを追放してきたのだ。
「フン、全くだ。あいつの慎重さは、ただの臆病だからな。俺たちの本当の力を、あいつは最後まで理解できなかったのさ」
俺の言葉に、背後に控えていた岩のような大男、重戦士のガストンが、地響きのような声で短く応じた。
「……リーダーの判断は、正しい」
その一言で十分だった。ギルドマスターは、俺たちの会話を聞きながら、その表情を一切変えずに淡々と手続きを進めている。この老狐が、俺たちの傲慢さに内心で呆れていることなどお見通しだ。だが、Sランクパーティーという実績の前では、彼も文句の一つも言えはしない。それが、絶対的な「力」というものだ。
全ての書類仕事が終わり、金貨が詰まった袋がカウンターに置かれる。俺はそれを乱暴に掴むと、ギルド中に響き渡る声で、高らかに宣言した。
「さあ、野郎ども! 聞いたか! これで俺たちは、本当の意味で自由になった! 今夜は、俺たちの新しい門出を祝う祝宴だ! 王都一の宿で、夜が明けるまで飲み明かすぞ!」
その言葉を合図に、静まり返っていたギルドは、爆発したような歓声と口笛に包まれた。俺は、その祝福の音を浴びながら、仲間たちと共に、栄光への新たな一歩を踏み出した。この先に待つのが、底なしの泥沼だとも知らずに。
王都一と名高い高級宿屋『白亜の鷲亭』の特別室は、俺たちの傲慢さを満たすには十分すぎるほど豪華絢爛だった。磨き上げられた黒檀のテーブルには、見たこともないような豪勢な料理が所狭しと並び、年代物の葡萄酒が、惜しげもなく抜かれていく。
「ははは、最高だ! これこそSランクパーティーに相応しい!」
俺は、黄金色のエールを呷り、高笑いを上げた。これ見よがしに並べられた最高級の酒。だが、その芳醇な香りを深く吸い込んだ瞬間、心の奥底で何かが小さく首を傾げた。
――なぜだろうな。アルトが選んでくる、名もない田舎町の地酒の方が、不思議と体に染み渡るような美味さがあった気がする。
「……いや、気のせいか」
俺は、頭に浮かんだ些細な疑問を、エールと共にごくりと飲み干した。感傷に浸っている場合じゃない。今日は、俺たちの解放記念日なのだから。
「本当に素晴らしいわ。このローストビーフ、見た目も芸術的ね」
セリーナが、銀のナイフを優雅に動かしながら、うっとりと呟く。だが、その完璧な笑顔とは裏腹に、彼女の眉が一瞬だけ、僅かにひそめられたのを俺は見逃さなかった。きっと、彼女も気づいているのだ。この肉料理の味付けが、見かけ倒しで大雑把なことに。アルトがいた頃は、どんな些細な依頼の後でも、必ず俺たちの好みを完璧に把握した、繊細で心づくしの料理が用意されていた。
ガストンは、いつも通り黙々と巨大な骨付き肉にかぶりついている。だが、その咀嚼の回数が、いつもより心なしか多い。彼もまた、この肉がいつもより硬いことに気づいているのだろう。だが、それを表現する言葉を、この男は持ち合わせていなかった。
それでも、俺たちは誰一人として、その違和感を口にはしなかった。
「なあ、これからはどんなデカい依頼も受け放題だな!」
「ええ、そうよ! もう『経費がどうの』なんて、みみっちいことを聞かなくて済むんだわ!」
足枷がなくなった解放感が、俺たちを饒舌にさせた。これからの輝かしい未来。手に入れるであろう莫大な富と名声。中身のない言葉を重ねることで、俺たちは目の前にある小さな違和感の正体から、必死に目をそらしていた。
やがて、祝宴が終わり、テーブルの上に無数の皿と空き瓶が転がる頃。心地よい酔いが回る中、セリーナがふと思い出したように呟いた。
「そういえば、今日の戦闘で汚れた装備の手入れは、どうするのかしら?」
その一言で、部屋の空気が一瞬だけ、現実に引き戻される。剣についたオークの脂、鎧の傷、汚れたローブ。アルトがいれば、今頃は完璧に手入れが終わっているはずの、面倒な「現実」。
その空気を断ち切ったのは、俺の一言だった。
