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緋の翅  作者: 鯨井イルカ
8/14

日の翳る部屋にて

 カーテンを透した午後の光が寝室を薄く照らすなか、ベッドに浅く腰掛けた高山は穏やかに微笑んだ。


「講習、たしか後手縛りと脚縄縛りの基本の予定だったね」


「はい」


「今日使うはずだった手順書はさっき送ったけど、読んだ?」


「はい。高山さんがシャワーを浴びているうちに」


「そう。じゃあ、今日は脚縄をしてみようか。吊りの基本にもなるし」


 黒い肌襦袢の裾から白い脚が零れ軽く曲げ伸ばしされる。静一は頷くとフローリングの床に跪いた。


「かしこまりました。足はこちらに」


「うん」


 膝の上にゆっくりと右足が乗せられる。ズボン越しに感じる踵の滑らかさとほのかな体温に身体の奥がざわめいた。


「失礼いたします」


 手にした縄を折りたたみ縄頭側で軽く引くと乾いた音が鳴った。見上げる笑みが深くなるとともに歪みのない指が軽く開く。


「少しでも痛みや違和感があったら、すぐに言ってください」


「分かってる」


 いつもより抑揚のある声を受けながら、親指と人差し指のに縄頭を滑り込ませ縄尻を通し引く。そのまま足の甲を通り足首に縄を走らせた。緋色の縄はやはり自然と白い肌に吸い込まれるように沈み込んでいく。頭上で悩ましげな吐息が漏れ、身体の奥のざわめきは更に強さを増した。


 脛、脹脛、膝下、膝上。傍に置いたスマートフォンに表示させた手順書を見る間もなく、肌が求めるままに縄を走らせる。その度に聞こえる吐息は熱を増していく。

 縄が腿にさしかかったところで滑らかな足は歪みのない指先を丸めた。


「……ぅ」


 熱い息に軽く呻き声が交じる。痛みを感じたのかと、静一は慌てて顔を上げた。しかし、浮かんでいたのは苦痛ではなかった。

 薄い唇は長く骨張った指を食み、端から零れた唾液が光の筋を作りながら滴っている。潤んだ目はカーテン越しの光が差し込んで鈍く光り、寄せられた眉の下で細められていた。

 白い肌が戒められ端正な顔が恍惚に浮かされる様。それを間近で見る資格があるのは現代緊縛の第一人者だけだったのかもしれない。


 それでも今、この表情を創っているのは間違いなく自分だ。



「……っ」


 高山が軽く顎を上げる。そのまま続けろ、ということだろう。縄を取る手に力がこもる。

 静一は吐息に煽られながら、滑らかな肌を緋色の幾何学模様で彩り戒めていった。

 

 全ての工程を終えつま先に結びを作ると、自然と深いため息がこぼれた。


「終わりました」


 汗ばむ手から縄が離れた途端、全身を脱力感が襲う。強張る首を持ち上げると、高山はいつのまにか口元から指を放し頬を淡紅に染め笑んでいた。


「……うん。ズレも歪みもない」


 脚はゆっくりと持ちあがり、見せつけるように眼前に差し出される。


「留めもしっかりできてるし、動かしても崩れない」


「テンションのきつさは問題ありませんか?」


「そうだね」


 気怠げな声とともに膝が軽く曲げ伸ばしされ、緋色の幾何学模様が白い肌に浮き沈みした。


「俺はこの位が好き」


「そう、ですか」


「うん。すごく気に入ったよ。ずっとこのままでいたいくらいに」


「……ありがとうございます」


 深く下げた頭がいつもより重く感じる。たしかに、手順書の内容はすべて頭に入れ完全に再現できたという自負はあった。


「でも、今日はここまで」


「かしこまりました」


 かしずいたままつま先の結びに手を掛け解いていく。絡みつく縄が剥がれていくのにあわせ、滑らかな肌が微かに震える。その様は名残を惜しんでいるようにも思えた。


 それでも、この肌が本当に求めている縄は。

 静一は小さく首を横に振り、淡々と縄を解き続けた。

 縄を纏めていると、高山が緋色の痕がついた脚を軽く動かしながら微笑んだ。


「お疲れさま。上手だったよ」


「ありがとうございます」


「喉、渇いたんだけど」


「はい。ただいま」


「うん」


 上機嫌な声を聞きながら立ち上がりベッドに背を向ける。その瞬間、枕元の壁に貼られたポスターが目に入った。


 写っているのは直立の状態で自らを抱きしめるように両肩を掴んだ黒い肌襦袢の青年。

その全身を緋色の縄がときに精緻にときに乱雑に戒めている。

 自愛縛りを基調とするその縄はややもすれば荒々しく無秩序にも思えた。しかし、帯の緩みも白い肌を覗かせる裾や襟元の乱れも、寸分の狂いなく受け手の美しさを引き立て見る者の情を煽る。

