第六話 「落札したもの その三」
『どうやら俺は異世界転生してしまったようだ……』
添付された画像にあるその一文は、もうすでに見たことがある。
美杏は、いったいどういうつもりで同じ画像を送ってきたのだろうか。
きっとその答えは、残された美杏の訴えにあるのだ。
「鈴希さん、あの……」
起こそうと思って声をかけたものの、清子はふと昨日のことを思い出した。
それでどことなく気まずい空気を感じ、今の呼び声で鈴希が目を覚まさなかったか、むしろ寝息を確認する。
鈴希の寝息は続いていた。
ほっと胸を撫で下ろし、美杏への連絡は自分ひとりでしようと清子は一旦外へ出ることにした。
外はまだ暗い。
それは窓の外が暗いのでわかっていたことだが、車も人通りも、街が寝静まっていることには気づいたばかりだ。
改めてスマートフォンを覗くと、時計はニ時二十四分を示している。
美杏は眠っているだろう。
とはいえ、起きるまで待つのもおかしい気がし、起こすのは悪いと思いながらも着信履歴から美杏へ電話をかける。
四度目のコールで美杏は電話に出た。
「もしもし、美杏ちゃん?」
『……はい……』
今起きたばかりなのか、美杏の声はぼけている。
「ごめん、お母さん眠ってて。お兄ちゃんのあれ見たんだけど……」
清子が言うと、スピーカーの向こうでガサガサと音を立て、美杏が大きく動く。
『そう! 変だと思わない?』
目が覚めたのか美杏の声ははっきりとしていた。するとその向こうで小さく『ごめん』というのが聞こえた。
「美杏ちゃん。どこにいるの?」
清子の質問に、美杏が嘆息する。
『友達の家……ってそんなことより。ちゃんと読んでないでしょ』
友達。リカちゃんの家だろう。
文博との関係性もある。それで美杏が落ち着くのなら仕方のないことか。
清子は深く追求するつもりはなかった。
「一応、お礼のお菓子とか渡すんだよ」
『うるさい。そんなの今はどーでもいいでしょ。それより、読んだの? 読んでないの?』
「読んだよ。でも、同じだった」
『全然違うってば、もう一度読み直しなよ。連絡するのはそれから』
言うなり美杏は通話を切ってしまった。
もう何度目か。独りになってしまった清子の脳裏には、美杏の『全然違う』という言葉が残されていた。
最初の一文が同じだったのに、全然とは。
内容を確かめるために、清子は美杏のメッセージを遡って最初に送られてきた画像を拡大した。
『どうやら俺は異世界転生してしまったようだ。しかも樽に。樽だぞ、信じられない。普通こういうのは、悪くてザコモンスターだろう!それがどうして樽なんかに……。絶望する。もしかして、あの時ハマったバケツが原因か?』
『ツヨシがふざけて俺を突き飛ばして、それで俺はつまづいて道端にあったポリバケツに頭から突っ込んでしまった。ツヨシはゲラゲラ笑っていたけど、その時俺は打ちどころが悪くて脳震盪を起こしていたんだ。世界がグルグル回っていて、それから……』
『向こうの世界での最期だと思う記憶は、車のクラクションとツヨシの「あっ」という声だけだ。たぶん、その時に俺は死んだ。まったくツイていない。けど、こんなのあんまりだ。俺はこれから、樽としてどうやって生きていけばいいんだ?』
あの時清子は気が動転していて、雅の小説をちゃんと読んだのはこれが初めてだった。
普段は大人しくて感情的じゃない雅がこんなことを書いていたなんて。
ぶつ切りの小説の一端に雅の心を感じ、清子の目頭が熱くなる。
しかし今は感動している場合ではない。
清子の滲む視界の中でで画面は上へ流れていき、今度は新たに美杏が送ってきた画像が拡大される。
改めてしっかりと見れば、こちらは枠で分かれていない。
『どうやら俺は異世界転生してしまったようだ。
名前はウィウット。
おそらく一五、六才だろうけど、正確にいくつくらいなのかよく覚えていない。
一応名家の生まれで、騎士として育てられたみたいだ。
気がついたのは昨日だ。
