生贄(3)
柏木倫子は下校していた。
自転車を持っていないので、最寄駅から自宅までの道のりをとぼとぼと歩いて。
川沿いの並木道を通り、住宅地の歩道に入る。いつもなら大通りのスーパーに寄るのだが、今日はめずらしくその必要がない。
(納豆を買うのは明日でいいし、イワシの缶詰もまだ一個残ってるはずだし……)
などとぼんやり考えていると、
ワンッ‼ ワンワンッ‼
突然、猛り狂った一匹の犬に吠えかかられる。親の仇のように。
倫子は肩が跳ね上がるほど驚いて、あわてて後ずさる。心臓の早鐘がなかなか鳴りやまない。
(こいつ……!)
ショックが過ぎ去ると、こんどは屈辱で歯噛みする。
犬種は知らないが、こげ茶色の毛足の短い中型犬だ。格子状の門扉越しに、犬歯を剥き出しにして、なおもこちらを威嚇してくる。ふだんは屋内か裏庭で飼われているのだろうが、たまにこうして表に出てきて、罪のない通行人に吠えかかるのだ。
(許せない。今度という今度は……!)
倫子が被害に会うのは、たぶんこれで四度目くらいになるはずだ。宿敵といってもいいだろう。どうにかして一泡吹かせてやりたい。魔女としてのプライドもある。
まず頭に浮かんだ魔法は〈火吹き〉だ。まだ一度も試したことはないが、おそらく難しくはないだろう。
しかし倫子は、自分が大道芸人のごとく口から火を吹いている絵面を想像し、そのバカバカしさに尻込みしてしまう。
「他には……」
そこでハッと閃く。格好の魔法があるのを忘れていた。
「コウラーシトゥ キリウォス シリオ」
すぐさま呪文を唱えはじめる。周りに人目はない。
「カネイス ヒラー アブェレイスディ フォンニ ザス」
不穏で不気味な響き。〈獣から声を奪う〉魔法だ。これも使うのは初めてだったが、いわゆる小魔法に分類されるものだから、ぶっつけ本番でも問題はないだろう。
倫子は視殺せんばかりに怒りを込めて、犬を睨みつける。
犬は凍りついたように、その場に張りついてしまっている。
「コウラーシ トゥ ディブロス!」
ことさら語尾を強めて、詠唱をフィニッシュする。これでこの駄犬は永遠に沈黙して──
ワンッ‼ ワンワンッ‼
だがすぐに同じように吠えかかられ、倫子はまたビクッと驚いて後ずさるのだった。
帰宅した倫子は机にむかい、自分の魔導書を開いて、〈獣から声を奪う〉魔法の記述を確認していた。
「どうしてこんな簡単な魔法を失敗するのかしら?」
軽く落ち込んでいる。
「翻訳間違いか、その犬への憎しみが足りてないのか。そもそも魔力がまだ弱いのか。理由はいくらでもある」
床に香箱座りしているサンドルが講釈する。
「魔力を強くする方法は?」
「地道に経験を積む以外にか? 他者への悪意を強めるか、己の欲望を肥大させるかだな」
魔法というのは、強力な〝悪意〟か〝私欲〟によって発動するものだ。誰かを幸せにする善意の魔法などというものはありえない。
「他にはないの?」
「一つある。劇的に魔力が増すぞ。〝あの方〟に生贄を捧げるんだ」
「生贄? どんな?」
「家畜ごときでは満足されない。自分の息子か娘が最上だな」
それは無理だ。
「他には?」
「次は子供だ。健康な子供なら誰でもいい」
「調達するのが大変ね。警察も煙に巻かないといけないし……」
倫子は思案顔となるが、すぐに閃き、
「そうだ、水晶占い。あれで探せないかしら?」
水晶球による透視は占い魔法の基本だ。
「生贄をか? そもそも水晶球がないだろ」
倫子はノートパソコンを開き、ネット通販サイトで調べてみる。
「……やっぱり本物の水晶球はとんでもない値段ね」
小ぶりなものでも数十万円という値が表示されている。
「人工のなら安いんだけど」
「それはガラス玉と同じだ」
倫子は自分の魔導書の〈水晶占い〉の章を開き、
「魔導書には〝ガラス玉でも可〟と書いてあるけど?」
「占いの精度が格段に落ちる」
「でも、やらないよりはましでしょ。ガラス玉ならたしか……」
倫子はベッド下の右側の引き出しを開ける。
収納になっており、小物類がぎっしりと詰め込まれている。
そこから、ラベルを剥がしたインスタントコーヒーの空き瓶を取り出す。中には色とりどりのビー玉が貯めこまれている。倫子が幼少時に集めていたものだ。
蓋を開け、カチャカチャと選び出したのは、三センチほどのやや大き目の透明ビー玉。たしかに極小の水晶球に見えないこともない。
「これならタダだわ」
倫子はそのビー玉を水道水で清めると、部屋の中を薄暗くし、ちゃぶ台に蝋燭を立てて灯す。その炎を、ビー玉の球面になるべく大きく映り込ませる。これは聖別という、魔法道具を世俗的な対象から切り離すための小儀式だ。
終えると、倫子はさっそく透明ビー玉による透視を開始する。
深呼吸を二、三度くりかえしたのち、片目で覗き込んで透視したい事柄を念ずる。
「生贄に都合のいい子の居場所を教えて」
はじめは霧がかかってるようにしか見えない。
「なるべく近場がいいんだけど」
「いろいろ都合が良すぎる」
サンドルは嘆息する。
「あ……!」
だがそのうち霧が晴れてきて、明瞭なビジョンが得られる。
「……景色が見えてきた。夜みたいね。これはベンチ? ここ、公園だわ」
さらに、一人の子供の姿が徐々に浮かびあがってくる。
「ふ~ん、この子なの」