第八話 「落札したもの その五」
善を目で追う清子の目に映るのは、本棚だ。
赤茶色で艶のある高級そうな扉付きの棚は、部屋の入口のすぐ脇にあったようだ。
一度はすぐそばを通りかかったのに気づかなかったのは、清子の煩悩というかベッドの醸し出す妖艶な気配のせいだったのだろう。
同系の棚は間に背の低い同じく扉付きの棚を挟んでその奥にもう一つ壁を背に立ち。
さらにその奥には扉のない本棚が向こうのキッチンの方まで三つ並べられている。収められている本のほとんどは外国語の背表紙ばかりだ。
善は合計六つある棚の内、奥にある方の扉付きの棚の前で立ち止まった。扉には植物の蔓が絡みつくような模様が彫られていて、取手は金色のノブだ。
そこから一冊の本を取り出し、善はそれを「グリモワールの写しが載っています」と言って清子に渡すと、キッチンの手前にあるカウンターテーブルの奥に行った。
「読んでみてください」
「……はい」
頷いてはみたものの、表紙にも英語、中も英語で書かれたそれを清子には理解することができなかった。
そもそもグリモワールという言葉自体耳慣れたものではない。
それが何かと善に尋ねると、「魔導書です」と。
「魔導書……」
そう聞けばイメージもつく。
清子が思い浮かべたのは、とんがり帽子をかぶった魔女だったが。しかし、とある魔法を題材にした映画を見たことを思い出し、イメージを作り直す。
だから、カラスとか猫とかネズミとか、それと不気味な植物、ヘドロのような液体の詰められた瓶、そして呪文のような気味の悪いものだ。
作り直してみたものの、それはとんがり帽子に抱くイメージと変わらなかった。きっと魔導という言葉に対するイメージは、万国共通に違いない。
そう思った清子が開いたページの先には、あらかじめ具体的に想像していたものとは全く違うものが描かれていた。
バツ印や円、三角形、星、曲線、直線、点。そういうものが繋がって出来た不思議な模様と、何かの絵らしきもの。おそらく文章なのだが一つがどういう形をしているのかすら判別がつかない文字の羅列。それからこれは絶対に創作だと思われる記号。
そこに不気味さはまるでなく、むしろ何かの学術書のような印象ですらある。
そのせいで清子は、「これはなんですか?」と口走っていた。
善は、カウンターの方から赤ワインの入ったグラスともう一つウィスキーか何かの入ったグラスを持って来るところだ。
「だから、魔導書ですよ」
どうぞ、と善は清子の前に赤ワインの入ったグラスを置く。
「もっと気味の悪いものだと思ってました……」
言って清子はグラスを気にせずまた本に目を落とした。
「確かにそういうものもあります。それだって、書いてあることは不気味なものですよ」
「そうなんですか……。どんなことが書かれているんですか?」
「いわゆる降霊術というものです。でも、ここに書かれている方法はウィジャボードのようなおもちゃを使ってやることとは違う。
たとえば、ウィジャボードやコックリさんでできることが質問と返答という単純なことのため、むこうもただイタズラに返事をしてくれることがあるだけですが。
ここにある魔法陣を使って行われるのは、完全な悪魔の召喚です」
「悪魔の……」
聞いてみたものの、やはり実感が沸かない。
しかし今はそれを真に受ける必要があるのだ。どうにかその実感を得ようと清子は読めもしないページに目を凝らす。
「そう。ですが、これにはつまり先ほど言った祓う方に匹敵する力がなければ実現できません。
白黒どちらの魔術についても共通していえることですが、強力な魔法や召喚にはそれなりの供物というものが必要になります。
それが、いわゆる魔術として連想される血や骨のように不気味な印象を与えるものです。
完全な召喚には、それとさらに印や陣が必要になる。それだけでなく、印や陣の正しい配置。術を行う日、状況、時間、文言。どれがズレても術は成功しない。
それでももし召喚が成功したのなら、召喚者は異次元の存在の力を借りて様々な効果を体験することができるというわけです」
