世間に何と言われようとも私は君だけのために泳ぎたい
主人公の内面描写が主なお話です。
会話の類は少なめですのでご注意を。
速く、もっと速く!
一秒でも、ううん、コンマ何秒でも速く前に進む。
つま先から手の指先まで全身の神経を研ぎ澄ませ、力強く水をかき分けグイグイと前に進んで行く。
抵抗を打ち破るのではなく、極力抵抗されないようにと常に気を遣う。
ほんの僅かでも余計なことを考えてしまえばフォームが崩れブレーキがかかってしまう。
最後に笑うのは集中が途切れず練習通りの力を出し切れた者だから。
「先輩やりました! 自己ベ更新ですよ!」
「はぁっはぁっはぁっはぁっ」
泳ぎ終わりまだ息も整えられていない私に後輩が大喜びで声をかける。
そのことに気付き笑顔で答えてあげると徐々に落ち着いて来た。
「これなら世界で戦えますね!」
「まだ気が早いよ。まずは日本で記録を出さないと」
「先輩なら絶対に勝てますって」
「期待に沿えるようがんばりまーす」
まずは次のインターハイで記録を出し、日本選手権でも結果を出す。
そうすれば自ずと世界への道が拓けるだろう。
「世界……か」
それが実現不可能な話で無い事は分かっている。
何故なら私は女子百メートル自由形と二百メートル自由形の日本記録保持者なのだから。
――――――――
私にとって水泳はただの趣味でしか無かった。
本気で水泳に取り組み世界を狙うなんて気持ちは全く無かった。
中学の頃は神童とかウンディーネだのと呼ばれていたけれど、学生関係以外の大会には興味が無かったから出なかった。
そのため多くの人に上を目指せと勧められ、心無い言葉を投げかけられたこともある。
勿体ない。
実力があるなら世界を狙うべきだ。
嫌でも挑戦すれば絶対に後で良かったと思えるはずだ。
大きな大会に出たくないなんて子供の我儘だ。
大人の言う通りにしておけば良いのに。
世間の期待を裏切るのか。
単に泳ぐのを楽しんでいただけなのに、誰も彼もが自分勝手な期待を押し付けて私の考えを普通でない浅はかなものだと断言する。
狂ってしまいそうだった。
あるいは狂った末に仕方なく自分を殺して世間が敷いたレールの上を強制的に走らされていたかもしれない。
そうならなかったのは家族のおかげだ。
世間が、友達が、先生が、私に上を目指せと強いるけれども、両親は決してそんなことは言わなかった。
私の考えを、想いを尊重してくれた。
だから私は今でも私でいられるのだ。
そしてもう一人、私を救い続けてくれた人が居る。
「みなもちゃん、最近頑張ってるみたいだね」
私の幼馴染、こうちゃんだ。
こうちゃんとは家が近所で保育園のころから一緒で、中学高校と同じ学校に進学している。
仲も良く、高校二年生になった今でもこうして一緒に歩いて帰る程だ。
…………まぁ、個人的にはもう少し仲が進展したら良いなぁなんて思っているけれども。
こうちゃんは少し気弱で大人しいところがあるけれど、とても優しい男の子だ。
私の事を大切に扱ってくれて、あの苦しかった時も欲しかった言葉をかけてくれた。
『みなもちゃんがやりたいことをやれば良いと思うよ』
ありふれた言葉かもしれない。
でも私はその言葉の重みを知っていた。
私が水泳に力を入れない理由が気になる世間の人々はこうちゃんの存在を突き止めた。
きっかけは中学の誰かがSNSで言ってしまったことらしい。
『男に夢中で泳ぐのとかどうでも良いんじゃない?』
その結果、心無い言葉はこうちゃんにも向けられてしまった。
お前のせいだ。
お前が彼女の未来を閉ざしているんだ。
彼氏なら彼女の背中を押すべきだろう。
誹謗中傷、自分勝手なあるべき論、ネット上はそんな負の感情で溢れかえっていた。
しかもこうちゃんは実際に見知らぬ男に襲われた。
自分のせいでこうちゃんが危険な目に遭っている。
そのことが辛くて申し訳なくて、泣きながら謝ったことがある。
『ごめんなさい! 私のせいで!』
『あはは、みなもちゃんは何も悪くないよ』
でもこうちゃんはそんな私の謝罪なんて笑い飛ばした。
