(十二) 僕らの罪
トクッ トクッ トクッ⋯
脈が少し早い。
ケホッゴホッ―
顔の赤みも増してきた。
そして呼吸するたび、上下に大きく震える肩。
リリィはきっと病気だ。
「大丈夫だよ、ゆっくり息をして。」
さするように背中に手を添えるが、その手にピリピリとした刺激が棘となり幾本も突き刺してくるようだ。
これがリリィの波だとしたら、異様な状態なのは明らかだろう。
これからもっと悪くなる。
それを全身で予感した。
リリィがどれほど苦しいのかはわからないが、この様子はいつものちょっとした風邪ではないと思う。
「リリィ少し歩けるか?」
リリィは力なく首を横にふった。
どうしようか。
人を呼んで来ようにも僕の声は届かない。
数か月前から、トールの目にも僕らの姿が映らなくなった。
見えなくなって数日やそこらで、トールの意識からこちらに関する記憶が消えたのだ。
不思議なことに、それが僕にもわかった。
以前ケイシが言っていた、名を呼ばなくても向けられるエネルギーを察することが出来ると。
僕もそれを無意識に感じていたのだろう。
トールから発せられるエネルギーの波が途絶えたことで、それに気が付いたのだ。
トールとのそれまでの関係性はいとも簡単に失われ、このことに僕はまたひどく落ち込んでしまった。
だって僕らのことなんて、初めからなにも知らなかったような顔をして日々の生活を送っているのだから。
あまりにあっけない。
こちらの心に空いた穴などお構いなしに。
けどそんなことを嘆いている場合じゃない。
僕はすぐさまシモーヌに意識を飛ばす。
彼女は草むらに座り込んで、リリィより少し年上の女の子たちに縫い物を教えているところだった。
「リリィが大変なんだよ、シモーヌ。」
だが彼女は反応しない。
少し顔を上げてくれさえすれば、リリィが視界に入るはずなのに。
今の僕にはこんなことさえ伝えられないのか。
今度は死ぬ前のルカの姿に戻り、シモーヌの目の前で叫んだ。
「聞いてくれ。」
「なにを伝えればいいのですか?」
え?
「あなたがそこで叫んでいたって聞こえませんから。」
僕に声をかけたのは、シモーヌの守り手だった。
彼女は普段、他の人とあまり話をしない。
シモーヌよりも厳しい顔つきで、長い白髪をきっちりとまとめた隙のない様子は、いかにも指導係らしかった。
背筋だっていつもピンとして、一度だってだらけた姿を見せないので、これまでの僕は怖くて近寄らないようにしていたほどだ。
「リリィが具合が悪いようで、それを伝えたいのですが⋯」
「そうですか。」
それだけ言うと、彼女はシモーヌの耳元でコソコソと口を動かした。
するとシモーヌは顔を上げ、何気なくあたりを見回しはじめたではないか。
なにが起こったんだ?
シモーヌには彼女の声が聞こえたというのか。
なんだかよくわからないが、シモーヌはなにかに気付いたように立ち上がり、リリィがいる方へ歩いていく。
それを見て僕はリリィの元に戻った。
はあはあはあ⋯
さっきより息が浅くなっているな。
しっとりと濡れた額に髪がはりついている。
「リリィどうしたの?」
シモーヌは赤くなったリリィの頬に触れると驚いた顔をした。
「大変、流行り病かしら。」
そしてリリィを抱きかかえ使用人部屋まで連れて行き、ベッドに寝かせる。
リリィはまだ四歳になったばかりだ。
ちょっとした熱でも命がどちらに転ぶかわからない。
生まれる前に計画してきたこの人生だって、リリィ次第で早々リタイヤなんてこともありうると聞いた。
「エミリーを呼んで。」
部屋の外からシモーヌや他の使用人たちの話し声が聞こえる。
僕はリリィから目を離さずに聞き耳を立てていた。
「医者を呼んだ方がいいのかしら。」
しかしその言葉を聞いて、慌てて彼らの横につく。
「医者なんてとんでもない。リリィを殺す気か。」
するとシモーヌの守り手は、彼女の肩に手を置いて黙って首を横に振った。
「様子を見ましょう。ただの風邪かもしれないし。」
まただ。
彼女は守り手に導かれるように言葉を発した。
「でも旦那様のご家族に病が移ったら大変よ。後でどんなに叱られるか。」
「なら司祭様を呼びましょう。」
「そうだな。」
よかった。
話はそれでまとまったようだ。
それよりもリリィの足を見てくれよ。
「足にあれがあれば⋯」
だが今度は、シモーヌの守り手は僕に向かって首を振っていた。
だれもリリィに近づきたいくないらしい。
当然だろう。
もしこれがあの死の病ならば、自分の縁人の命に係わるのだ。
「なんでだよ。」
そうわかっていても憎らしい。
リリィが苦しんでいるんだぞ。
僕はリリィのそばに寄り、左手を握り話しかけた。
「大丈夫だよ、僕がそばにいるからね。」
そう言ったものの、胸の奥はザワザワと波打っているのがわかる。
まだか弱い小さな手だ。
このはかない手を見ると、恐怖で足が重くなる。
僕が六つの頃、妹が生まれた。
彼女の名はクロシェット。
小さな天使が鳴らす鈴の音のように愛らしい女の子だった。
僕と兄のマルセルはクロシェットを可愛がり、忙しく働く両親の分まで妹の世話をした。
クロシェットのお気に入りは、猫と教会裏にある花畑。
