貴方と縄を扱う資格
受付に現れた樹氷は高山と短く言葉をかわすと静一に向き直った。
「この度はお越しくださりありがとうございます。騒がせてしまい、まことに申し訳ございませんでした」
白髪交じりの頭が深々と下げられ、微かに煙草の苦い匂いが漂う。高山が好んでいるものとは違う香りだ。ただ、どこかで嗅いだ覚えがある。
「現代緊縛の第一人者に頭を下げっぱなしにさせるなんて、ほんっとアイツが連れてきただけあるわね」
突然の刺々しい声に血の気が引いた。
「こら、イツキ。お客様に向かってなんだその口のききかたは」
「いえ、こちらこそ失礼いたしました! 未熟者ではありますが、本日はどうぞよろしくお願いいたします!」
慌てて下げた頭の上で軽い苦笑が漏れる。
「そんなに気を張らなくて結構ですよ。それでは、また後ほど」
樹氷は軽く頭を下げると振り返らずに受付を去っていった。残されたイツキが不服そうな表情で深くため息を吐く。
「まったく……。ほら、受付済ませるから、さっさと名前と連絡先の確認してちょうだい」
ラインストーンで爪を飾り立てた指先が面倒そうにタブレットを差し出した。表示されているのは「平川静一」という文字と携帯電話番号。
「間違ってなかったら、『次へ』をタップして。注意事項が出てくるからシロートさんはちゃんと読んでおくことね」
「……分かりました」
棘を隠そうともしない声に静一も苛立ちを覚えた。しかし、ここでまた揉めごとを起こして樹氷の手を煩わせるのも気が引ける。
腹立たしさを堪えながら緊縛に関する諸注意を流し読んでいると、再び聞こえよがしのため息が響いた。
「この間の配信、同接アンタより上だったから」
不機嫌な声が明らかに自分以外に向けられている。画面から顔を離すと、イツキは高山に詰め寄っていた。それでも黒縁眼鏡の奥の目はいつもどおり、つまらなそうに遠くを見つめているだけだ。
「そう。よかったね」
「投げ銭だって、アンタよりずっと稼いだし」
「そう」
「もちろん、本番なしでね」
「そう」
無表情な顔はあからさまに適当な相槌を打ち続ける。それでも、挑発が止む気配はない。
「そうよ。だから、近いうちにアンタの動画は削除するって先生言ってたわ」
「いいんじゃない。別に」
「それに、正式に『細川樹氷』としてアタシの動画を上げるともね」
「そう」
「アンタの居場所なんて、もうどこにもないんだからね」
「まあ、そうだろうね。俺も今の樹氷に用はないし」
「……っ!」
異様に黒目が大きい目が大きく見開かれた。きっとまた甲高い声で喚きたてるのだろう。そう思って身構えたが、次の瞬間に浮かんだのは満面の笑みだった。
「ねぇ、静一君だっけ?」
突然名を呼ばれ静一の肩は大きく跳ねた。
「なん、ですか?」
「ふふ、そんなに緊張しないでよ」
今までが嘘のように甘い声を吐きながら、イツキが近づいてくる。
「そんな奴やめて、アタシと組まない?」
タブレットを持つ手に派手なネイルを施した指先が触れた。その感触は滑らかで柔らかくはあった。
「こっちに来てくれるなら、いろいろヨくしてあげるわよ。先生にも、アイツなんかよりずっと上手だって褒められてるんだから」
艶やかで厚い唇が笑みしなを作る身体からは砂糖菓子のような香が漂う。きっと、この様を魅力的に感じる者もいるのだろう。
「それに、ちゃぁんと先生にも口添えしてあげる。個人レッスンをしてくれるようにね」
なにより細川樹氷と懇意になれるというのは、緊縛を愛好する者なら何を置いても魅力的なはずだ。
「ね、悪い話じゃないでしょ。どう?」
「いえ。お断りします」
「……は?」
「貴方のこと、縛りたいほど美しいと思えな……あ」
マズいとい思ったときにはすでに本音を言い終えていた。目の前にはいつか恋人と破局したときに見たのと同じ表情が浮かんでいる。静一は飛んでくるであろう平手打ちに思わず身構えた。
「ふん、なによ!」
しかし、強引にタブレットを奪われただけで頬に痛みは走らなかった。
「ちょっとからかってやっただけで、ご大層な持論をのたまっちゃって! これだから、緊縛をちょっとかじっただけで分かった気になるシロートは嫌なのよ!」
飾り立てた指先が乱暴に画面をタップする。
「ほら、アンタたちで最後なんだからさっさと更衣室に行きなさい!」
「あ、はい。じゃあ、行きましょうか」
「うん」
金切り声に追い立てられるように受付を後にし更衣室に移動する。ロッカーの建ち並ぶ狭い部屋の中には、二人以外誰も居なかった。
「……」
高山はつい先ほどまでの騒動を引きずる様子もなく、バッグから風呂敷をとりだし包みを解いた。中に入っていたのは件の黒い肌襦袢。長く骨張った指がロッカーを開け肌襦袢をハンガーに掛け、躊躇することなく着ていた上着を脱ぎさった。露わになった白い肌には、傷もシミも僅かな体毛すら見当たらない。
「……なに?」
黒縁眼鏡の奥で目が怪訝そうに細められる。
「す、すみません! すごく、綺麗な肌だな、と」
「そう」
感情のこもらない短い返事のあと、白い素肌は襦袢に覆われた。自分も早く着替えなくてはと、バッグからティーシャツとジャージをもたつきながら取り出す。そうしているうちに、高山はすでに着替え終わり襟を正していた。
「じゃあ、先外出てるから」
「はい、すぐに向かいますんで」
「うん」