『みなもちゃんの方が辛いよね。ごめんね、僕がしっかりしてなかったから』
そして私の事を心配してくれたのだ。
私が水泳に打ち込めば解決する話なのに、決してそうして欲しいとは言わなかったし願わなかった。
本気でそう思っていることが伝わった。
危険な目にあったのに、それでも世間の言葉を無視して『やりたいことをやれば良い』とも言ってくれた。
だからこうちゃんは優しくて勇敢な男の子。
私にとっての王子様。
恋心なんてとっくに生まれていた。
「インターハイが近いからね。今年はその先も目指そうと思ってるからつい練習に力が入っちゃって」
「そっか……」
こうちゃんは何故か浮かない表情をしている。
私が泳ぐ姿を見れないからだろうか。
私が水泳を始めたきっかけは、こうちゃんだ。
『みなもちゃんの泳ぐ姿、とても綺麗だね』
『ほんと!? ありがとう!』
幼い頃にこうちゃんからかけられたこの言葉が、私の人生を大きく変えることになる。
綺麗と褒められたことが嬉しくてもっと見て貰いたくて何度も何度も彼の前で泳ぎ続けた。
より綺麗に、より褒められたくて努力した。
だけれども、肝心のこうちゃんに長年泳ぐ姿を見て貰えていなかった。
こうちゃんへの恋心を自覚してしまったことと思春期到来のコンボにより『恥ずかしいから見に来ないで!』と言ってしまったのだ。
それ以外、こうちゃんは私の水泳の試合に応援に来ることはなくなったし、プライベートでも恥ずかしくて泳ぎに行くことはなくなった。
そのことをずっと後悔している。
部活の大会に出ることで男の人に水着姿を見られることはもう慣れた。
でも好きな人だからか、こうちゃん相手に改めて見に来て欲しいと言うのはどうにも恥ずかしかった。
恥ずかしさを我慢して何度も頑張って言おうと思ったけれども、どうしてか言う事が出来なかった。
私は悩みに悩んだ末、気付いた。
テレビで放映されれば見て貰えるかもしれない、と。
邪な理由と罵られても別に良い。
私はこうちゃんに泳ぐ姿を見て貰いたくて、水泳に打ち込むと決めたのだ。
テレビで放映されるのは世界レベルの試合だけ。
そのためには速さを追及して勝負にこだわらなければならない。
それは大変なことだけれど、こうちゃんに見て貰うためなら頑張れる。
そう思っていた。
「ねぇみなもちゃん」
「なぁに?」
「みなもちゃんは、泳ぐの楽しい?」
楽しいに決まってるじゃん。
何故か私は、そう答えることが出来なかった。
――――――――
「テレビですか?」
「うん、学校の宣伝にもなるから受けて貰いたいんだけど、どうかな」
「う~ん」
「制服で良いし、質問の内容も変なことを聞かれないようにチェックするから」
「それならまぁ」
私が世界を狙うと決めたことで、世間は大騒ぎになっていた。
取材の申し込みも山ほど来ているけれど、まだ代表に選ばれるどころか大きな大会にすら出たことが無いので断っていた。
だって出場したら記録が伸びずに負けました、なんてことになったら恥ずかしいでしょ。
でも学校の宣伝になるからと言われたら断るのは忍びなかった。
中学と違って高校では水泳部の顧問の先生が私の意思を尊重してくれる素敵な人だったからだ。
学校側も無理強いすることは決してなかったし、高校生活をエンジョイ出来ているのは学校が守ってくれていたからという自覚はある。
だからお世話になっている学校のためになるなら仕方ないと思ってOKを出した。
インタビューは学校の花壇の傍で行われることになった。
なんと夕方の地方番組で生放送とのこと。
「うう、やっぱり恥ずかしいな」
「変なことは聞きませんので、リラックスしてくださいね」
「はぃ……」
テレビ局の人達はとても優しかった。
最初はドキドキしてまともに話が出来るか不安だったけれど、放送前にたくさん世間話をして落ち着かせてくれた。
これから先、世界を狙うならばインタビューの機会なんて山ほどあるだろう。
今のうちに慣れておかないと。
なんてこの時の私はこのインタビューをこれから先の練習程度にしか考えていなかった。
