#28 彼女は空から降ってきた
「うーん……」
大樹の葉から零れ落ちた陽光が、肌を撫でる。
この幻想世界で数千年の時を生きる大樹の枝の上。少女はまだ眠い眼をこすりながら、その小さな体躯を起こしていた。
「お陽様はいつも早起きですね! たまにはお寝坊してもいいんですよ?」
その金色の髪を木漏れ日に煌めかせながら、少女は天真爛漫に微笑む。
――その微笑みに応えたのだろうか。陽の光は少女の青い瞳に吸い込まれ、その青をきらきらと輝かせていた。
ふぅっと息を吐き出し、大樹の幹に背を預けると、少女は自分の隣に寝かせていた白枝の杖へと視線を送る。
「……流石に今日は帰らないと、ばあちゃ、怒るかなぁ……」
※※※
「なぁ、ユウ」
村を出発して早一週間。二山ほど先にある港町に向かうべく足を踏み入れた森で、村から持ってきた“幻想世界”の知識をまとめた本を眺めながら、ナナシが口を開く。
「基本的なトコだとは思うんだが、この世界における術式と呪文ってどう違うんだ?」
“この本だけじゃ、いまいちわからなくてな〜”。
人目のない深い森の中故か、ナナシは尖り耳を隠すフードを上げ、ポリポリと首を掻く。
村を出発してから、ナナシは移動の最中でも暇があれば、本を開き、“幻想世界”の学習に勤しんでいる。
言語など基本的な情報は頭にあるらしいのだが、この世界の詳しい情報や状況は、未知のものであるようで、ナナシは目を爛々とさせて知識を貪っていた。
「うーん、簡単に言うと単体の呪文で発動するのが、通常呪文で、複数の呪文を組み合わせて構築するのが術式ってところかな。術式と術式を組み合わせてより複雑な効果を得ようとする場合もあるよ」
「……成程、色々複雑なんだな。魔法ってのも。もっと不思議パワーでフワッと発動するもんなのかと」
顎に指をあてて、ナナシは本のページをめくる。
「ハハッ、ややこしくして申し訳ないけど、“魔法”はまた別物なんだ。大昔に使い手が途絶えた“魔法”を技術で再現しようとしたのが、いまの呪文や術式だね」
「……なるほどねぇ、“魔法使い”も尖り耳と同じく過去の遺物ってわけだ」
開いていた書物をパタンと閉じ、ナナシは若干の疲労感とともに息を吐く。
歩きなれない森の探索中に、知識を詰め込むのは、流石に欲張り過ぎだと気付いたのか、懐に本をしまったナナシは森の広大な景色へと、その視線と意識を戻していた。そして、
「うみゃあーっ!」
「お……」
元気な声がその頭上を飛び越えていく。
ナナシがユウの講義を受ける中、その上空を、村の代表としてパーティに加わる事となったナルムの小さな体が躍動していた。
木の枝から木の枝へ、ポンポンと飛び移りながら、ナルムは見つけた果実を、腰の袋へと放り込む。
ケモノ人の発達した嗅覚・視覚・聴覚は森の中から必要な食料・アイテムを見つけ出し、冒険に確かな潤いと安定をもたらす。
故に、この幻想世界では、パーティにケモノ人を加える事が慣例となっている。
ナルムは幼いながらも、その役割を十分に果たしていると言えた。
「ナルム〜、ほどほどでいいんだぞ。地図を見る限り、日没前には森を拔けられるみたいだからな」
やや重くなり始めた足腰を擦りながら、ナナシは森を抜けた先にある町での休息に思いを巡らせる。
昼食はこの森でとる事になるだろうが、夜には宿屋のフカフカのベッドで足を伸ばせることだろう。
それに、ユウが仕入れた情報によれば、その町のキノコ料理は絶品らしい。腹八分目での到着が望ましいと言えるかもしれない。
「いや……そう上手くいくかな」
「……?」
しかし、楽観的なナナシの見解とは逆に、ユウは少し険しい表情を浮かべて、目の前の道を見据えていた。
「……変なんだ。さっきからずっと一本道を進んでるはずなのに、景色が変わらない気がする」
ナナシの相手をしながらも、森の様子をずっと警戒・観察していたのだろう。ユウは顎に指をあてて、道中で覚えた違和感を言葉にしてゆく。
