パンツ見るだろ金払え 3
これでもかと突き刺さったチラシを引き抜きそっとドアをノックすると、カバのあくびのような返事が返ってきた。
一声かけてドアを開けると、そこには酒瓶を引っくり返したような臭気、死んだように眠る一人の女性がベッドに横たわっていた。
「すみれねぇ」
「ぬ、ぬぁぁ……ん」
うつ伏せで寝言を放ち、来客にも気が付かぬその女性──富士宮すみれは酷く不用心で、訪れた青年が万が一にも不埒な人物であれば、直ぐさま事に及んでいたであろう。
青年は酷く散らかったその部屋に嘆息を漏らしながら、そっと缶ビールや酎ハイを片付け始める。
ソファにかけられた部屋着のしわを伸ばし、洗濯機に詰め込んだ。
僅かに残った洗剤では心許ないが、青年は洗濯機のスイッチを入れた。
「……んな」
その音を聞いたのは何日ぶりだろうか。
寝ぼけた頭が二日酔いを呼び出すのにそう時間は掛からなかった。
「少年か……。一人暮らしのレディーの家に勝手に上がり込むのは関心しないなぁ」
「鍵は開いてたしお母さんに許可は取ってある」
軽い舌打ちが母親のお節介に向けられた。
ガラスの小さなテーブルの上に残っていたピーナツの残骸を口に入れ、すみれはそっと重い腰を上げた。
「その服も洗濯したいから頂戴。どうせ昨日もお風呂入ってないんでしょ? シャワーでいいから入りなよ」
キッチンで溢れるように溜まっていた洗い物を片付けながら、後ろにいるすみれに声を掛ける。
「一緒に入るかい?」
すみれの含み笑いに、青年は無言で食器を洗い続けた。
「あ、そうだ」
脱衣所の扉一枚を隔てて、すみれが青年に声をかけた。
青年はシンクに張り付いた汚れと格闘している。
「どうせ洗濯するときパンツ見るだろ、金払え」
扉の磨りガラスの向こう側で、すみれが何かを振り回しているのが見えた。
青年は「いやだよ」と一言。
「今月ピンチなんだ。な? 美しい女性を助けるのは男の務めだろ?」
青年はむっとしたが、一息ついて片付いた洗い物と別れを告げ、掃除機を取り出した。
物さえ無ければそれなりにこじんまりとした部屋なのではあるが、家主が酷い物ぐさであり、青年が来ない時は足の踏み場も無いくらいに散らかることはざらだった。
「だめだ、二日酔いが辛い」
シャワーを終え大きめのシャツ一枚で現れたすみれから、青年はそっと視線を外した。
「ちゃんと履いてるって」
そういう問題ではない。
シャツで隠れてはいるが、それは座ればほぼ意味をなさない。
まるで青年をからかうように、すみれは笑いながらベッドに横たわった。
「薬買ってくるよ。あと洗剤も」
「ついでにチーズといつものビールもね」
青年は嘆息し、ドアを閉めた。
その客は、まるで青年が出掛けるのを見計らったかのように、ドアを無雑作に開け放って上がり込んできた。
小さなサングラスと金のチェーンを首にかけたチンピラ崩れの男だ。
「よう」
その声にすみれは飛び起き、ソファにかけてあった上着で腰を隠した。
「ふん。相変わらず適当な暮らしで」
「余計なお世話さ。それよりアンタにはこの住所を教えた覚えはないんだがね」
男はソファに深く腰を下ろすと、すっと視線をすみれの顔から腰へと落としてみせた。
その視線に嫌悪したすみれが「何の用なんだい」と話を促す。
「なぁに。昔のよしみで些か支援を、ね」
非難を込めた大きな舌打ちが男へと向けられた。
男はにたりと笑い、そして一枚の写真をポケットから取り出した。
それを見たすみれの顔から血の気が引いた。
「それをどこで──」
「とある筋から、とだけ言っておこうか」
写真を指先でひらひらと揺らすと、すみれの顔が険しくなり、その表情には戸惑いと焦りと憤りが見て取れた。
「いくらだい」
その一言に男は嬉々として指を三本立てる。
無いとは言わせない。そんな圧が込められていた。
「クソが」
すみれは化粧箱から封筒を取り出し、男へ投げてよこした。
男は中身を確認するまでもなく、その厚みで量を確信した。
「へへ、悪ぃな」
すみれが苛立ちながら、追い払うように手を払うと、男は笑いながら部屋を後にした。
アパートの階段を降りながら、遠くに買い物袋を両手に提げた青年を見ると、少し足早に車に乗り込み狭い路地を走り抜けた。
青年の週末には、特別な予定があった。メイド喫茶だ。
駅前裏通りにひっそりと店を構える、闇堕ちメイド専門店がある。
青年は変装をしてその店に通うのが習慣となっていた。
「また来やがったかクソ野郎……」
煙草を咥えながら、目つきの悪いメイドが青年を出迎えると、そのまま背を向けてメイドは奥へと引っ込んでしまった。
フロアにはテーブルが五脚あったが、椅子はない。
フロア入り口にはパイプ椅子や籐家具調の腰掛け椅子。それに柔らかいビニール椅子が並べられていた。