それがまさか私の人生を大きく変えるあんなことになるなんて。
「今日はとある学校に来ています」
どうやら私が出演するコーナーが始まったようだ。
私は決められた場所で立ち、インタビュアーのお姉さんが来るのを待っている。
カメラに映らないところで生徒達が囲うようにして見ている。
こうちゃんも見てくれているのかな。
『こうちゃん、私テレビに出るんだって!』
『そうなんだ……』
でも何故か嬉しそうじゃなかったから居ないかな。
最近、こうちゃんが元気が無いのが少し気になる。
これが終わったらちゃんとお話ししよう。
そんなことを考えていたらインタビューが始まった。
質問の内容は本当にありふれたものだった。
特にこれまでのことについて聞きたかったはずなのに全く触れてこない。
学校側が前もって調整してくれたのか、それともこの番組の人達が良い人なのか。
だから私は気分よく答えていた。
何も問題は起こらないだろう。
そのはずだったのに。
「インターハイでの目標を教えて下さい」
「少しでも速く泳ぐことです」
「ということは、ご自身が持つ日本記録の更新を目指すという事でしょうか?」
「記録更新よりも勝つために速く泳ぎたいって感じです」
あれ、私、今何を言ったんだろうか。
水泳で勝ちたい。
それは間違ってない。
だって勝たないと次のステップに進めない。
テレビで放送される程の大きな大会に出てこうちゃんに泳ぐ姿を見てもらうためには勝つことが一番重要だから。
速く泳ぎたい。
それも間違ってない。
だって速くないとこれまた次のステップに進めない。
もしかしたら私以外の誰かが日本記録を超えてしまい、負けてしまうかもしれないから。
勝つためにコンマ何秒でも速く泳ぎたい。
目標を達成するためには当たり前の考えだ。
でもなんでだろう。
心が痛む。
胸が軋む。
嫌な気持ちが湧いて来る。
あれ、私って、何のために泳いでいたんだっけ?
「目標とする選手はいますか?」
「出水 理子選手です」
動揺していたからか、反射的に有名な水泳選手の名前を挙げてしまった。
もともと水泳競技そのものに興味は無かったから選手の事を知らない。
だから素直に『良く知らないんです』と答えれば良かったのに、とりあえず有名な選手を挙げるなんていう大人の対応をしてしまった。
思ってもない事を、答えてしまった。
ぐらりと眩暈がするようだ。
別に普通のことなのに、罪悪感で一杯だ。
何故、どうして、私はこんなにショックを受けているの?
『みなもちゃんの泳ぐ姿、とても綺麗だね』
『みなもちゃんがやりたいことをやれば良いと思うよ』
私はもしかして、とんでもない思い違いをしているのではないだろうか。
こうちゃんに泳ぐ姿を見て貰いたい。
確かにそれは私の本心だ。
でも、私が見て貰いたいものは本当にソレなの?
「出水選手ですか。泳ぐ姿が綺麗なところが水面さんと似てますね」
私の泳ぐ姿が綺麗。
それは最高の誉め言葉の筈だ。
みんなが褒める綺麗な泳ぎをこうちゃんに見せられるかもしれない。
それなのに、決して喜べなかった。
「ち……ちが……」
「え?」
今になってようやく気が付いた。
その『綺麗』は違うのだと。
それは速さを追求し無駄を一切省いた競泳としての『綺麗』であって、私の本来の泳ぎでは無い。
こうちゃんが褒めてくれた『綺麗』とは違う。
こうちゃんに見せたかったものを、今の私は持っていない。
見せる事だけに夢中になって、見せるものを蔑ろにしてしまった。
私の泳ぎは決して『綺麗』なんかじゃない!
「水面さんの昨年のインターハイの泳ぎを見せて頂きましたが、とても美しい姿でしたよ」
私が『綺麗』に対して謙虚に照れたのだと勘違いしたインタビュアーのお姉さんが、フォローのつもりなのか更に褒め称える。
スタジオの人達に話を振ると、コメンテーターの人達もまた褒めてくれる。
違う、違う、違う!
私は、私の本当の泳ぎは別にあるの!
こんなの『綺麗』なんかじゃない!
「違う! みなもちゃんは本当はもっと綺麗に泳げるんだ!」
こうちゃん、こうちゃん、こうちゃん!