 幾重にも顔に巻かれた縄の隙間から覗く細められた目と紅の引かれた唇も、妖艶さに拍車を掛けていた。


 つとめて目に入れないようにしていたその写真に、講習会で感じた惨めさが蘇る。



「どうかした?」


「……いえ、なんでもありません。すぐにお持ちします」


「そ」


 訝しげな声を背に静一は寝室を後にした。キッチンスペースに続く居間はレースのカーテン越しの陽に満ちている。その中心でローテーブルに置かれた黒革の煙草入れが鈍い光を放っていた。


 俺たちはお互いに用済みでしょ。


 バレエスタジオを去る間際、退屈そうな顔はたしかにそう言い捨てていた。それでも、煙草入れには未だ緋色の飾り房がつけられている。

 自ずと足が速まるままキッチンスペースに移動してミネラルウォーターを取り出し、煙草入れを乱雑にズボンのポケットに入れ寝室に戻った。


 薄暗い部屋のなか、高山は相変わらずベッドに浅く腰掛け脚をパタパタと動かしていた。


「お待たせいたしました」


「べつに」


 蓋を開けて差し出したボトルを滑らかな手が受け取り口に運ぶ。軽く晒された白い喉が上下するさまに目を奪われているうちに、中身は半分ほどに減っていた。


「……もういいから」


「かしこまりました」


 静一はすぐさまボトルを受け取り蓋を閉めると窓際の机に置き、傍にあった灰皿を手にベッドサイドに戻った。そして跪きながら灰皿を床に置き、ポケットから煙草入れを取りだし中身を一本差し出した。


「どうぞ」


「ん」


 黒い肌襦袢を纏った上半身がおもむろに下げられ、薄い唇がフィルターを咥える。一瞬の柔らかさを残して唇は指から離れていった。その名残を惜しむことも許さないように漆黒の目が黒革のケースに向けられる。すぐにライターを取りだし火を点けると、寝室に洋酒と煙が混ざり合った香りが立ちこめた。


「……灰皿」


 煙とともに気怠げな声が吐き出される。


「どうぞ」


「うん」


 差し出した灰皿に長く骨張った指が静かに灰を落とす。その瞬間、目が壁に向いてしまった。ポスターの中ではこの美しい指も緋色の縄で飾られている。


「……樹氷が他の緊縛師より優れている所って、なんだと思う?」


「え? 優れた、所?」


 突然投げられた問いかけに思わず声が裏返った。


「そう。君がどう感じているのか、教えて」


「そう、ですね。縄の技術、というのも勿論そうだと思いますが」


 再び壁に顔を向ける。縄の隙間から覗く目と視線があった気がした。恍惚なかで潤む目と。


「……受け手を美しくしようとする執念」


 口を突いて出た答えに、薄い唇が弧を描いた。


「……うん。いい答えだね」


 甘い煙を吐き出しながら、高山は灰皿に煙草を押しつけた。吸い殻を放した白く長い指がおもむろに頬に振れる。


「樹氷はね、俺を美しくすることに命を懸けてた」


「そう、ですか」


「君からも、同じものを感じる」


「そんなことは……っ?」


 謙遜を吐こうとした唇に親指の腹が軽く触れた。柔らかな感触とともに、洋酒と煙が混じった香りが鼻腔を擽る。


「樹氷が俺を飾るためだけに考えた縄の図面、持ってるんだ」


「え? 図面?」


 予想外の言葉に頭の中が白くなった。そんな静一をよそに、柔らかな指の腹が滑るように唇をなで続ける。


「他の受け手に使うつもりはないって言うから、もらった」


「そう、なんですか?」


「うん。少し練習すればすぐに扱えるようになるよ。君ならね」


「……」


 正直なところ、いくらおだてられても技術面での不安は消えない。それでも、あのポスターに匹敵するほどの美を自分の手でも作り上げたい。


 目の前で微笑む、この男と共に。


 静一は手にしていた灰皿を置くと、指の動きを制止するように頬に置かれた手をきつく握った。


「かしこまりました。貴方がそう望んでくださるなら」


 見据えた漆黒の瞳を持つ目が徐々に細められていく。


「いい返事だね」


 寝室に響く呟きは慈愛に満ちているようにも、欲情が燻っているようにも思えた。

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