「僕等の横にいま、すごく太い幹の樹があるだろ? これ一時間ぐらい前から“ずっとある”気がするんだ。どれだけ歩いても僕達はこの樹の前を通り過ぎない。まるで、同じ場所をグルグル回ってるみたいに――」
「なっ……どういう事だよ!? 催眠術でもかけられてるってのか!?」
「うん。もしかしたら強烈な暗示の類が、この道に仕掛けられてるのかもしれない。もしかしたら術者が近くにいるのかも――」
「ナルム! 上から怪しい奴がいないか見えるか!?」
「うみゃ? ナナシ達以外は獣ぐらいしか見えねぇけど……」
森に生い茂る木々の枝を、次々に飛び移り、ナナシ達の周囲に異常がないか観察を続けたナルムは、察知した気配に、その愛らしい鼻をクンクンと動かす。
「ハッキリしねぇけど、上の方に、人っぽい匂いがある。ほんのちょっと、なんだけど……」
「よし……! 賊だな! てっとりばやくぶっ飛ばす!」
「ちょ、ちょっと、ナナシ……!」
口の端をニヤリと吊り上げると、ナナシは大樹の幹へと飛び乗り、転生者ならではの身体能力でぐんぐんと駆け上っていた。
「ら、乱暴はダメだ! 僕達の方が禁域に足を踏み入れた可能性もある! 術者がいるなら慎重に接触しないと――」
「ハッハー! 甘いぜユウ! こういう時は先手必勝! ふん縛ってから事情はお伺いするさ!」
――ユウの懸念通り、ナナシ達は禁域、言うなれば聖域に足を踏み入れてしまっていた。
そして、聖域で乱暴を働く不心得者には乱暴なバチがあたるものである。
「あ……?」
バキッ!
と、突如、落下物がナナシを直撃し、狼藉を働いた転生者の体は、真逆様に大地へと突き刺さる。
それは――運命の出逢いでもあった。
「ナナシィ……生きてるかぁ?」
「あ…が…」
悲惨としか言い様のない状況だった。
落下物……木製の白杖に、顔面を直撃されたナナシは、受け身もクソもない体勢で地面へと落下。
それだけでも痛烈な“バチ”と言えるが、森の怒りはより深く、重かったようだ。
全身を強打した激痛にのたうち回るナナシの上に、続け様に降ってきたのは、お腹から愛らしい音色を響かせる一人の少女だった。
少女を受け止めるクッションとなったナナシは、その全体重を五体で受け止め悶絶……! 自らのHPを大きく減らす破目となった。
「やーだーそんなに食べたら太っちゃうですよーえへへー」
「の……呑気に寝ぼけやがって、このガキ!」
大樹の上から、空腹による目眩で落下したと思しき少女は、ナナシをベッドとして快眠。愛らしい唇から零れる涎とともに、夢の中のご馳走を貪っていた。
そして、
「これは……」
ナナシの顔面を強打した白枝で作られた杖を拾い、観察するユウの瞳が、怪訝に歪む。
古ぼけた外見とは裏腹に、とても精巧に造られた杖だった。全ての属性に対応する魔導石が埋め込まれているし、ある程度の知識を持つユウでも読み解けないような、太古の文字によって刻印がなされている。
道具屋で買えば、数十万はするような、熟練の魔術師向けの代物だった。
とても、この少女の持ち物とは思えないが――。
「や……やや! こ、これは何事でしょう!? 気が付けば、知らない方がたくさん???」
「お…」
そして、大好物食べ放題の夢から帰還した少女は、大きな、くりっとした瞳を丸くして、ユウ達を見ていた。
どちらかといえば、警戒心より好奇心が勝っているような反応だった。
特に、ケモノ人のナルムには強く興味を抱いたのか、感嘆の声とともに、その顔を覗き込んでいた。
「やぁ。驚かせてごめんね。僕はユウで彼はナルム。君は、ずいぶんと高いところにいたみたいだけど……うん、怪我はしてないみたいだね。良かった!」
「あ……」
ユウの言葉と、打撲や擦り傷がないか確認してくれた、その気遣いで、少女は自分が置かれた状況を理解する。
お腹ペコペコが限界のまま、枝の上でウトウトしていた自分はうっかりそのまま落下してしまったのだろう。
それを、見ず知らずのこの人達に助けられて――。
「も、申し訳ありません……! このようなフカフカのベッドまで用意していただ――」
