仔羊はかく語りき
艶のない朱色の壁に囲まれた部屋のなか、革張りのソファーに腰掛けた静一はこめかみをおさえた。視線の先ではキングサイズのベッドの腰掛けたイツキが忙しなく脚を動かしている。手にしているのはルームサービスのメニュー表。
「なによこの部屋、安酒しか置いてないじゃない」
不満げな声ともに派手なネイルが施された指がメニュー表を差しだす。
「ほら、見てみなさいよ」
「あ、はい」
受け取って目を通してみたが、ボトルで五万円弱のシャンパンが安いのか高いのか判断はつかなかった。
「なんか飲みたいのある?」
「酒はあまり詳しくないので」
「そ、なら適当に頼むわよ」
ベッドサイドに置かれたアンティーク調の電話機に手が伸ばされて、ダイヤルを模したボタンがやや乱暴に押し込まれる。
「シャンパンをボトルで、グラスは二つ。細川樹氷につけといてちょうだい」
注文をすると程なくして呼び鈴が鳴った。
「届いたみたいね」
軽いかけ声とともに、小柄な身体がベッドから飛び降りる。
「あ、取りに行きますよ」
「やめときなさい。うっかり手を滑らせてグラス割ったりしたら、アンタの月給なんて半分くらい吹っ飛ぶわよ」
「そう、ですか」
どこか呆れた声にロビーでの出来事が蘇った。
滑り落ち絨毯に転がるペットボトル。
握りしめられる白く骨張った手首。
落ち着いた威圧感のある声と、眼鏡の奥で伏せられた目。
「なにぼやぼやしてんのよ」
かるい破裂音とともに静一は我に返った。
いつの間にかイツキが隣に座り、金色のラベルに包まれたボトルを手にしている。
「アンタも飲むわよね」
「あ、はい。いただきま」
返事を終える前に細身のグラスは淡い蜜色の酒に満たされていった。細やかな泡が昇り消えていくなか、深いため息がこぼれる。
「先生とアイツになにがあったか、聞いてるわけないわよね」
その声や表情にいつもの刺々しさは感じられない。
「……はい」
「なら教えてあげるから、ちょっと付き合いなさい」
「わかりました」
「いい返事ね」
イツキはグラスを勢いよく煽りながら、まずは樹氷と自分のなれそめについて語りだした。
首都から離れた閉鎖的な土地の旧家に生まれたこと。幼い頃から美容関係を目指していたが古い考えの父親から反対されていたこと。反対を押し切って進学した都内の専門学校で先輩に騙され返しきれない借金を背負い、夜の世界で働くことになったこと。その仕事先の一つで樹氷と出会いメイク担当兼秘書として正式に雇われたこと。
SNSのタイムラインでときおり流れてくるような不幸自慢だ。そう思いながらも、静一は延々と続く話を聞き流し適度に相槌を打つ。
「……それでね、あるとき先生がアイツ、円をつれてきたのよ」
ボトルの中身が六割ほどになったころ、本題がようやく始まった。思わず背筋が伸びる。
「たしか、どこかの大学あたりで特別講師に呼ばれたときだったかしらね。授業が終わったあと、向こうから声をかけてきたそうよ。『俺のこと縛ってみたくない?』って」
話を聞いただけでその状況をありありと思い浮かべることができた。
淡々とした表情で問いかける高山も。
「並の学生さんなら、先生もすぐに断ったんでしょうけどね」
目の色をかえたであろう樹氷も。
「一目見てすぐ分かったわよ。先生がアイツのこと手放すはずないって」
派手なネイルを施した指が勢いよくグラスを片付ける。
「あの無自覚に高飛車なところも、綺麗な顔も、縄が映える身体も、緊縛以外に興味ないところも、みんな、みぃんな先生の好みなんだもの。でも、ま、先生が我を忘れるくらい熱を上げる、それこそ完全にプライベートで縄を施すような受け手は初めてだったし、悔しいけどアイツ以上に先生の縄が似合うやつなんていないから、ヤキモチすら焼いてられなかったわ」
空になったグラスにまた勢いよくシャンパンが注がれた。
「ほら、アンタも」
「あ、どうも」
半分ほど残った静一のグラスにも中身が継ぎ足される。
「……ただね、これだけは誤解しないでほしいんだけど」
不意に発せられた沈痛な声に微かに発泡する液体が微かに気管に入った。
「っなん、で、しょうか?」
喉と胸の痛みを堪えながら覗いた顔には、まるで泣き出しそうな表情が浮かんでる。
「確かにね、先生はあいつに入れ込んでたわけだけど、受け手に対する配慮まで忘れるようなやつなんかじゃないのよ」
講習会での冷たい視線と声が思い出され、おのずから首が縦に振れた。
「……そう、ですね」
「ええ。だから、毎回細心の注意を払ってたし、縛る前には必ずアイツに体調を聞いてたし、アイツを縛るときは必ずアタシを同行させてた。万が一熱中しすぎて何かあったらいけないからって。それほど先生にとって特別な相手だったのよ。アイツだってそれを知ってた。なのに」
なみなみと注がれたグラスの中身が一気に飲み干される。
「なのに、アイツは黙ってたのよ。自分が緊縛症になっても」
「……」
緊縛症。
アマチュアとはいえ緊縛を愛好する静一も、一度は目と耳にしたことのあるものだった。
間違った縛り方や吊りからの落下事故、あるいは安全面に万全の配慮をしていたとしても繰り返し縄を纏うことによって受け手の身体に起こる様々な不調の俗称。内容は麻痺や疲労骨折はては酸欠による意識障害まで多岐にわたる。
「いつだったかね、アイツがあまりにも起きてこないから、先生がベッドまで見にいったそうよ」
縄を解いた後ローテーブルに力なく伸ばされた白い腕。
「もうお昼だって声をかけたら、アイツは面倒そうに起き上がった」
煙草を喫ませるよう命じる掠れた声。
「それでそのまま床に倒れ込んだそうよ」
白く骨張った指から滑るように落ちていくペットボトル。
「慌てて駆けよった先生に、アイツなんて言ったと思う?」
思い返せば兆候はいくつも見当たる。それでも、気づくことができなかった。
むしろ、気づかないようにしていたのだろう。
「寝ぼけて、『今日はどんなふうに俺を縛ってくれるの?』って笑ったそうよ」
気づいてしまえば、あの笑みを手放せざるを得ないのだから。
樹氷と同じように、自分も。
部屋には沈黙が訪れた。
それからどのくらいの時間がたったのだろうか。不意に、呼び鈴の音が響いた。
「きっと先生ね。アタシ見てくるわ」
ソファーから立ち上がったイツキはおぼつかない足取りで入口へ向かっていく。程なくして脚を踏み鳴らす音が聞こえてきた。
「今さら何しにきたのよ! この浮気者! ろくでなし! 緊縛バカ!」
涙声の交じった絶叫の後にくぐもった謝罪の声が聞こえる。
グラスに残る気の抜けたシャンパンを飲み干すと、静一も入口へと向かった。