「そんなもの、明日でいい。今夜は、俺たちの勝利と解放に酔いしれようじゃないか」
その言葉は、まるで魔法のようだった。セリーナも、ガストンも、待ってましたとばかりに頷き、再び杯を手に取る。そうだ。俺たちは、面倒な雑務から解放されたのだ。問題を先延ばしにすることに、何の罪悪感も感じる必要はなかった。
この時の俺たちは、まだ知らなかった。
自分たちが先延ばしにした「面倒」が、やがて利子をつけて、破滅的な請求書として戻ってくるということを。
シーン2:最初の亀裂
二日酔いの鈍い頭痛で目を覚ました朝は、最悪の気分だった。昨夜の栄光と解放感は、朝日と共に霧散し、代わりに現実が、無遠慮に部屋の扉を叩いていた。部屋には、昨夜の祝宴の残骸が、まるで俺たちの愚かさを嘲笑うかのように散らかり放題になっている。
「……なんだ、これは」
俺は、己の愛剣を手に取り、眉をひそめた。見事な刃文を誇るはずの刀身には、昨日の戦闘でついたであろう、無数の細かな傷と、オークの脂だろうか、薄汚れた膜がこびりついている。いつもなら、この時間には、アルトがあの気味の悪いほどの集中力で完璧に手入れを済ませ、鏡のように磨き上げられた剣を、俺の前に差し出していた。
「ちっ……面倒な」
自分で砥石を取り出し、見様見真似で刃を擦ってみるが、ぎこちない手つきでは、逆に刃こぼれを増やしてしまいそうだ。苛立ちが、腹の底からこみ上げてくる。
「ねえ、誰か私のポーションを見なかった? 回復薬と、魔力回復薬と、あと解毒薬も……もう、ぐちゃぐちゃじゃない!」
部屋の隅で、セリーナが甲高い声を上げた。彼女の足元には、パーティー共有のアイテムポーチが広げられ、色も形も様々な小瓶が、無造作に転がっている。どれが何の薬か、一目で判別することなど不可能に近い。
「アルトの奴、なんで分かりやすく整理しておかないのよ! 本当に気の利かない男だったわね!」
その言葉は、明らかに八つ当たりだった。ポーチの整理は、アルトがいつも戦闘後に、寸暇を惜しんでやっていた作業だ。昨日は、その作業を誰もが見て見ぬふりをした。その結果が、この惨状だ。
部屋のもう一方の隅では、ガストンが、山のような巨体を縮こませ、自身の巨大な盾と格闘していた。昨日の戦闘で受けたオークのこん棒の一撃で、盾の縁を留めていた革ベルトの鋲が一つ、緩んでしまっている。彼は、その小さな鋲を、ハンマーで叩き直そうとしているようだったが、その不器用な手つきではうまくいかない。カチン、カチン、と虚しい金属音が、俺の苛立ちを逆撫でした。
「ちっ……」
俺は、自分の剣に再び向き直る。先ほどうまくいかなかったのは、油が足りないからだ。そうに違いない。棚に並んだ小瓶の中から、それらしいものを選び出し、布にたっぷりと染み込ませて刀身を拭き上げた。これで、あの滑らかな切れ味が戻るはずだ。
だが、布を離した瞬間、俺は息を呑んだ。刀身は輝きを取り戻すどころか、逆に粘ついた油膜で鈍く曇り、まるで安物の鉄屑のような有様だった。それは、武具用の手入れ油などではなく、ランプに使うための質の悪い燃料用の油だったのだ。アルトがいれば、一瞬で見分けられたであろう、初歩的なミス。
「――面倒だ!」
腹の底からこみ上げた苛立ちを、俺は怒声に変えて吐き出した。その矛先は、もちろん自分自身ではなく、いまだに金属音を響かせている不器用な仲間へと向かう。
「おい、ガストン! いつまでそんな音を立てている! さっさと直せんのか!」
「……すまん」
ガストンは、低い声でそれだけ言うと、さらに強くハンマーを握りしめる。だが、焦れば焦るほど、その手元は狂っていく。
たかが装備の手入れ。
たかがポーションの管理。
そんな「雑務」が、何一つまともに片付かない。その苛立ちが、初めて三人の間に、明確な亀裂として広がっていく。
栄光に満ちた『竜の牙』という名の器が、内側から崩れ始める、その最初の音だった。