(十三) ただ息をしろ
「リリィの足には袋コブのようなものはなかったわ。大丈夫よ。」
駆け付けたエミリーは、リリィの体を確認して言った。
「よかった。これは神のお怒りではないようね。」
それを聞けてホッとする。
「大丈夫だリリィ。今を耐えたらまたすぐに絵を描けるようになるからな。」
僕の声にリリィはかすかに表情が緩み頷いているようだ。
本人にとっても、こんな不調は初めてで不安だったのだろう。
「誰か汗を拭いてやってくれないか、エミリー。」
しかし誰もそれどころではないらしく、僕の想いは届かない。
「だけど、この部屋は出入り禁止にした方が良いわ。他にも患者が増えるかもしれないから用意しておきましょう。」
「旦那様にもこのことを伝えなくちゃ。」
「その時は司祭を一緒に連れて行きましょう。その方が良いわ。」
「エミリー、リリィの下着を乾いたものに替えた方が良いんじゃないかしら。汗で冷えてしまうわよ。」
「そうね。」
「エミリー、司祭が来られたって。」
司祭は到着するなり、祈りをささげる。
「キリストと共に十字架を負う人を、あなたの力により強めてください。どうかこの者に祝福をお与えください…」
この声はちゃんと天に届いて欲しい。
リリィは罪など犯していないのだから。
暗くなりみんなが帰宅すると、エミリーだけが看病のため残った。
疲れたのだろう。
隣の空いたベッドに入り、熟睡している。
僕はリリィの枕元に腰掛け、額にかかった髪をそっとなでる。
今夜は月が出ていて明るいな。
口で浅く呼吸をしていたのが深い寝息に変わりはじめ、僕はやっと肩の力を抜いた。
眠れるのならひとまずは大丈夫。
「はあ、安心したよ、妹のようにならなくて。」
僕は心のままにつぶやいた。
だがすぐに自分の発言にゾッとし、思わず辺りを見わたす。
今のは僕の本心だ。
これがありのままの僕なのか。
リリィでなくてよかった。
心底そう思った。
「僕はなんてことを⋯」
「否定する必要ないだろ。」
落胆する僕をよそに、穏やかな顔をしたケイシと目が合う。
月明かりの中にたたずむその姿は、とても神々しい。
彼の瞳の中に自分の姿が映されると、僕はまたすべてを許された気分になる。
「そうですね、リリィがあの病でなくて本当に良かった。」
リリィでなくて⋯
この想いが僕の真実だ。
僕らは花を踏みつけるように、誰かの命の上に立って生きている。
ここではそうしなければ生きられない。
暗く闇に満ちた世界だ。
仕方ない。
誰も悪くないのだから。
だけど、この子だけは誰にも踏ませたりしない。
リリィは僕の子だ。
世界の犠牲にはさせない。
しかし、反転の法則というものに当てはめるならば、これはなんなのだろう。
死の病でないにしろ、リリィはとても苦しんでいる。
あの時のクロシェットのように。
今日リリィは、体はものすごい熱さで、食べ物は吐き出し、息も絶え絶えだった。
「リリィになにが起こっているのでしょう。」
「ため込んだものをそぎ落とそうとしてる。大掃除といったところかな。」
「ため込んだもの? リリィはなにか良くないものを体にためていたんですか?」
そのようには見えなかった。
リリィはいつも絵を描いたり、花を見たりして好きに過ごしていたし、漂う生命とやらに近づいてもいない。
「良くないものかどうかは私たちが判断するものではなが、リリィはこれを不要なものと捉えたのだろう。その想いに、この星にいる小さなものたちが手助けをしてくれたんだ。」
「小さなもの? それはあの生命とは違うのですか?」
「彼らとは異なる。それは人の目には見えないほど小さいが、サイズの問題を除けば、生きる人間の目にも映るものたちだ。」
「そうですか。ですが、手助けしたと言うことは、この苦しみはリリィにとって“良いこと”と思っていいのですよね?」
「良い悪いと区別できる事柄などない。そう判断する者がいるだけだ。」
よくわからないな。
リリィのこの状態はなぜ起きている。
僕の判断においてこれは“良いこと”に分類されるのか?