ありがとう、こうちゃん。
こうちゃんはまたしても私が欲しい言葉を私が欲しい時にくれた。
その『綺麗』は違うと否定して欲しくて、でもそんなことを言っても誰も信じてくれないこの状況で、生放送というハードルを越えて伝えてくれた。
私の辛い気持ちを察して、救いの手を差し伸べてくれた。
「人魚のように楽しそうに泳ぐみなもちゃんは本当に綺麗で僕は……僕は大好きだったんだ!」
そうだ、私は決して速く泳ぎたかったわけじゃない。
自由に楽しく泳ぎたかったんだ。
そしてその姿をこうちゃんは好きだと言ってくれた。
その好きだと言ってくれた姿を見せたかったんだ。
それなのに私はいつの間にか盛大に勘違いしていた。
自由に泳ぐことも、楽しく泳ぐことも忘れ、泳ぐ姿を見せる事だけに固執してしまっていた。
そして望まない競争の世界に入ろうとしてしまった。
そんなことをしてもこうちゃんが喜ばない事なんて、少し考えれば分かる事だったのに。
私に勇気が無かったから起こしてしまった失態だ。
恐らく私は久しぶりに泳ぐ姿を見せた時に『そんな姿を見たくなかった』なんてがっかりされるのが心のどこかで怖かったのだろう。
だからその恐怖から逃げるように、直接ではなくテレビを通して見て貰いたいなんてズルいことを考えた。
「あはは、生徒さんからも大人気ですね」
インタビュアーのお姉さんがトラブルのフォローをしてくれた。
ごめんなさい、今の私にはもうこのままインタビューを続けることが出来ません。
「え、あの、水面さん。大丈夫ですか!?」
ほろりと一筋の涙がこぼれた。
でも不思議と気持ちは晴れやかで、口元は自然と笑顔になっていた。
「私のためにこのような場を用意して頂きありがとうございます。でも本当に本当にごめんなさい。後でいっぱい怒られます」
「え?」
私の自分勝手な行動で多くの人に迷惑をかけてしまった。
そしてこれからさらに大きな迷惑をかける。
今回ばかりは責められても仕方ないと思う。
だから後で沢山謝ろう。
でも今はやることがある。
「ありがとうこうちゃん!」
こうちゃんは今が生放送の番組中であると分かっていて言ってくれた。
私の泳ぎが大好きだったと。
でもその『好き』に込められた想いがそれだけでないことに気付かない程私は鈍感では無い。
ここで答えを返せないのならば、私は一生臆病なままでまた同じ過ちを繰り返して多くの人に望まぬ迷惑をかけ続けてしまうだろう。
慌てて辺りを探すと、人だかりの中にこうちゃんの姿を見つけた。
先生や周囲の生徒達に捕まえられて退散させられようとしているけれど、必死にもがいて耐えていた。
「でも、好きなのは泳ぐ姿だけなの!?」
こうちゃんは目を見開いてこちらを見た。
周囲の人達も、こうちゃんから手を離した。
後で知ったことだけど、二人が同時に映る位置にカメラが移動していた。
こうちゃんは人だかりの中から一歩だけ前に出る。
「みなもちゃんのことが全部好きだ!」
こうちゃんはいつだって、私が欲しい言葉をくれる。
これからは私もそうありたいと思う。
今日がその最初の一歩だ。
「私もこうちゃんのことが全部好き!」
私は一旦体の向きを変えてカメラの方を見た。
「世界を目指すのは止めます」
今ごろネット上は大荒れだろうか。
中学の頃から頑なに世界に興味を示さなかった神童が高校生になってついに考えを変えたかと思ったら、すぐに取り下げたのだから。
間違いなくこれまで以上に誹謗中傷は増えるだろう。
私を守ってくれていた人達を振り回す酷い行為であることも分かっている。
だから後で真摯に謝って怒られよう。
今は私がやりたいことをやる。
好きな人がそうあって欲しいと願うのだから。
私もそうありたいと想うから。
「私が泳ぐ姿を見せたい相手はこうちゃんだけだから」
それが私が泳ぐ理由。
勝負とか、速さとか、そんなのは関係ないんだ。
ただこうちゃんに喜んでもらいたい。
それだけだった。
そんな私の我儘で振り回してしまった人達に向けて最後に一言。
「本当にごめんなさい!」
深く深く頭を下げ、そしてこうちゃんの元へと走った。
「こうちゃん大好き!」
おまけ
「そう言えばなんでこうちゃんは私の今の泳ぐ姿を知ってたの?」
「いや、その、実はこっそり応援に行ってたんだ」
「ふ~ん、こうちゃんのえっち」
「違うよ!? そういうのじゃなくて、みなもちゃんを応援したくて」
「あはは、ごめんごめん。分かってる」
「もう、いじわる」
作中で主人公が迷惑をかけると思ってますが、中高生ならこのくらいの迷惑なんて気にせず青春して欲しいです。
そしてこのくらいの迷惑なら笑って受け止めてくれる世の中であって欲しいです。