俺は伊藤雅だって、それまで思い出すこともそう自覚することもなかったのに、急に俺が俺だってことを思い出した。
文字も言葉も、日本とは違うし、他の外国語のようにも聞こえない。
ただ、理解は出来る。ウィウットとしての生活のおかげだと思う。
不思議な感覚だ。
きっと、バイリンガルとかいう人種もこういう気分なのかもしれない。
不思議な感覚だ。
急に伊藤雅としての記憶を取り戻したからなのか、今はウィウットとしてのこれまでをあまりはっきりとは思い出せない。むしろ俺が伊藤雅だって意識のほうが強いくらいだ。
妹の美杏がいて、父親が文博、母親は清子という名前だったこと。
高校一年の秋頃から引きこもりを始めて、そこから五年間ずっとまともに部屋から出ていなかったことを、昨日のことのように思い出せる。なぜ。』
本当だ、全然違う。
清子は思わず口に出して呟いていた。
瞬間、電話が鳴る。
静まり返った街に清子の着信音はあまりにも大きく、驚いて清子は急いで部屋の中に入った。
スマートフォンの画面に表示されているのは、知らない番号だ。
すると。
「ど、なんだっ?」
音に驚いたのか、鈴希がデスクから跳ね起きる。
「あ、ごめんなさい。知らない番号から電話が……」
知らない番号。
清子に浮かんでいたのは、あの医師だった。
でも違うかもしれない。
躊躇する清子に、鈴希は「今すぐ切って!」と声を上げた。
「早く、電源も!」
その勢いが凄まじく。清子は言われるまま通話せず、スマートフォンの電源を落とした。
「あ、あの……」
何を怒っているのだろう。そう感じて怯える清子だが。
「迂闊だった……っ」
鈴希がそう言ったので、清子は自分が何か逆鱗に触れたわけではないことを悟る。
「あの、今の番号は……」
「警察です、たぶん。まさかこんなことで追跡までされるなんて思わなかった……」
落ち込んだように言い、鈴希は忙しなくクローゼットから寝袋を取り出して床に広げた。
その行動の意味こそわからないものの。警察、追跡の二単語が示す自分の危機は容易に理解できた。
清子もつられたように慌てて、鈴希のそばに寄る。
「さ、早く。これに雅くんを」
「は、はい」
そうして二人で雅を寝袋で包むと、今度は「車に乗せましょう」と鈴希が言う。
正しく、成すがままだ。
下僕のように清子は行動し、鈴希の車に雅を押し込んだ。
それから鈴希がまた部屋の中へ走っていくので清子もついていこうとすると。
「先に乗っててください。荷物を取ってきます」
「はい」
そう言って鈴希は清子に車の鍵を渡した。
本当に、なんて手際のいい人なのだろう。
清子は、事態に反して悠長ことを思いながら助手席に乗り込んだ。
その十数秒後。鈴希は部屋から飛び出してくるなり、険しい表情を浮かべて運転席の扉を勢いよく開けて言う。
「そっちじゃなくて、運転席」
「え、でも……」
「運転してましたよね。だったら早く」
「は、はい」
なぜ、どうして。
清子には色々と聞きたいことはあったが、運転席でカーナビを操作する鈴希には質問できるような隙を感じられない。
作業は一分ほど。
それを終えると、鈴希は清子を運転席に押し込む。
「住所は設定しました。あとはこっちで連絡しておくんで、指示に従ってください」
「え、あの、そのどこに……」
「会社です。それと、スマホの電源は絶対に入れないで」
「わかりました。でも……」
言い掛けた清子の話しも聞かず、「わたしは時間を稼ぎます」とだけ言って車の扉は閉められた。
早すぎる。何もかもが。
呆然とする清子の視線の先で、鈴希が道を気にしながら発進を促していた。
こうなれば躊躇は意味がない。
清子が車を進めたそのバックミラー越し、道端でスマートフォンを耳に当てる鈴希の姿が映っていた。
◯
来た道を戻るように、カーナビは指示した。
つい今しがたあれこれと言われ疑問を抱いていた清子も、この光る画面と機械音声には従う以外なんの感情も浮かばない。
ただ淡々とハンドルを切り、道を進んでいく。
いずれ見知った大通りにぶつかり、清子が左右を確認しているその時だった。