だが良いことだとしても、こんなに苦しい大掃除がしょっちゅう起きていたらリリィの体がもたないだろう。
「リリィが受け取った想い、リリィ自身が発する想いは、魂に刻まれる。つまり反転として?」
「リリィの体内に記憶される?」
「そう、現象がそのことをリリィに教えているんだ。今回の場合はこれだ。」
ケイシはリリィの方に手を添えて僕に言った。
今回の場合、リリィは熱におかされ病に苦しんでいる。
こんなものがリリィの心を占めていたのか?
いつ?
どこで?
何を見てリリィは苦しみを感じていたというんだ。
「この病は、もしリリィがこれを引き起こす感情を抱かなければ起こらなかった…つまり僕が気づいてやれていたら未然に防げたということですか?」
「そうかもしれない。」
ケイシの返答に僕はショックを受けた。
これは紛れもなく僕の失態だ。
僕がリリィを苦しめてしまったんだ。
この役立たずの男が守り手になったせいで。
「君の働きにより、リリィはこれほどの苦痛を感じずにすんだのかもしれない。または、これくらいの症状ですんだのかもしれない。どっちだったのかはわからないな。それに、どちらだったこともない。君の前にいるのは、今のリリィだ。」
これが僕の、今のありのまま。
「そうだよ、それだけのことだ。これで済んだ、と思うならそうなんだ、となるだけだ。」
そんな風には思えない。
こんな不甲斐ない守り手では、僕自身が自分を認められない。
「まあ認められないなら、それもそれでいいけど。君のその想いは、リリィに伝わっているんだってことは知っておいた方が良い。」
え?
僕のこの良くない感情をリリィが受け取っているのか?
「波は伝わるさ。言われただろう? 心は心によって成長する。縁人が守り手の心に影響されないわけがないって。」
つまりは、リリィがため込んだという感情の元凶も、僕が出した波の影響かもしれないと言っているのか?
「そうかもしれないね。それだけじゃないだろうけど。」
なんてことだ。
怖い。
僕はどうしたらいい。
自分の存在が及ぼす影響が⋯
いや、これすべてが僕のせいなのかもしれない。
こんな人間がそばにいては、リリィを幸せにしてやれないのではないか?
待て、今そう思って嘆いているのもリリィにとって良くないはずだ。
こんなこと考えるな。
⋯思考するのが恐ろしくなる。
リリィから離れなければ。
「君はリリィを幸せにする必要があるか?」
「⋯なんですか?」
「君はリリィの幸せを知っているか?
リリィのこの人生は幸せを感じるだけが目的なのか? 幸せとはなんだ?」
幸せとは、痛みや苦痛を感じることなく、飢えることなく、失うことなく平和な日々を⋯
「人が生きるとは、神への道を歩むこと。輪廻も同じく。ありのままでいることで前へ進める。それた道の先に見るものを」
「夢とは呼ばない。」
「そう、ありのままでいることはなんにしたって避けられない。そこから逃げるなら今していることの必要性が無くなる。君が恐怖に感化され進もうとする道の先に夢はないよ。」
「恐怖は君が使った、ただの感情だ。君なわけではない。」
「君はそのままでいていいんだ。否定も逃げもしなくていい。ただ知っていればいい。君の心にリリィが影響されるってことを。それだけで君の在り方は自然と変わるのだから。」
「結局君は、自分がしたいことをするだけだ。だから、ただ息をしろ。リリィと一緒に。」
この恐怖は僕が使った⋯
クロシェットを諦め、罪を着せた―この罪悪感も僕が好んで使った。
あの時のクロシェットは、父に背負われながら僕が後を追うのをやめた時、下を向く兄から目を背けられたと気付いた時⋯
あの時クロシェットがどう感じていたかを考えると、僕は怖くて怖くて。
どうしようもなかった。
だけどクロシェットがどんな感情を使ったのかはわからない。
絶望や恨みではなかったかもしれない。
僕はこの恐怖から逃げなくてもいい。
逃げてはいけない。
ただ息をする。
僕はゆっくりと深呼吸した。
スゥ―
ハァ―
よかった。
僕はまだリリィのそばにいられる。
ちゃんとここにいる。