(十六) 罪への逃亡
生きた人間の感覚を思い出すと、強引な力が足を引っ張っていることに気が付いた。
もう受け入れていた。
ルカとしての人生に、未練も後悔もなかったはず。
だけど、音を介してリリィと一つになった。
そうして鼓動が自分の内から聞こえた瞬間、悔しさがこみ上げた。
もっと生きたい。
ごちゃ混ぜになった感情に、なぜか怒りが沸き起こり、強くそう思った。
あんな醜い世界、二度と戻りたくない。
それでもチャンスをもらえるのなら、もう一度。
死んだ後の僕は、気分の浮き沈みを凝縮したような、密度の濃い感情と向き合っている。
正直嫌になる。
逃げ場はないし、逃げられない理由もある。
リリィだ。
僕を引き留めるのも、逃げ出したいと思わせるのも彼女の存在だ。
こんなことを考えるのは、またリリィに良くない影響を与えるのだろうが、思うことを止められない。
そして追い打ちをかけるように、新たな問題が起こり始めた。
僕らの周りに、徘徊する死者の魂が集まるようになったのだ。
「お前ら、それ以上リリィに近づくな。」
威嚇して睨むと、彼らはピタッと動きを止めるのだが、言葉が通じているとは思えない。
「お前のせいだ…お前のせいで…お前が…」
またこいつか…
ボサボサの頭で、足を引きずるこの男。
年齢不詳で汚らしく、いかにも浮浪者という様子だ。
同じ言葉を繰り返し吐きながら、ここ数日、僕らの後をついて来る。
何度追い払っても日が傾く頃には戻ってくるので、どうしたらいいのかもわからない。
他にも、よどんだ瞳で、無機質な表情の若い女をよく目にする。
彼らはなんと言うか“濁った水”のような気配を漂わせている。
これまで僕らに見向きもしなかった癖に
⋯イライラする。
「リリィ、また眠れなかったのか?」
コクッとうなずくリリィの顔は、明らかに覇気がない。
リリィの目に彼らの姿が映っていないのは幸いだ。
だが早く手を打たないと。
少し前にケイシに助けを求めたが、「君次第だ」と一言、さらりと言われただけだった。
以前、僕が警戒していると生命は寄ってこない、とケイシは言っていた。
今回も同じことなのだろう。
頭ではどうすればいいかはわかっている。
それなのに、僕はなぜか彼らに強く出れないでいた。
彼らは自分と同類、そう思ってしまうのだ。
肉体を持っていたなら、強引にでも遠ざけることは可能だったろう。
だが意識である僕らは、本心から納得していない事柄は叶わない。
むき出しの意識は誤魔化すことが出来ないのだ。
「天にまします我らの父よ…」
夜の祈りは、ただただ口から垂れ流された。
リリィと一つになるのが怖い。
あの心地よさを知ったせいで、望まずにはいられなくなる。
“生きる”それがこれほど甘美なものだとは、気付かなかった。
僕はまた花が摘みたい。
そして、その行為と引き換えに得られる笑顔を…
瞼を開き、隣で祈るリリィの横顔を見る。
触れようと腕を伸ばしかけるが、そっと手を引っ込めた。
ダラッと力の抜けた無気力な肉がユラユラ揺れている。
いや、肉に見えているものだ。
この腕はなににも影響を与えられない。
リリィは今、なにに祈っているのだろう。
ブロンドの髪に、わずかな灯りが反射して光る。
その切ない光景に、静かに心を奪われた。
あれ?