「よっと」
パイプ椅子を手に取り少し奥まったテーブルへと着く。程なくしてボロボロのメイド服を着た眼帯のメイドがグラスに水を運んできた。
「これで溺れて死ね……」
捨て台詞のように吐き捨てメニューを投げる。
辛辣な接客だが、それがこの店のルールであり売りなのである。
青年が持ってきた椅子にも意味があり、椅子の種類によってメイドの態度が変わる。
言わずに頼む。紳士が紳士たる所以である。
「モヒカン様が来たわ。粗相の無いようにね」
頭に包帯を巻いて光を失った目をしたメイドに、メイド長がそっと声をかけた。その胸には初心者マークが貼られている。
「モヒカン様?」
「そう、見たまんまモヒカン様。上客だからギリギリのギリを狙いつつも新人のミスも大目に見てくれる素敵な方よ」
頭に疑問符を浮かばせながら、そっとフロアを覗く。確かにそこにはモヒカン頭の男がいた。
「それと、モヒカン様はお酒が苦手だから、絶対に飲ませないで。前に間違って飲んだときは大変な事になったわ」
メイド長に背中を押され、胸に初心者マークを付けた闇堕ちメイドが、モヒカン様と呼ばれる上客の隣へとやってきた。
青年は見慣れぬメイドに笑顔で「オムライス一つ」と注文をした。
オムライスはそのメイドの力量が顕著に表れる料理であり、メイド力を計るバロメーターとなっていた。
「どうせ、いつか死ぬのよ……無駄な食事を」
マニュアル通りの捨て台詞を残し、新人メイドが奥へとはけた。
オーダーを聞きつけたキッチン担当の斎藤さん(58)がオムライスを作り始めたのは直ぐのことだった。
オムライスが間もなく出来上がろうとしていた頃、新たな客がやってきた。
それは小さなサングラスと金のチェーンが似合わぬチンピラ崩れの男だった。
「──!?」
出迎えた新人メイドが驚きたじろいだ。
「よう。お前の金で遊びに来てやったぞ」
怪訝な顔をした新人メイドに、男は「とりあえず酒な」とテーブルを指で叩く。
新人メイドは迷惑そうな顔をするも騒ぎを嫌い作り笑顔でそれに応えた。
新人メイドがオムライスを青年のテーブルに運んだところで、チンピラ崩れの男が新人メイドを呼び付けた。
「おい、酒追加」
慌てたメイドが奥へと向かう。そのせいかメイドは青年のオムライスにケチャップを忘れてしまったのだった。
「お待たせ致しました」
「おせぇよ!」
男が新人メイドのすねを軽く足で小突いた。
それが青年の目に留まった。
青年は立ち上がると、男の前へと歩み寄った。
その顔には明らかな敵意が染み出している。
「なんだよお前、それとその頭はシャレか?」
酒を片手に男が青年を睨み付けた。
「お、お客様……!?」
新人メイドがどうして良いのか分からずに右往左往している。
そして一言、青年は「迷惑だ」と告げた。
嘲笑、そして冷や水。
青年の顔に勢い良く酒がとんだ。
「引っ込んでろクズ!! 俺はこの女に用があんだよ!」
新人メイドが慌てて青年の顔にハンカチを当てた。
青年の顔からは表情が窺えぬ程に無を感じ、そしてそれを上回る強い闘志を感じさせた。
青年は男の首根っこを掴むと、ぐいと引いて椅子ごと男を地面へ倒した。
男が抵抗を試みるが、凄まじい力でねじ伏せられ、そしてそのままトイレへと連れて行かれた。
「止めろ! 放せ! オイ! オッ……アッーーーー!!」
トイレから断末魔が聞こえると、静かに青年はフロアへと戻った。
トイレでは魂を抜かれた男が便器に顔を突っ込んでいる。
「大丈夫ですかモヒカン様!?」
騒ぎを聞きつけたメイド長が青年の様子を窺った。
「私より彼女を」
低く押し殺したような声で、青年は新人メイドのケアを頼んだ。
「い、いえ。私は大丈夫です」
「いや、あの手の輩は執念深い。何かあれば私を頼ると良い」
「え、あ、ありがとうございます」
新人メイドは青年の強さに心が惹かれたのだった。
翌日、青年は二日酔いに襲われていた。
「ウップ! 変な人お酒かけられたとこまでは覚えてるんだけど──ウップ!」
絶え間なく襲い来る吐き気と戦いながら、青年はすみれの部屋へと向かっていた。
「すみれねぇ、生きてるかー?」
半死人のような声色で部屋を開けた青年の目に、綺麗に片付いたすみれの部屋が飛び込んできた。
「あれ、片付いてる」
窓辺には遠くを見つめるすみれが居た。
そして「嗚呼……モヒカン様……」と声を漏らして黄昏れていた。
「すみれねぇ?」
青年が声をかけると、すみれは静かに振り向いて微笑んだ。その目には何処か儚さが込められていた。
「なんだ? パンツでも見に来たのか?」
「いや──ウップ!」
青年は前に自分で買った酔い止めをのみながら、すみれが遠くに行ってしまったかのような、そんな寂しさを覚えたのだった。