「だ、誰がベッドだコラァ!」
「ひゃ、ひゃあ! ご、ごめんなさい〜」
お尻の下からガルルと吠えるナナシに、少女は飛び跳ねて退避! ユウの背後に逃走していた。
「こら!ナナシ!怖がらせるんじゃない!」
「ヴゥ〜(威嚇)」
半泣き状態で小刻みに震える、小動物のような少女を背中に隠しながら叱るユウに、尖り耳の転生者は痛む身体を這いずらせながら抗議していた。
白い歯を剥き出しにして威嚇する様は、果てしなく大人気がない。
「うみゃ〜これじゃ、どっちが子供で、どっちがケモノ人かわからねぇみゃ」
「ナルムゥ! こっちは垂直落下に転げ落ちた上にハイフライフロー喰らってんだぞ!」
自分の隣に座り、呆れたように呟くナルムに吠えるも、ナルムに頭を“よしよし”と撫でられ、ナナシはいよいよ大人としての面目を失う。
「くぅ……何でこんな事に」
「熟慮せず、乱暴な手段を強行するからだよ。いいかい? “幻想世界”の自然は多くの神秘に守られてる。そこへの敬意を忘れて短慮に出れば、容赦なく“罰”はあたる――というわけさ」
「うぅ……」
――思い当たる節はある。
あの瞬間、落下物の直撃だけであれば、ナナシの体幹で態勢は立て直せたかもしれない。しかし、樹から突然溢れ出した樹液が、ナナシの足を絡め取り、落下を不可避のものとしていた。
この森の逆鱗に触れたのは間違いないのだろう。
「まぁ……悪かったな。どう見たって、お前が“俺らを閉じ込めてる術者”だとは思えないしな――」
「うぅ……?」
ナナシのシュンとした様子から、この“メチャメチャおっかない人”が、どうやら自分への怒りを解いてくれたらしいと察した少女は、ユウの背から恐る恐る顔を出し、ナナシの様子を伺う。
「あの……おケガ、しちゃったんですか……?」
「ん……? いや、ケガはしてねぇかな――」
あまりに申し訳なさそうな少女の様子に、ナナシは少しバツが悪そうに応える。身体はあちこち痛むが、そこは転生者。常人とは頑強さが違う。
そして、自分を気遣うナナシの心の機微を感じたのか、少女はペコリと頭を下げる。
「ごめんなさいです……。私が、そそっかしいから。ばあちゃにも木登りは“翔べる”ようになってからやりなって言われてたのに――」
少女は目を潤ませてナナシに謝罪すると、ユウが拾ってくれていた杖を受け取り、意を決したように顔を上げる。
「まだ練習中のだけど……“やってみます”!」
「へ……?」
少女が杖をクルッと一回転させると、杖に埋め込まれた“魔導石”が緑色に輝き、温かな光がナナシの身体を包み込む――。
「精霊さん、精霊さん、この人の痛い痛い、どうぞ癒やしてあげてください――」
「お、おお……!?」
少女の柔らかな声音が、歌声のように、森の中に溶け、風が吹き抜けると同時に、ナナシの身体を蝕んでいた痛みは、嘘みたいに消えていた。
確かめるように腕をグルグルと回すナナシの姿に、成功を確信したのか、少女は“やったー!”と飛び跳ねる。
「す、すごいな……回復呪文ってやつか? ちびっこいのにやるじゃねぇか!」
「ちびっこいは余計です! イーッ!」
背丈の事は気にしているのか、少女はベロを出して抗議する。
消費アイテムを媒介しない回復は、ナルムも初めて見る事象であり、彼はその耳を好奇心にピクピクと上下させていた。
そして――、
「ユウ……?」
「……定形の呪文の詠唱じゃない。自然、精霊との対話――いや、そんな馬鹿な……」
解説を求めてナナシが視線を送った友人は、何事かを呟きながら、青ざめた顔で、少女の姿を見つめていた。
「君、これは……これは“魔法”、じゃないか」
「……?」
震える声で尋ねるユウに、少女は愛らしく首を傾げて、不思議そうに肯く。
――何で、そんな当たり前の事を聞くんだろう?、と。
いま運命の芽は芽吹き、縁は結ばれる。
尖り耳と同様に、この“幻想世界”から失われた幻想。
それがいま、無銘の勇者一行の前に、愛らしく鎮座していた。