姿勢の良い後ろ姿が更衣室を去っていく。静一も急いで着替え、緋色の縄を手にその後を追った。
※※※
スタジオに移動すると、壁一面の鏡を背に樹氷とイツキが立っていた。その向かいには自分たちを含め参加者が三組。一組は夫婦と思われる初老の男女、もう一組は自分たちより少し若く見える女性の二人組だった。どちらも受け手側は肌襦袢を着込み、縄を手にした側は糊の利いた浴衣を着込み袖を襷で縛っている。
「皆さま、本日はお越しくださりまことにありがとうございました。まず注意事項を――」
樹氷が諸注意を説明する声が響くが、連日の激務が祟ったのか内容が上手く頭に入ってこない。そんななか、静一の目に鏡に映る自分の姿が入った。
寝間着にも使っていたシャツは襟元が伸び、ジャージは膝のあたりの生地が薄くなっている。続いて視線は樹氷とイツキに向いた。
「緊縛というものは――」
漆黒の着流しを纏った樹氷はもちろんのこと、ブランドのロゴマークが描かれたシャツを身につけて佇むイツキからさえも凜とした空気を感じる。
視線は自然と隣に立つ高山に向いた。
「ですので、緊縛師は――」
端正な顔立ちに姿勢の良い長身。黒い肌襦袢に隠された、縄を食う白くきめ細やかな肌。
「先生にも、アイツなんかよりずっと上手だって褒められてるんだから」
受付でのいざこざから、樹氷とは恋人、少なくとも肉体関係があったことは察することができた。
それに、件の動画で目にした後ろ手縛り。
「――さん」
あの黒い肌襦袢を彩る緋色の翅はたしかに繊細で、受け手の美しさ艶めかしさを際立たせていた。しかし本来であれば、縄はもっと複雑な幾何学模様をもって受け手の肌をきつく戒めていたはず。
「――川さん」
稀代の緊縛師の縄を変えてしまうほどの受け手。そんな相手に近づく資格が自分にはあるのだろうか。
「平川さん。少しよろしいですか?」
落ち着いた声に静一は我に返った。
いつの間にかスタジオ中の視線が自分に向けられている。
「はい。なん、でしょうか?」
「さきほど私が言った言葉、繰り返していただけますか?」
「え……?」
淡々とした樹氷の問いに目が泳いだ。初歩的な注意事項だったとは思うが、復唱できるほど耳に入ってはいない。
「できないのですね?」
「……はい。申し訳ございません」
「いえ。謝ってくださらなくてけっこうですよ。ただし」
落ち着いた表情が深く息を吸う。後に続く言葉は容易に想像できた。
「先ほども申し上げましたが、緊縛というのは一歩間違えば命に関わる事故にもつながります」
「……」
「ですから、緊縛師はつねに細心の注意を払わなければなりません」
「……」
「少なくとも、講師の注意を聞き流すような方に縄を扱う資格はない、と私は考えています」
「……」
「参加費は全額お返しいたします。ですので、どうかお引き取りください」
「……」
柔和な表情に鋭い眼光を浮かべる樹氷の隣で、イツキが憐れみと蔑みが混ざった笑みを浮かべている。他の受講者からも困惑と同情の視線が注がれる。
「平川さん? また聞こえていないのですか?」
子供を諭すような声が惨めさを加速させ、喉元が締め付けられた。返事が上手く紡げない。
「平川さ――」
「だってさ」
突然、高山が諭すような声を遮った。
「更衣室、先に行ってるから」
姿勢の良い長身が迷うことなく扉へと足を進めだす。
「待ちなさい。円」
その歩みを樹氷が引き止めた。
「なに?」
「どこに行く気だ?」
「言われたとおり、帰るだけ。受け手だけ参加しても仕方ないから」
「それは、そう、かもしれないが」
「しれないが、なに?」
「……円は、それでいいのか?」
「うん。参加したがってたのは平川君だし。俺たちはお互いに用済みでしょ」
ごく当然という具合に吐き出された言葉に、イツキが眉間にシワを寄せて半歩前へ出る。それを樹氷の手が制止した。
「そうだったな。つまらないことを言って悪かった」
「そうだね。じゃあ」
高山は振り返らずにスタジオを出ていく。
「……ご迷惑、おかけいたしました」
静一も声を絞り出し、頭を深々と下げてから後に続いた。
※※※
トイレに立ち寄り顔を洗ってから更衣室に戻ると、高山はすでに着替え終わり薄手のコートを羽織ってロッカー前のベンチに腰掛けていた。
「……今日はすみませんでした」
「なにが?」
「俺のせいで、追い出されてしまって」
憧れていた者からの軽蔑の視線が鮮明に思い出され、水で冷やした目が再び熱くなる。しかし、胸を苛んでいたのはそれだけではなかった。
「別に。もともと俺はどうでもよかったし」
「それ、でも」
高山に相応しい縄を身につける機会。それを自分の手で台無しにしてしまった。そのことが悔やまれてしかたなかった。
「……あのさ、縄を教えられるの、縛師だけだと思う?」
「え……? はい。講習会とか開催しているのは緊縛師の方が多いですよね?」
「そうだね。でも」
黒いコートを纏った身体がゆっくりとベンチから立ち上がる。
「受け手が望む縄を一番知ってるのは、受け手。そう思わない?」
穏やかな笑みを浮かべた顔が軽く首を傾げた。
縛師が受け手側から縄を教わるという話は、今まで聞いたことがない。それでも、このままで終わりたくはなかった。
「……ご指導、お願いいたします」
「うん。君はいい子だね」
穏やかな声と共に骨張った長い指が頭を撫でる。
その手つきは泣きじゃくる子供を宥めるものによく似ていた。