様々な効果。
清子はそれを「空を飛ぶ、とかですか?」と訊くと、善は深く頷いた。
「そうです。他にも人の心を操作したり、予知だったり、少なくとも普通の人間にはあり得ない力を発揮することができるようになる。もっとわかりやすく言えば、超能力を故意に得る、ともいえますか」
なるほど、と感心する清子だが。一つ疑問もある。
「でも、雅は普通の子でした。すごい力なんて持っていなかったと思います。だから、悪魔を呼ぶなんて成功するはずが……」
清子が言うと、善は「だからです」と雅の方に目をやった。
「もしも息子さんが降霊術を行いその成果を得たのだとすれば、それは身の丈に合っていないこと。言い方は悪いですが。身の程を知らないまま異次元の存在を召喚には成功してしまったために、成果を得る前に異次元の存在によって供物として魂を奪われてしまったとも考えられるんです……。だから息子さんは死んでしまった」
雅の魂は奪われた。
雅の死について、清子がこの狂った意見にだけ強い説得力を感じられるのは、あの声のおかげだった。
あの声はやはり魂の叫びだったのだ。
今の今まで実感を得られなかった悪魔や魔術という存在が、突如現実のものとして近くにあるような気がした。
未知の感染症や毒物によるあり得る死ではなく、また別の不可解な死として飲み込めばきっと先へは進める。
清子はテーブルのワインを一口に飲み干した。
「でも、雅の部屋にここに書いてあるようなものはありませんでした。供物と思えるようなものも。それなのに、悪魔の召喚が成功することはあるんですか?」
はい。
即答した善の返事は、今自分で話したことに矛盾している。
細かな条件の一つにでもズレがあれば成功しないという術のはずなのにだ。
「おかしいです。力がなければ術は成功しないって言ったじゃないですか。雅にはそれがなかったって言いましたよね。それでもですか?」
「はい、できます」
「どうやって、そんなこと……」
無い知識を絞り出そうとしても、何が閃くはずもない。
それでも清子は考えていた。
雅にそういう偶然が起きる可能性、思い出せる限りあの子に不思議なことはなかっただろうか。
例えば壁に向かって話しかけていたとか、知らない友達がいたとか、どんなことでもよかった。
一つでもそんな奇妙なことが思い当たれば、雅の魂が近くにあると信じられる。
「そ、そういえば、雅は晴れ男だって言われたことがあるんです。これって、そういう素養があったって言えませんか?」
いいえ。と善は首を横に振った。
「それはただの偶然でしょう。異次元の存在と対話する力というのは、聖悪どちらにおいても、あれらに魅入られるほどの厚い信仰心をもっていることが大前提です。つまりは信じる力、心の底から異次元の存在を信じている者だけが、あれらを知覚できる」
「じゃあどうして雅は……」
「力を借りる、という言い方をすればわかりやすいと思います」
「力を? でも、そのために召喚するんですよね?」
「そう。だから、召喚を行うためにまた別の力を借りるんです」
そう言うと善はグラスの中身を一口飲み、立ち上がった。
行く先は、また扉のついた棚の前。
今度はその一番背の低い棚の扉を開き、何かを取り出した。
「たとえば……」
言って善がテーブルの上に白い丸い木箱置いた。
しかしそれは単なる木箱ではなく、銀色の十字架と同じく銀色の不思議な文字のようなものがびっしりと彫られた変わったものだ。
善は一度置いたそれを再び手に取り、慎重に蓋を開けて清子の前に置いた。
「これは……お皿……?」
直径五センチ程度の丸い銀色の皿の内側には複雑な模様が描かれており、何かが撥ねたように全体的に斑に茶色っぽく変色していて、特にその中心付近の色が濃くなっている。
「正確には、盃です」
「盃、ですか……」
「はい。これは今から数世紀も前、白魔術のために初経の血を溜めていたものだそうです」
「……実際に?」