もちろん僕も、すぐに両方とも好きになり、日曜のミサの後は妹と花を摘み遊んだ。
僕は毎日幸せだった。
しかしそんな僕に、神は罰を与えられたのだ。
「あなた、クロシェットの足の付け根に袋ができてるわ。」
国中、いや大陸中に広まっていた原因不明の病は、例外なく僕らの村にもやってきた。
クロシェットは急に発熱し、食べ物もろくに喉を通らない。
こうなると死ぬまで弱り続けることはみんな知っている。
妹をここに置いていたら村は全滅してしまう。
だが、あの頃の僕らにはそれがわからなかった。
「連れて行かないで。」
「クロシェットはきっと良くなるよ。」
僕とマルセルは、妹を抱えて出て行こうとする両親にしがみつき、必死に説得をした。
「もう無理なのよ。わかってちょうだい。」
「そんなの、まだわからないじゃないか。」
「ここに置いていたら、お前らまで連れて行かれるんだぞ。」
そんなことで妹を見捨てるなんてできない。
しかし父は、僕らの言葉に一切聞く耳を持たず家を出ていく。
「なら僕たちも一緒に行く。」
「だめだ。」
僕らの声に村の人も集まりこちらを見ているが、誰も父を止めてはくれない。
母はもう僕たちを止めることも、父に着いて行くことも出来ずにおろおろと泣き崩れ、道の途中でうずくまった。
そんな母の肩をマルセルが震える腕で抱きしめる。
誰も助けてはくれない。
自分がやらなければ。
僕は、父を殺してでもこの幼い命を守ろうと決心した。
でなければ、この先ずっと後悔し自分を恨み続ける。
「やめろ。」
妹を抱きかかえ進もうとする父の足を蹴り、力いっぱい殴りつけるが、子どもの力じゃあなにをしても無駄だった。
「止まってくれよ⋯」
口の中に潮の味がする。
泣き叫んでも意味がないのはわかっているが、僕はどうしたらいい?
自分の無力さに怒りがこみ上げる。
この想いを拳に込めて力いっぱい自分のももを殴りつけた。
こんな痛み、なんの価値もない。
その時、道の端にある石が目に入った。
指がちぎれそうに重いが、持てそうだ。
僕は膝を使って、なんとかその石を待ちあげる。
だがそれを見て、村のやつらが焦って駆け寄ってきた。
「やめなさい。」
やつらは僕から石を奪い、肩を掴んでこんな時に説教をはじめる。
「自分のやっていることが分かっているのか。」
わかってるさ。
今こんなことをしている場合じゃないんだ。
「離してくれ。」
「仕方ないんだよ。この村が生き残るためなんだ。可哀想だけど、私たちもそうやって受け入れているんだよ。」
なんでだよ、僕らはこんなことをしてまで生き残らなきゃいけないのか。
あなたは妹を見殺しにさせて、僕に生きろと言うんですか。
「なんでこんな事するんだよ⋯」
「神がお怒りになっているからだ。全て神がお決めになった。主は私たちではなく、クロシェットをささげなさいと言われているのだ。」
神が妹の死を望んでいる?
神が幼い命の上に生きろと僕に言っている。
神は僕らに罰を与えられた。
そうか⋯
「ごめんなさい⋯」
許してください。
神の意志を前にして、それ以上の抵抗はできなかった。
これは僕が招いた結果なのだ。
それに気づき、僕の足は動かなくなったが、自分の罪の重さにも耐えられない。
僕は妹を抱える父の背中が遠ざかっていくのを見ていられずに、その場に泣き崩れた。
その様子を見た村のみんなは、もう大丈夫だと安心して各々の家へ入っていく。
残ったのはキリロスおじさんだけ。
僕はおじさんの硬い腕の中にがっしりと包み込まれて静かに泣いた。
「ごめんな、ごめんな…」
そしておじさんは謝り続けた。
妹が息を引き取った姿を僕は見ていない。
あれがクロシェットを見た最後だったからだ。
その後も神の怒りはおさまらず、隔離されるものはどんどん増え、教会裏の墓は溢れかえっていった。
穴掘りが追い付かないので、死者はまとめて葬られる。
ついに病人を山の奥へ捨てに行く者もでてきた。
生き残った者らの身代わりに罪を背負ったのに、このとむらい方はあまりにひどい。
だが、これにもみんな口をつぐんだ。
生きるための生活もままならない状態だったからだ。
これが神が僕らに与えた罰なのだ。
受け入れるしかない。
今僕らにできることは、ただ耐えるだけ⋯
しかし、みんなの信仰心は徐々に薄れていった。
病にかかった者は全員死んだ。
老人、幼子、体の弱いもの…
そしてその者らを診ていた医者や聖職者。
村では、医者の無駄な行いにより死者をより苦しめたとか、神の教えに正しい者らも死ぬのかなど、病と闘った者らを非難する声が広がっていった。
だが僕は、妹を犠牲にした罪悪感から信仰心をより強く持つようになった。
しかしいつからか、この罪の重さに耐えられなくなり、妹についての記憶を抹消して信仰心だけを軸にして生きていたのだ。
僕が死んでリリィのそばに着くようになって、忘れ去っていたクロシェットの記憶が鮮やかによみがえる。
クロシェットが病にかかったのも四つの頃だった。
小さな手の感触が、深くに刻まれた恐怖心を呼び起こす。
僕はリリィの力ない手を見つめた。
この暖かさを失いたくない。
「いやだ⋯」