ヒロユキ兄ちゃん
知っている人もいるかもしれないけど、僕んちの近くには飛び下りマンションと呼ばれてるマンションがある。
誰が最初にそう呼んだのかはわからないし、僕の行ってた小学校だけの呼び名だったのかもしれないけど、僕が行っていた小学校にいた奴はみんなそのマンションを飛び下りマンションと呼んでた。
小学校の時には飛び下りマンションという名称が不気味だということもよくわかってなかったから、飛び下りマンションと呼ぶことについて違和感を感じなかった。
だからみんな飛び下りマンションを、ライオンズマンションと同じように普通のマンション名として呼んでた。
でも中学三年になった今思うと、飛び下りマンションという名前はかなり不気味だ。
そのマンションで誰かが過去に飛び下りたという話は、小学校から今に至るまでずっと同じところに住んでるけど聞いたことがない。
ただ飛び下りマンションと呼ばれてるからには、過去に何かがあったんじゃないかと思う。
飛び下りマンションは名前は怖いけど、別に廃墟になったマンションでもなく普通のマンションだ。
九階立てのマンションで見かけは少しボロいけど怖くはない。
ヒロユキ兄ちゃんはそんな飛び下りマンションに住んでいる。
ヒロユキ兄ちゃんは作家だ。そんなに有名ではないそうだけど、ある一部ではそれなりに人気があるらしい。
ヒロユキ兄ちゃんは作家だからかいろんなことを知っている。
僕はヒロユキお兄ちゃんの話を聞くのが大好きなので、よく暇なときはヒロユキ兄ちゃんの部屋に行って話を聞いたり、ヒロユキ兄ちゃんの部屋にある漫画を読む。ヒロユキ兄ちゃんの部屋には漫画がたくさんあるので、漫画をたくさん読みたいけどお金のない僕にとっては夢のような部屋だ。
でも両親は僕がヒロユキ兄ちゃんの家に遊びに行くのを良く思っていなくて、ヒロユキ兄ちゃんの家に行ってはいけないと僕によく言う。
僕はヒロユキ兄ちゃんが好きだけど、両親が僕にヒロユキ兄ちゃんの家に遊びに行くなという理由もなんとなくわかる。
ヒロユキ兄ちゃんは髪が長くてボサボサで、肌の色も白くてとても痩せている。
その見かけと、ヒロユキ兄ちゃんの書いてる小説がどうやら「よくない内容」ではないということが、両親が僕にヒロユキ兄ちゃんの部屋に行ってほしくない理由だと思う。
僕は小説を読まないから、ヒロユキ兄ちゃんの小説も読んだことがない。だからヒロユキ兄ちゃんの小説がどう「よくない内容」なのかはわからない。
僕は一度ヒロユキ兄ちゃんに小説について聞いてみたことがある。
「ヒロユキ兄ちゃんはどんな小説書いてるの?」
ヒロユキ兄ちゃんがゆっくりと慎重に言う。
「……くだらない、とてもくだらない小説だよ」
「くだらないの?」
「うん、ダメなんだ。僕はね、自分の小説が大嫌いだ。好きな小説なんてひとつもないよ」
「小説を書くのは好き?」
「好きじゃないさ。よく言われるんだ。小説家だなんて羨ましいですね、って。羨ましいもんか。そんなことを言う奴は一度自分で小説を書いてみればいいんだ」
「でも小説を書くの?」
「そう、それでも書くんだ」
そこでヒロユキ兄ちゃんは言葉を切って、少し考えてから続けた。
「僕はね、今は自分の小説が大嫌いだけど、いつか自分が好きになれるような小説を書きたいと思ってるんだ。そしてもし自分が好きになれる小説を書けたらきっとまたたどり着ける気がするんだよ」
「たどり着ける?どこに?」
「九階」
僕はヒロユキ兄ちゃんの言うたどり着くという表現は、何か曖昧で抽象的なものを示しているのかと思っていたから九階という答えに意表をつかれた。
「九階?」
「一度だけ行ったことがある」
ヒロユキ兄ちゃんは遠い目をしながら言う。
「偶然だったけど僕はそこに確かに行ったんだ。でも僕はそこでの体験がよくわからない。だから、あそこが何なのかを理解したいから、そしてまた行きたいから、こうして小説を書いているんだと思う」
ヒロユキ兄ちゃんの話はよくわからなかったけど、僕は「そうなんだぁ」と返事をした。
ヒロユキ兄ちゃんはその答えを聞いて少し寂しそうな顔をした。
ヒロユキ兄ちゃんが大人から嫌われている理由はその身なりもそうだけど、他にもネコに餌付けをしていることだろう。
ヒロユキ兄ちゃんがネコに餌付けをするせいで、飛び下りマンションの側にはたくさんのネコが住み着いている。
マンションの住民はネコの糞や餌の残骸で周りが汚くなるので良く思っていないみたいで、住人はマンションの周りに住み着いているネコを憎々しい目で見たり、井戸端会議でヒロユキ兄ちゃんの悪口を話しているのを見たことがある。
そんなネコを憎々しい目で見てた誰かがやったのかもしれない。
ある日ヒロユキ兄ちゃんの部屋に遊びにいこうと飛び下りマンションに行くと、一匹のネコが殺されていた。