血、と聞いて改めて盃を見てみれば、変色した痕がそう思えないこともない。
「ええ。とはいっても、正式な記録として書物に残っているわけではありませんし、これを使って魔術を用いていた村ももうありません。信じるか信じないかは、という話しですがね」
「それを、どうして霧峰さんが?」
「大枚はたいて譲ってもらったんです。なにせ相手は廃墟を荒らす盗掘者ですからね。一本や二本じゃ納得しなかった。おかげで祖父からの分前を空にしてしまいましたよ」
そう言って善は自嘲ぎみに笑った。
一本を百万だとして、この古い銀の盃にいくら使ったのだろう。
ぞっとして清子は盃から身を引いた。
「そ、それで霧峰さんは、悪魔を……?」
「まさか。というか、これは白魔術に使われていたものですからね。悪魔の召喚に使えるかはわかりません」
だったら、その白魔術を試したことがあるのか。
好奇心で清子は訊いた。
すると、善は「もちろん」と頷く。
「一度だけですがね。だからこそ、これに大金を使った甲斐があったと断言できます」
「ど、どんな効果が……あったんですか……」
雅の死に一歩ずつ近づいているような気がしていた。
その静かな興奮のせいで喉が乾く。
清子はワイングラスに手を伸ばしたが、中はもう空だった。
善は、「追加を持ってきましょう」と立ち上がり、またカウンターの方へ行った。
そうして善がワインのボトルを持ってくるのに何秒かかっただろうか。
待ちきれず、清子はグラスにワインが注がれている最中に「それで、どんな効果が?」と訊いていた。
「あなたが視えました」
トク、トク、と口を鳴らすワインボトル。
それを前かがみになって注ぐ善の華奢な姿が、いやに絵になっていた。
「ま、またからかってるんですか?」
頬が熱い。鼓動が勝手に早まる。
きっと酒のせいだ。
言い訳を頭に巡らせながら、清子は自分の頬に手を当てた。
「いいえ。本当です」
「へ、へんなこと言わないでください」
「……本当ですよ」
もう一度言うのと同時、善はワインボトルの口を上げた。
「綿串は信じませんでしたけどね。あの時、確かに俺はあなたを視た」
そう言う善の目は真っ直ぐで、表情には微笑みすら浮かんでいない。これまでとは少し違う張り詰めた空気が、善には漂っていた。
おかしなことを考えているのは自分だ。
ふと我に返り、清子はその真っ直ぐな目を見返す。
「今から十年ほど前です……」
善は、この銀の盃を手に入れてからずっと、これを使う機会を考えていた。
本当はすぐにでも真偽のほどを確かめるために使ってみたいところだったが、これを使って未来を視るためには、初経の血が必要だと聞いていた。
当然そんなものを簡単に手に入れられるはずもない。
実際、使ってみたいという好奇心に突き動かされてそういうものを探したこともあったが、通報され父親にこっぴどく叱られたのをきっかけに諦めていた。
諦めたのはそれだけでなく、冷静に考えてみれば老けた自分を視たところで何も面白くないと思っていたからでもある。
何か視たいものが見つかったら、その時は本気で供物を探そう。
自分に言い聞かせていたのが。その頃、高校入学から始めていたオカルト情報サイトにライターとして雇って欲しいと現れた綿串という女によってすぐに好機を得た。
別の世界。
そんな言葉を、ある日綿串はあのイイガミシュウサク失踪事件の関係者から聞いたという。
この一言をきっかけに閃いた。
もしも盃が本物で自分の望む未来が視えるのなら、きっと事件に関する何か情報を得られるはずだと。
そこでまた善は初経の血を探そうと思い立つが、その入手難易度が高いことに変わりはない。
だが、この時善は供物には知恵が必要だということを思い出していた。
つまり、初経の血は人間のものでなくとも、環境が整っていれば上手くいく可能性はある。
知り合いの業者を頼り、一ヶ月後には現地ノルウェーで雌牛の初経の血を手に入れ。そしてこの盃が使われていた廃村へと向かった。