一台のパトカーが左折しようという清子の対向車線の向こうからやってくる。
警察、追跡。
鈴希の言葉が蘇る。
それがもし、GPSを使ったものなのだとすれば、ウインカーが点滅するはず。
ゴクリ、清子の喉が鳴った。
お願いだから違って欲しい。
ハンドルを左に回しながら、あくまで冷静を装う清子の脇をパトカーが通り過ぎる。
ウィンカーは。
去り際にサイドミラーで確認するも、パトカーは道を直進していった。
「よかった……」
安堵して長く息がもれる。
「もしかして、鈴希さんのおかげかな」
そこでようやく鈴希が慌てていた理由に気づき、彼女を疑っていた時間こそ無駄だったのだと清子は悟った。
だから、「大丈夫」。
「あの人が言うなら……大丈夫……。信じなきゃ」
目が覚めたような気分だった。
信じる。
ありきたりでよく耳にする言葉が、口に出せばこんな力を持っていたなんて。
「信じる……」
試しにもう一度口にしてみると、ふいに笑みがこぼれた。
なんだかおかしなことをしている気分になって、危機的状況なのにも関わらずだ。
どの店も眠り、街頭とコンビニばかりが明るい夜の大通り。
時折すれ違う車のヘッドライトの強い光を浴びていると、自分が高速移動でもしているような錯覚に陥った。
清子は、あのタイムスリップをする映画を思い出していた。
男性目線で描かれた作品だったので、女性の清子にはいまいちそのロマンは理解できなかった。
でも、面白かった。
単純にそう思えたのは、あの映画に描かれる未来が今あるものの進歩した形だったから。
想像できる未来。
逆にそうじゃなきゃ理解できないしつまらない。
そう思っていたからだ。
でも、今は違う。
想像できない未来のほうがいい。
だってそうでなければ……。
清子は、バックミラーに目をやった。
「……雅」
口を真一文字に結び表情を引き締める清子の耳に、カーナビが右折を告げる。
そうして交わる大通りを進み、それからまた別の大通りへ入り。
清子は名前こそ知っていても一度も降りたことのない駅の前を通り過ぎた。
そこからまた何度か角を曲がると、周囲は背の高い建物といえばマンションばかりの風景に変わる。それも高層と呼べるようなものではなく高くて十五階未満のありふれたものだ。
そういう土地柄か一軒家はあまり見かけず、代わりに工場やシャッターの下ろされた独立店舗が多い。
鈴希が住んでいる地域とはまた別の知らない街だ。
時刻は三時頃。
当然人通りは見えず。二車線で中央線があるところ道幅は鈴希の街よりも随分広いが、街頭はあそこよりも少なくて暗い。
そこを今走っているのは清子の運転する車だけだ。
一応逃走中である清子は、ヘッドライトが明るくて怪しまれないかと不安を感じていた。
その最中、「目的地周辺です」とカーナビが言う。
慌てて清子は車を道の端に寄せた。
「どこだろう……」
清子が何を探せばいいのかもわからず辺りを見回していると。
突然助手席の窓を、コツ、コツ、と鳴らす何かが。
驚いて清子が振り向くと、暗い影の中に男が立っていて、躊躇なく助手席の扉を開けた。
「そこに入れてください」
「え、は、はい」
男が親指で示すのは、清子がいる位置よりも少し手前のビルだ。
サイドミラーで確認して、そこの二階より上から明かりがもれていることに今気づいた。
清子は並走する男に合わせて車を数メートルだけバックさせ、そのまま男が示すビルの一階に車を入れる。追って、一階が点灯。
清子は一台だけ停めてある黒いワンボックスカーの隣に車を停めた。
「あの、よろしくお願いします」
車を降りて第一声、清子は車椅子の隣に立つやけに凛とした黒い長髪の、タバコの香りがする男に頭を下げた。
「こちらこそ、お会いできて光栄です。伊藤さん」
そう言って男は例の如く名刺を差し出した。
そこには、代表、と書いてある。
「霧峰善です」
まずは息子さんを降ろしましょう。
言われて雅を車椅子に乗せ、そして三人はエレベーターに乗り込む。