#23
「な……」
「おっちゃん、この絵の子……誰だ?」
その瞬間、マクソンは己が成すべき事を忘却していた。
――正確には、間一髪、"踏みとどまれた"というべきか。
自らを生け贄として、体内の術式を発動させようとしたマクソンは、己のズボンを掴む幼子の手に、苛烈なる”自爆”を思い止め、立ち尽くしていた。
気圧されたマクソンを、ケモノ人の少年――ナルムの眼差しが、真っ直ぐに射抜く。
「き、君は……」
「おっちゃん、この絵の子……おっちゃんの大事な人なんじゃないのか?」
厳しく、問い詰める眼差しだった。
ナルムが”絵”と告げたのは、マクソンのズボンのポケットから零れ落ちた、一枚の写真である。
ナルムに”写真”という知識はない。それは”転生者”により、もたらされ、アストリア王都にのみ伝えられた稀少なる技術だからだ。
そして、この一枚はマクソンにとって、忘れ得ぬ、思い出の一枚である。
――少年の指摘通り、そこには、マクソンの大切な、大切な人物が写されている。とても、大切な人物が。
「なら……ならなんで、おっちゃんは"いなくなる"ような顔をしてるんだ!?」
いまのマクソンの表情は、ナルムの母が別離の際に見せた表情と同じだった。――自分が怪獣の牙に飲まれる事を承知しながら、ナルムを列車の外に放り投げた母の表情と。
目に涙を貯めた少年の訴えは、少年の事情を察せぬまでも、鋭くマクソンの胸に突き刺さった。
だが、
「私は……」
軍人なのだ。この国の、世界の命運を託された軍人なのだ。
「――ここで、引くわけにはいかんのだ!」
「……!」
マクソンはナルムの手を払い、あえて手荒く突き飛ばすと、自分と同じく体内の術式を起動させんと覚悟を決める三人の部下に、視線を送る……!
「さらば……! 我等はここにゼルメキウスを封印! 撃滅する……!」
それぞれの体内の術式が、魔力の高まりを示す輝きを放ち、破滅の凶獣、ゼルメキウスを包囲する……!
しかし――、
【………………】
「……!」
マクソンは視る。ゼルメキウスの口の端が、確かに"嗤う"のを。
「ち、中止……! 各自、術式の発動を停止せよ……!」
マクソンの即断はまさに英断であった。
生じた衝撃波によって、各々の身体が、岩盤に手痛く叩き付けられようと、それぞれが無駄死にする事はなかったのだから。
「ば、馬鹿な……」
マクソンは、ゼルメキウスの体躯を覆う七色の煌めきに、我が目を疑う。
自分達を吹き飛ばしたのは、まさに自分達が発生させようとしていた"絶界"であった。
マクソン達の体内の術式に、干渉出来ない事を悟ったゼルメキウスは、"絶界"の術式自体を学習・修得し、己を防護する盾としたのだ。
もし、マクソン達が"絶界"を発動させていた場合、ゼルメキウスの"絶界"により相殺され、命だけが無駄に失われていただろう――。
(なんという……怪物だ)
もはや"怪獣"という次元ではなく、この"幻想世界"自体の天敵種であるといえる。数多の魔物・怪獣を操り、幻想の象徴たる魔術すら蹂躙する生物。
幼体にも至らぬ"胎児"の状態でこれなのだ。
こんなものが、もし成体になったなら――、
「……! き、君……!」
「……はぁ、はぁ……」
朦朧とするマクソンの意識に、突き刺さる驚愕。
迫るゼルメキウスを前に、死を覚悟したマクソンの前に、小さな影が、幼い生命が立っていた。
「ナ、ナルムぅ……!」
その、あまりの無謀に、森の中から幼なじみのシシィは惑い、泣き叫ぶ。
精霊式棍棒を、震える両腕で構えるナルムの足は、ガクガクと恐怖に笑っていた。
「な、何をしている……! 下がりたまえ! 君のような子供が、そんなに足を震わせて……早く、逃げるんだ!」
「うん。怖い、怖いよ……」
人一倍、怖がりのナルム。幼なじみのシシィも、親友のユウも、そう認識している。
けれど、彼が真に何を怖がっているのか――把握しているとは言い難かった。
彼が恐れているのは、怪獣でも、悪霊でも、自分がどうにかなる事でもない。
「オイらの、オイラの目の前から、誰かがいなくなるのは……たまらなく怖いんだ!」
「……!」
それが、彼の真実だった。
母のように、大切な人が突然いなくなる事が、誰かが自分のように大切な人を奪われる事が、恐ろしくて、恐ろしくて堪らなかったのだ。
思い切り振り抜かれた、精霊式棍棒が、ゼルメキウスの"絶界"に弾かれて砕かれる。
残った柄を剣のように構え、ナルムは震えにカチカチと鳴る歯を食いしばりながら、マクソンの前に立ち続けていた。
(……な、なんという勇気ある少年だ)
マクソンは驚嘆に息を飲み、少年の小さな背を見上げる。
地面に這いつくばり、身体を満足に動かす事もままならないマクソンの瞳に、その背はとても大きく映し出されていた。
――だが、
【――――――――】
「く……あぁっ!?」
ゼルメキウスの目が妖しく細められると同時に、微弱な、だが、十分な苦痛を与えるに足る炎が、ナルムの両腕にまとわりつく……!