最も日の高い頃、風が一切吹かず、雲もなく、鳥もおらず、虫の目も向いていない、草木も囁きを止め静まり返った独りの瞬間。盃に初経の血を満たし、決して波立たせず、日陰を作らずに覗き込む。
それが実行できる瞬間を待つのに、二ヶ月も待った。
そしてようやくその時を得て、血で満たされた銀の盃を覗き込むと。
太陽の光を反射してルビーのような輝きに変わった盃に、人の姿が映っていた。
「おそらく信仰心のない牛のものだったからでしょう。ほんの数秒、薄い影のようにしか視えなかった。だが、あれは確かにあなただった」
善は、はっきりと言い切るが。
「でも、十年も前のことなんですよね。本当に私だったんですか?」
何か視えたことは疑っていない。だが、それが自分だったと言われてすんなり受け入れるかどうかはまた別の話だろう。
清子は戸惑い。だから質問は、確認というよりも単なる好奇心でしていた。
善は小さくかぶりを振った。
「古い記憶ですしね。正直に言えば、勘違いだったのかもしれないとも思っています。綿串の言う通り、ただの見間違いだった、錯覚だったかもしれない。
だけど、今日あなたに会って。あれはあなただったと、そう確信した……」
真剣に話す善だが、だからといってやはり納得できるようなものでもない。
わかりました、とそれだけ言って。清子は話を先に進めるつもりで「そのことと雅のことと、何の関係が?」と訊いた。
すると善は短いため息をひとつつき、そして自分のグラスに一口分ワインを注いで飲み干した。
もしかして、自分が信じていないと思われたのかもしれない。
そう思って清子は、理解はしている、と声を掛けようとしたが、もう善に漂う空気感は元に戻っていた。
「今の話を信じてもらったことを前提に話します」
前置きに、清子は「はい」と背筋を戻した。
「私が言いたいのは、これが本物だった、ということなんです。私には異次元の存在と対話するだけの力はありませんが、それでも奇跡は起こった。
つまり、この銀の盃自体が強い力を持っているから、私の術が成功したということです。わかりますか?」
善があえてそう訊いているのは、言っている意味が、という意味ではなく。雅に何が起きたのかがだろう。
「……わかりました」
清子はそう答えて、背後の雅を振り返った。
「雅も、強力な力が込められた何かを使って悪魔を召喚したかもしれないんですね?」
「そういうことです。これが、術者本人に力がなくとも強大な力を得られる可能性。
ですが、息子さんの呼び出したものが神の類か悪魔と呼ばれるものかはわかりませんし。なにより神や悪魔が本当にそういうものなのかもわからない……」
だから私はそれらのことを、異次元の存在、と呼ぶんです。
「異次元の存在……」
清子が呟くと、善は頷いた。
「息子さんは、この銀の盃のような本物を触媒にして身の程知らずにも召喚術を成功させてしまった。そして、その衝撃に耐えきれず今のような状態になってしまった。そう考えると息子さんの不可解な状態にも納得がいくような気がしませんか?」
もう、清子にはそれしか信じようがないとすら思えた。
どれだけつぶさに調べても矛盾が生じる医学なんかよりも、よっぽど。
木を探すなら森へ。
雅に起きている不可解な現象の答えは、不可解な現象の中にしか見出せないのだ。
幻聴を魂の叫びと捉えるか、それとも環境音に対する脳の理解と捉えるのか。
息子の死は現代医学では解明できない死なのか、異次元の存在によって魂を奪われた結果と考えるのか。
『要はそれをどう信じるか』
善の言葉の意味がようやく理解できた。
そして、自分が望む想像できない未来はどちらにあるのかが。
「霧峰さん」
清子は立ち上がり、依然立ったままの善と目を合わせた。
「触媒、探します。雅が何を使ってこうなってしまったのか。もしかしたら、それを使って取り戻す方法があるかもしれない」
すると善は、にっ、と無邪気な笑顔を浮かべ。
「協力させてもらいます」
そう言ってワインボトルを掲げた。




