成すべきこと
高山円。
現在は社内システム部に所属。
以前は客先常駐の仕事に携わり、オフィスに顔を出すことはほとんどなかった。
社員番号から自分より二年早く入社したことが分かる。
現代緊縛の第一人者、細川樹氷と関係があった。
複雑にして精緻な、テンションがややきつめの縄を纏うことを好む。
その結果、緊縛症を患う。
それ以外のことは何も知らない。
キーボードの音が響く昼のオフィス。静一は画面越しに高山を見つめていた。その視線を気にする素振りもなく黒縁眼鏡の奥の瞳は自分の画面を見つめ、骨張った長い指はキーボードを叩いている。
ホテルでの一件以降、二人の関係はまた変化した。週末の誘いを切り出しても「今、詰めの作業中だから」と断られ続けている。
プログラムの改修が一段落すれば、また。そう信じて縄の手入れを行ってはいる。樹氷以外の緊縛師が残した書籍を用いた身体に負担のかからない縄の勉強も。
それでも、関係を続けることは本当に正しいのか?
悩むたびに、紅い絨毯に滑り落ちるペットボトルが鮮明に脳裏に浮かぶ。
「ねえ」
不意に、画面越しに漆黒の目と視線が合った。
「は、い。なんでしょうか?」
「こっち側でのテスト終わったから、ミーティングいい?」
「かしこまり、ました。今、会議室を予約しますので」
「うん」
姿勢の良い後ろ姿がいつも通り黒革の煙草入れを手に喫煙室へ向かう。静一もいつも通りノートPCを用意し会議室へ向かった。
「テスト報告書、いつものフォルダにあるから」
「かしこまりました」
指示の通りにフォルダを開き、表示された報告書を指でなぞりながら読み込む。
経理側から提案した項目は漏れなくテストされ全て合格となっている、システム面でのテストも素人が読んでも理解できるように纏められている。
「何か問題は?」
「いえ、なにも」
「そう。マニュアルも同じ場所にあるから、後で読んでおいて」
「かしこまりました」
マニュアルも完成しているということは、忙しさも落ち着いたはずだ。それならば、今週末は、また。
「経理部への説明はお願いできるよね」
期待とは裏腹に、薄い唇は至極事務的な言葉のみを口にする。ここで余計なことを口にするわけにはいかないだろう。
「かしこまりました」
「分からないところがあったら、メールくれればいいから」
「え?」
淡々とした声に、全身の血の気が一気に引いた。
「メールで、ですか?」
高山の席は目の前だ。それなのに業務連絡すらメールで済まそうとしている。
見限られたのかもしれない。
そんな不安が胸に押し寄せ冷や汗が噴き出してくる。
「うん。さすがに向こうだといつでも電話には出られないし」
つまらなそうな表情がまた淡々と予想外の言葉を口にする。
「むこう?」
「そう。来週から名古屋のプロジェクトに入ることになったから」
「え……」
急すぎる話に理解が追いつかない。
「それと、明日から有給だから。じゃ、急ぎで聞きたいことは今日中に」
高山は煙草入れを手に立ち上がった。いつものように喫煙所に向かうだけだろう。終業までまだ時間もある。話す機会がもうないというわけではない。
「待ってください!」
それでも、気づけば細い手首を掴んでいた。
「……なに?」
冷ややかな声とともに煩わしげな視線が向けられる。それでも、目を反らすわけにはいかなかった。
「あの、名古屋ってことは、部屋は引き払うんですよね」
「うん。土曜の夕方にはもう向こうに行くから」
「なら、一度だけ縛らせていただけませんか」
「忙しいから……」
「それでもお願いします!」
思わず張り上げた声に、黒縁眼鏡の奥で切れ長の目が軽く見開かれた。
「これが、最後でかまいませんから、どうか」
「……そう」
部屋に小さなため息が響いた。
「土曜の午前中。それ以外で時間はとれない」
「……! それじゃあ」
「集合は七時。少しでも遅れたら部屋には入れないから」
「かしこまりました。絶対に遅れないようにいたします」
「うん。あと、手離して」
「あ、はい。すみません」
細い手首から一本一本指を離していく。全てが離れると、高山は特に表情を変えることもなく踵を返し会議室を出ていった。
静一は深々と頭を下げながらその姿を見送った。
新システムの部内への展開はマニュアルが分かりやすかったこともあり、滞りなく済んだ。業務の繁忙期まではまだ日がある。縄の手入れや樹氷の残した図面の読み込みに使う時間は充分にあった。
人気の少ない休日のオフィス街。さらに午前中ということもあり辺りに静一以外の人影は見えない。
晴れすぎた空のした、細い路地を抜け、角を曲がり、いつものマンションへ向かう。
呼び鈴のボタンを押すと、鍵の外れる音が響いた。少しの間を置いてから扉を開ける。靴箱の上にあった写真はすでにない。
少しの名残惜しさを感じながらも、微かに光が漏れる居間への扉を開く。
一切の家具が運び出された部屋に黒い肌襦袢を纏った高山は立っていた。
カーテンの取り外された窓から差し込む光が白い肌とのコントラストを際立たせている。
「お待たせいたしました」
「うん」
黒い袖から滑らかな手が差し出される。
「じゃあ、始めようか」
この手が動かなく危険を犯してまで縄を続けることが果たして是なのか。逡巡が全て解消されたわけではない。
過去に何があったかは知らない。
その片鱗を見ることすら許されていない。
ただ、今この瞬間は望まれた役を全うするべきだ。
目の前の高山に存在理由を与えるという大役を。
「かしこまりました」
静一は指を絡めるようにその手を取った。