……あえて火力を絞った術式を用いて、なぶり、いたぶっているのだ。
このゼルメキウスという悪魔には、確実に悪意が、"残忍"という知性がある――。
「うぁ……うぁああああ――っ!」
「少年……!」
咄嗟の行動。
動かない身体を無理やりに動かし、マクソンはナルムに覆い被さる事で、襲いかかる炎を肩代わりしていた。
「お、おっちゃん……!?」
痛みに悶えながらも、ナルムはマクソンの行動に驚き、狼狽していた。
対象が変わった事を認識したゼルメキウスは、舌打ちするように未成熟な口内を鳴らし、術式の火力を次第に強める――。
「お、おっちゃん……! やめろ! おっちゃんがいなくなったら、あの子が……!」
「思い違いをするなッ‼」
己の腕の中でジタバタともがくナルムを、マクソンの大人の怒号が一喝する。
驚き、目を丸くするナルムに、マクソンは炎に焼かれているとは思えぬ、優しく穏やかな表情で告げる。
「君は、忘れている。"君自身が誰かにとって大切な存在である"事を」
「……!」
マクソンの言葉が、胸に刺さると同時に、ナルムのつぶらな瞳に、目を泣き腫らしながら、こちらに駆け寄らんとするシシィの姿が映し出される――。
「その君を見捨てることを、私の大切な人は、良しとしない」
「……!」
強い大人だ。凄い人だ。死の際とすら呼べる状況で揺るがぬ優しさと矜持――ナルムはそれを悔しさとともに噛み締める。
なんにもできない。勢いで、必死に前へ出たけど、結果として、自分は大人に守られる事しか出来ていない。
マクソンを焼く炎が赤々と映る瞳から、大粒の涙が零れ、食い縛った歯から嗚咽が漏れでそうだった。
そんなナルムのすぐ近くに、シシィが勇気を振り絞り、ゼルメキウスへと投げ放った小石が転がる。
それをさせる自分という存在を認識しながら、ナルムは必死に幼なじみへと叫ぶ。
「シ、シシィ……! やめろ……!」
逃げて、逃げてくれ……! 喉が張り裂けそうなほど、嗚咽混じりに叫ぶナルムを嘲笑い、ゼルメキウスはそのアンバランスなまでに発達した巨脚を前に踏み出す。
悲歎を、絶望を味わい尽くすように、醜悪な顔面を突き出し、破滅の凶事は、ナルム達を一掃する術式を、高周波の詠唱によって発動させる。
「あ……ああ……」
お願いだ。世界が、どんなに残酷でも。
(この優しい人達から、明日を奪わないで……)
祈りと、絶望とともに、閉じられた瞳が光と熱を感じた瞬間、
「……ったく、本当にギリギリだったじゃねーか。おっさんもナルムも無茶しやがって――」
「……!」
聞き覚えのある声が、最も聞きたかった声が、ナルムの耳朶を撫でる! それは――、
「よく頑張ったな、ナルム。もう大丈夫だ」
「ナナシッ‼」
勇者立つ!
ナナシが構えた、鋼の鱗が重なりあったような刺々しい盾が、ゼルメキウスの術式を弾き返し、深夜の絶望の中に、閃光を舞い散らせる。
間一髪、駆け付けた、尖り耳の転生者は、斬った怪獣の血によって"盾"と化していた得物を、元の日本刀へと戻し、改めて気骨ある軍人と勇敢な少年をなぶったゼルメキウスと、対峙する。
「……仕切り直しだ。今度は泣かすぞ、クソ野郎!」
【―――――】
確かな怒りを灯したナナシの瞳が、ゼルメキウスを射抜き、第2ラウンドは始まる。
激戦の夜、その夜明けが近づきつつあった。




