#12
怪獣。それは、この幻想世界に突如として出現した災厄にして絶望である。
ナルムは自らの視界を支配した、その黒く禍々しい一本角を覚えている。母と自分を乗せた機関車の車体を貫き、引き千切る常軌を逸した暴力。世界は瞬く間に暗転し、ナルムは母を、自分を育んでくれた、優しい生命を喪った。
そして、その常軌を逸した暴力も、紫紺の鎧装の如き体皮と、電光を帯びた二本角を持つ別の怪獣によって蹴散らされ、退散。
結果的にナルムは命を拾う事となった。列車から投げ出された自分を身を呈して庇った、母の生命と引き換えに。
この体験はナルムの心に、深い恐怖と傷痕を残した。
――ナルムが極端な怖がりになったのも、この日を境にしての事だった。
※※※
「悪い、勝手に上がるぞ」
「うみゃっ!? ナナシ!?」
帰宅とほぼ同時に現れた、突然の来訪者に、ナルムの喉から、すっとんきょうな声が漏れる。
「へぇ、ちゃんと整理整頓出来てるな。凄いじゃないか」
「うみ~掃除とかはシシィの母ちゃんやユウも手伝ってくれるから……」
恥ずかしそうにテーブルの上のものを片付けると、ナルムはせっせと水を入れた瓶とコップを持ってくる。
「……ごめん、オイら普段、そんなに茶とか飲まねぇから、真水ぐらいしか――」
「かまわないさ、何なら俺が茶を煎れてやってもいい。記憶がないから適当だが」
「適当みゃか!?」
「……すげぇ適当だったのに美味いみゃ」
「うん、案外、茶道絡みの偉人だったのかもしれんな。千利休とか」
「うみゃ~絶対違うみゃ。偉い人は茶葉の容器を逆さまにして、直接お湯にぶっこまないみゃ」
ナルムの抗議に、ナナシはかかと笑い、自分の煎れた茶を喉に流し込む。
(千利休、か――)
自分の口から、自然に流れ出た名に、ナナシ自身が驚いていた。
……不思議なことに"日本"の偉人、英雄の類いのデータはしっかりと頭に入っているようだった。だが、それは記憶と呼べるものではなく、飽くまで知識だけが脳内にインプットされている印象である。
全く、我ながら謎の多い事だ。ナナシは溜息を吐き、紅茶の中に映る自分を見つめる――。
「……ナナシはオイらを叱りに来たのか?」
「ん……?」
若干、個人的な物思いに耽っていたナナシは、ナルムからの予期せぬ言葉に、尖り耳をピクリと反応させる。
「――いや、まず何故そう思うのかがわからん」
「うみ……ユウはまだ頑張ってるのに、オイらだけ帰っちまって。あと、ユウがずっとオイらを心配して一緒に暮らそうって言ってくれてるのに――」
「意地を張って、ここに一人で住んでるって訳か」
"うん……"と頷くナルムに、ナナシは真剣な眼差しで告げる。
「……"母ちゃんの思い出まで奪わないでくれ"」
「え……?」
突然の言葉に、目を丸くするナルムの頭に手を乗せ、ナナシは真剣な面持ちのまま、言葉を続ける。
「あの卵の中で聴いた、お前の慟哭だ。あの慟哭を聴いた時、俺は転生れる事を決断した」
「転生れる事を……?」
「薄情な話で、それこそ叱られるような話だが、あの卵の中で、俺はお前達の窮地を大体把握していた。……だが、何故か"俺は生まれてはいけない"、そんな気がしていた」
「生まれちゃいけない……? ナナシが?」
「ああ、記憶がないから、ハッキリとはわからんが、俺には俺が危険な存在に思えた。自分に対する恐怖のようなものが強くあった。だが」
子供一人で暮らすには広い空間。寂しげな空気が漂う室内をじっくりと眺めながら、ナナシは口を開く。
「お前の慟哭は放っておけなかった。……この家だろ、母ちゃんの思い出」
他人には広く寂しげな空間に見えても、ナルムにとっては違う。多くの思い出が、記憶が形となって染み付いている大切な景色だ。……その気持ちは決して否定してはならないものだ。ナナシが、それを知ってくれている、理解してくれていると悟ったナルムの瞳から大粒の涙がポロポロと零れ落ちる。
「……母ちゃん、父ちゃんが死んでからずっと一人でオイらを育ててくれたんだ。いっぱい叱られもしたけど、嫌な思い出なんか一つもねぇんだ」
ナルムはポケットから、幼い自分が描いた"母ちゃんの絵"を取り出し、絵の中に輝く微笑みに涙を落とす――。
「余所の大陸に来た転生者が作った、"じょうききかんしゃ"に乗りてぇってオイらが言ったから、母ちゃん、オイらを一緒に行商に連れてってくれたんだ。でも、それで――」
"怪獣に、やられちまって――"。
涙に飲まれ、言葉に詰まるナルムの頬を拭い、ナナシは懸命に言葉を紡ごうとするナルムの瞳を、じっと見据える。
「母ちゃんにはもっと先まで、楽しい事が、嬉しい事があったはずなのに、オイらがワガママ言ったせいで、母ちゃんの一生は終わっちまった! だから、だから……!」
幼い魂の慟哭が、響く。
「母ちゃんの思い出と、母ちゃんの物は、オイらが生きてる間は絶対残しておきたいと思ったんだ! オイらが生きて、母ちゃんの思い出をずっと、ずっと先の未来にも残してぇって思ったんだ!」
ずっと、堪えていた想い。
ずっと、ナルムの胸に塞き止められていた、感情の洪水を受け止めるように頷き、ナナシは席を立つ。
「……有り難うな、ナルム」
「うみ……」
「俺は俺が転生れた理由に、確信が持てた。俺には記憶もないが――」
お前達の想いのために、戦おう――。
そう言って微笑むナナシの表情は、ナルムがずっと思い描き、憧れた勇者の表情だった。
そして、自分を抱き上げる腕の温かさと力強さは、父ちゃんのそれを思い起こさせる、そうありたいと憧れを抱かせるものだった。
「それを確かめに、俺は来たのさ。母ちゃんの思い出、俺にも聞かせてくれるか……?」
「うん、うん……!」
憧れの勇者の要望に、ナルムは目を輝かせ、キッチンへと向かう。
「母ちゃんは料理がとっても上手かったみゃ‼ 母ちゃんの服とかは、虫とかに食われたら嫌だからシシィの母ちゃんに預かってもらってんだけど……」
"このエプロンはオイらが継承したみゃ‼"
胸を張り、告げるナルムに、ナナシは頬を緩め、家の扉の前で、話を聞いていたユウは熱く頬を流れる涙を拭っていた。
(有り難う、ナナシ。貴方が来てくれて――本当に良かった)
独りの強者ではなく、他者の想いに寄り添い、共に歩める者。
自分達が出迎えた転生者は、間違いなく、真に勇者と呼べる男だった。
確信したユウは、避難所への物資搬入という自分の戦いへと戻る。
――そして、その夜、世界を揺るがす絶望との戦いが始まった。