髪の輝きをたどり、降りてきた視界の中に、黒ずみが見える。
服の下に隠れ見える肩のあたり、痣、だろうか。
こんなのいつ…
嫌な予感がする。
「リリィ、右肩を見せて。」
「なに」
祈りを中断され戸惑うリリィは、とっさに僕から身を離した。
だが構わず詰め寄る。
「だから肩だよ、服をめくってくれ。」
「なんで」
「いいから早く。」
リリィは困惑しながらも、襟元をずらし右肩を見せた。
「これは」
息をのむ僕の様子に、リリィは不安げな表情を見せる。
右肩にはやはり、黒ずむ跡があった。
しかも気味が悪い。
その痣は、くっきりと子どもの掌の形をしているのだ。
「なんなの?」
リリィは何が起こっているのかを確認しようと首を傾ける。
そして悲鳴を上げた。
「いやあ。」
「どうした? なにがあった?」
異常事態を知らせる声にジルたちがとんでくる。
リリィの肩を覗き込み、問い詰める彼らを視界に収めながら、僕は後ずさりするように部屋の隅の暗がりに入った。
両脇には、ここ数日、僕らに付きまとう徘徊する者らの気配。
彼らの仕業だ。
痣から不穏な煙のようなものが立ち起こるのを見て、直感的にそう思った。
それに僕の知る限りリリィの肩に触れた人間はここ数日いない。
リリィも思い当たらないとジルの問いに答えている。
それなら徘徊する者らの仕業、そう考えるのが自然だろう。
だがどうやって?
いつリリィに近づいたっていうんだ。
そんな奴が寄れば僕が気付く。
まさか僕の目にも映らない者がいたってことなのか。
しかし僕に見えなかったとしてもケイシなら気が付くだろう。
第一、死者は物には触れられない。
なにが起こっているんだ…
いや、どうにしたってこれは僕が警戒を怠ったせいだ。
煙がユラユラとあざ笑うように踊っている。
首筋が震えた。
それでも目をそらせては駄目だ。
この痛みを焼き付ける。
そうしなければいけないと言っている。
この後も続くのだろうか。
奴らはどこまで影響を及ぼせる?
見えない者からどうやって守る?
未知への恐怖を久々に思い出した。
「君次第だよ。君とリリィが、これを受け入れることを許可した。全部君次第だ。」
「僕は今、わかりました。恐怖を実感して心を決めました。相手が何であれ、リリィを守りたい。」
「本心か?」
自分の震える手を握りしめる。
「はい。」
「ならなぜ、彼らは今、君の横にいる?」
ケイシの声がいつもより低く感じた。
「それは…」
誤魔化せない。
僕の本心は納得していない。
「いや違う、そんなはずない。僕はリリィを守りたい。本当です。」
必死に心の内を叫び主張する。
「そうだね、信じるよ。他には?」
しかしケイシの穏やかな口調は容赦しない。
「他…?」
僕を追い詰めるその問いに、声が震え、視界が濁る。
「ああ、他にどんな思いを持っている? 君の思いが彼らを引き寄せる。君が彼らに近い存在になったから、彼らの視界に君が映った。今の君は、徘徊する者らの状態そのものだ。後悔や執着を持つ死者だよ。」
悔しい。
だが認めろ。
「確かに、生きていることが羨ましいと、生に執着している自覚はあります。」
「なぜ?」
「僕はなににも影響を与えられない。これは飾りの腕だ。」
「影響は与えられる。感情も言葉も届く。」
「そうではなくて、僕は触れられない。」
「触れてどうする?」
「リリィが花束をもらって喜んでいたんですよ。また笑ってほしかった。僕がそれをしてやりたかった。」
駄目だ⋯
自分勝手で、恥ずかしくて、みっともない。
「それに、触れることが出来れば、いざという時に守ることもできるはず。」
そうじゃない。
「本当に? それが触れたいと思う理由か?」
なんでこうまでして僕は自分を偽ろうとする。
「ハァ」
息を吐いて、両隣にたたずむ彼らを見る。
「君が今認めたその思いは、濁った水のようなものだろうか? リリィの笑顔は触れられないと叶えられないか?」
いえ、僕は
ウィルが⋯
「花を渡せるウィルが、リリィに当たり前に触れられると思っているだろうウィルが、妬ましい。」
「そうか。それで?」
だから
「だからリリィに彼らを近づけていいと許すのか?」
「違います。」
「だがあの痣を見て思いなおせていたら、彼らは今ここにいない。」
わかってるよ。
だけど⋯
それでも、リリィを守りたいのは本心だ。
「それは信じるよ。だが君は、他にも羨ましいと思っているだろ。それを認められないでいる。そう思う自分が怖いから。」
「生きているウィルは仕方ない。羨むための上等な理由がある。そう思っているから君は自覚し、認められた。その思いが罪にならないと君が判断したからだ。」
そうだ。
ウィルは僕とは違うから、恨んでも仕方ないことだと、僕は自分を許している。
「君が暴かれるのを恐れているのは、君が罪だと位置付けている思い。仕方ないことだと許してやれないから、認められず、自覚をしない。それは恐怖だろう。だがいいんだ。君は自分を罰しなくていい。ただ見つめればいい。君が罪であると判断したから、罪であるだけだ。大丈夫、君は恐怖を手放せる。」
僕は手放さないと。
自分を見つめるために。
罪を自分に課せなければいい。
それだけだ。
「彼らが今、ここにいる理由は?」
相手が誰であれ守りたいのだから。
いいんだ。
僕は、
「羨ましい。同じ死者なのにあんな痣を残せる奴が。リリィの体に傷をつけられることが。そうやって自分の存在を知らせることが出来るのが羨ましい。良くないことだ。縁人を守るはずの守護者が、一番の味方であるはずなのに。こんなことを望んでいる。僕はリリィに苦痛を与えてでも、僕の存在を覚えていて欲しいと、そう思っている。」
僕の醜さをリリィにさらす。
でももう止まらない。
「記憶を失った後に、リリィの意識に強く残る方法なんてそれしかないでしょ。幸せを願って日々を見守って、そんないてもいなくてもわからないような存在じゃなくて、僕は―」
関止めていた想いが溢れるように言葉となった。
ごめんなさい。
リリィがこちらを見ているのがわかる。
自分の痛みに望みを抱く男の顔を、どんな思いで見つめているだろうか。
僕を恐れているだろうか。
涙がポツポツと地面にこぼれ落ち消える。
しかし目元を雑に袖で拭い、こぶしを握り締めた。
泣く権利はない。
僕はこの罪を手放す。
「リリィ、僕は」
「いいんだよ。」
え?
リリィ?
顔を上げると、リリィは右肩を左手で抑えながら、痣を見ていた。
とても愛おしそうな顔をして。
そして僕を見た。
なんで許す?
許さなくていい、リリィ。
受け入れる必要ない。
いやそれよりも、今僕に話しかけるのはやめてくれ。
ジルたちが不思議そうに見ているじゃないか。
「いいよ。」
「リリィ…」
僕を認めるのか?
「リリィはありのままの君を受け入れている。君はどうする?」
⋯そんなの嫌だ。
僕は自分を痛めつけ罰したかった。
リリィのそばにいる権利を自分から奪ってやりたい。
だけど僕は、罪を手放した。
その許しを受け入れるほかない。
「ごめんなさい。」
自分への憎しみをひねりつぶして、声を絞り出した。
そして一歩前へ出て、彼らの方へ向き直る。
「あなたたちの気持ちは痛いほどわかる。でもリリィはやらない。お願いだから、僕らの元から去ってくれ。…でないと、僕はあなた方に敵意を向けます。」
そう言って睨みつけた。
初めて僕の言葉の意味を理解したのだろう。
オロオロとうろたえ身を隠そうとしている。
彼らから見た僕の姿は、きっと殺気立っていただろう。
その矛先は彼らではないが、これがけじめだ。
僕はまだ、羨む思いを完全に手放せてはいない。
どれだけ決心しようとも、心はまだそれにすがっている。
だがこの思いを、罪として自分から逃げる材料にすることはしない。
リリィがこんな僕を受け入れるというのだから。
その思いに報いなければいけない。
これだって本心だ。
思う自分を否定できないのなら、さらなる想いでリリィを守る。
矛盾だらけの僕には、こんなやり方しか出来ない。
「罪とは、神の心からそれた思いである。神を忘れた夢魂のものは “罪” がなにかを知らない。そんな人間が罪と定める多くは、“逃げ” であることが殆どだ。人に罪を言い渡すのも、自分に罪を課せるのも。そうすることにより報われると、勘違いの救いを求める心がそれをさせる。なにも罰しなくていい。善悪の判断はしなくていい。そんなことをしなくとも神が見ている。“蒔いたものを刈り取る” カルマの仕組みが報いとなる。“罪” を感じた時、ただ見つめるんだ。罰に逃げるな。」
「はい。」
三度目の決意だ。
心に刻め。
僕は、リリィの守護神だ。




